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第八話:『兗州の風雲』

第八話:『兗州の風雲』

荒野に蒔かれた種は、やがて力強い稲穂へと育った。曹操は、まるで盤上の駒を動かすかのように大胆不敵な奇策で黄巾賊の主力を打ち破り、降伏した三十万の兵を「青州兵」として自軍に組み入れた。その武威は、周辺の豪族たちを震え上がらせた。

一方、陳宮は、その卓越した行政手腕で、荒れた土地に法を敷き、流民を呼び戻し、屯田制の基礎を築いていった。彼は夜を徹して竹簡に向かい、兗州の隅々まで統治の網を張り巡らせた。曹操が武力で獲得した土地に、陳宮が秩序と豊かさをもたらす。曹操が決断し、陳宮がそれを形にする。二人の才能は、まるで噛み合った歯車のように、見事な調和を見せた。

数年が経ち、兗州は驚くべき速さで復興を遂げた。かつて盗賊が横行した道は安全になり、市場には活気が戻った。荒れ地だった場所には青々とした稲穂が揺れ、民の顔には笑みが浮かぶようになった。中原に、新たな一大勢力が誕生したのだ。

この時期、二人の間には、呂伯奢の夜に生まれた亀裂を埋めるかのような、穏やかで充実した時間が流れていた。陳宮は、軍議の席で曹操の常識外れな発想に心からの感嘆を送り、曹操は、陳宮が作り上げた堅牢な統治システムに全幅の信頼を置いた。酸棗で見た偽善者たちの宴とは違う、本物の国創りがここにはあった。

ある日のこと、軍議の席で一人の男が推挙された。名は満寵。さほど高くない家柄の出身だが、法に明るく、剛直な性格で知られる男だった。名門出身の将がその出自をあげつらい、難色を示す。その時、曹操は普段の冗談めかした態度を消し、静かだが、有無を言わせぬ声で言った。

「家柄が何だ。俺の父は宦官の養子ぞ。この曹孟徳の軍に、古いしがらみは不要。才ある者は出自を問わず、志なき者は家柄を問わず、用いることはない。満寵、明日より法の整備を任せる。異論は聞かぬ」

その毅然とした態度に、陳宮は胸のすく思いがした。これこそが、腐りきった漢王朝を内側から破壊する、新しい時代の風なのだと。だが同時に、彼の「才」を絶対視する姿勢に、一抹の危うさも感じていた。徳や仁義といった、数字では測れぬ価値が、この男の天秤の上ではあまりに軽く扱われているのではないか、と。

ある月夜、復興した城の最も高い楼閣から、二人は眼下に広がる街の灯りを見下ろしていた。かつては闇に沈んでいた大地に、無数の灯火がまるで星屑のように瞬いている。

「見ろ、公台。あれこそが、お前の言う『民の声』の輝きではないか。俺の剣と、お前の筆が、この光を守ったのだ」

曹操の声には、深い満足感が滲んでいた。その言葉に、陳宮の胸に熱いものがこみ上げた。そうだ、これこそが自分の見たかった光景だ。

「…はい。孟徳殿。この光景を見るためならば、いかなる苦労も厭いませぬ」

陳宮は、心からの言葉を返した。呂伯奢の夜の悪夢も、この確かな現実の前には色褪せていくようだった。

曹操は、遠い故郷の方向を見つめながら、独り言のように続けた。

「俺はな、公台。人が、その生まれではなく、その志と才でのし上がれる国が見たいのだ。誰かに媚びることなく、己の力で道を切り拓ける。そんな当たり前のことが、この国では奇跡なのだ。だから俺は、この兗州から、それを始める」

その横顔は、野心家のものではなく、純粋な理想を語る青年のように見えた。その輝きに、陳宮は中牟の牢で見た光の正体を、改めて確信しようとした。

だが、曹操は言葉を継いだ。その声は、先ほどまでの温かみとは打って変わって、氷のような響きを帯びていた。

「そのためには、俺の言葉が法となり、俺の意志が天意となる必要がある。邪魔する者は、たとえ旧来の徳であろうと、名門の権威であろうと、全てこの手で排除する」

陳宮は、その言葉に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。脳裏に、あの薄暗い中牟の牢での対話が、鮮やかに蘇る。

『民の声が、俺の法となり、俺の道となる』

あの時、私は「民の声が」という言葉に魂を震わせた。だがこの男は、初めから「俺の法となり」という部分にこそ、その本質を置いていたのかもしれない。その主語が「民」から「俺」へと、いつの間にか、完全にすり替わっている。

眼下に広がる無数の灯火。それは彼の目には、もはや民の営み一つ一つではなく、自らの功績を示す巨大な一枚の絵画としてしか映っていないのだ。

成功は、人を高めるが、同時に魔物をも育てる。強大な力を手にした曹操の中で、かつての「民の声となる」という理想が、「民を支配する」という傲岸な野心へと変質し始めていることに、陳宮は、もはや目を逸らすことのできない確信として気づいていた。

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