第七話:『荒野に種を』
第七話:『荒野に種を』
酸棗の盟が瓦解した後、曹操と陳宮はわずかな手勢を率いて兗州の東郡に拠点を構えた。だが、彼らを待っていたのは、理想を語るにはあまりに過酷な現実だった。
「報告! 西の黒山賊が、濮陽の城下に迫っております!」
「申し上げます! 兵糧が、あと三日にて尽き果てます!」
政庁には、絶望的な報告ばかりが飛び交った。黄巾の残党、袁術や陶謙といった周辺勢力からの圧力、そして何より深刻なのは、度重なる戦乱と蝗害で土地が荒れ果て、民が一人もいない「死の土地」が延々と広がっていることだった。
「孟徳殿、このままでは我らは干上がるのを待つだけです。今こそ、あの策を実行に移すべき時かと」
軍議の席で、陳宮は固い表情で進言した。彼の指し示す竹簡には、大胆不敵な「屯田制」の草案が記されていた。それは、流民を兵士としてだけでなく、農民として組織し、土地を分け与え、収穫の一部を税として納めさせるという、この時代にはまだ前例のない制度だった。
古参の将の一人が、顔をしかめて反論する。
「陳宮殿、それは机上の空論だ。武器を持たせるならまだしも、鍬を持たせて土地を耕させるなど。彼らは兵士であり、農夫ではない。それに、土地は豪族たちのもの。勝手に分け与えれば、彼らの反発は必至ですぞ」
政庁内が、不安と懐疑の空気でざわつく。その時、曹操が玉座から立ち上がり、皆を見渡した。
「ならば聞くが、他に道はあるか? 飢えた兵に、忠義を説けるか? 何もない土地から、どうやって兵糧を生み出す? 陳宮の策は、ただの策ではない。我らがこの荒野で生き抜くための、唯一の道だ」
彼は陳宮の肩を叩き、続けた。
「俺は武力で敵を払い、土地を確保する。公台、お前はその土地に法を敷き、民を呼び戻し、種を蒔け。俺がお前の剣となり、お前が俺の畑となれ。二人で、この死んだ土地に、もう一度命を吹き込むのだ」
その言葉は、不安に満ちていた者たちの心を奮い立たせた。
それからの日々は、まさに死闘だった。曹操は鬼神の如く馬を駆り、奇策縦横に賊を討伐した。一方、陳宮は不眠不休で政務に没頭した。彼は自ら役人を率いて荒れ地を測量し、流民たち一人一人と膝を突き合わせて語り合った。「ここでは、お前たちは搾り取られるだけの存在ではない。この土地の主となれ。流した汗は、必ずやお前たちの糧となる。それを、この曹操様と、私、陳宮が約束する」
ある日、陳宮は土地の分配を巡って、曹操と些細な議論を交わした。陳宮は、家族構成や土地の肥痩を細かく考慮した、公平だが複雑な分配案を提示した。だが、曹操は眉をひそめ、竹簡のその部分を指で叩いた。
「公台、気持ちは分かる。だが、それでは時間がかかりすぎる。まずは一律に分け与えよ。多少の不公平は呑み、全体の収穫量を上げることが肝要だ。大局を見ろ。水路を引くのに、一つ一つの石の形を気にしていては河は治まらん」
その言葉は、冷徹なまでに合理的だった。陳宮は一瞬、喉に小骨が刺さったような違和感を覚えた。聖人の書には、為政者の徳は細部に宿るとある。だが、この乱世では、彼の言う通り速度こそが命なのかもしれない。陳宮は「これもやむを得ぬこと」と自らを納得させ、彼の案に頷いた。
それでも、陳宮の誠実な言葉と、曹操軍の厳格な軍規は、次第に人々の心を掴んでいった。初めは半信半疑だった流民たちも、本当に土地と種籾が与えられると知るや、その目に生気が戻り始めた。
やがて、春が来た。乾ききった大地に、緑の芽吹きが見え始めた時、曹操と陳宮は、小高い丘の上からその光景を眺めていた。
「…見たか、公台。芽が出たぞ」
泥と汗にまみれた曹操の顔に、子供のような笑顔が浮かんだ。
「はい、孟徳殿。芽が出ました」
陳宮もまた、込み上げる熱いものを抑えきれなかった。それは、ただの麦の芽ではない。この荒野に蒔かれた、二人の理想の、最初の芽吹きだった。この確かな手応えこそが、呂伯奢の夜に生まれた心の壁を、少しずつ溶かしていくのだった。あの時の小さな違和感も、この確かな手応えの前では些細なことに思えた。
だが、陳宮は見逃さなかった。一面の緑を見つめる曹操の横顔に、一瞬、全てを支配下に置いた領主の、満足げな影がよぎったのを。その瞳は、民の喜びを映しているようでいて、自らが成し遂げた「結果」という数字を見ているかのようでもあった。
(この男となら、本当に国が創れるかもしれぬ…)
陳宮の心に、再び確かな光が灯り始めた。しかしその光は、以前とは異なり、強すぎるがゆえに生まれる、かすかな影の輪郭をも伴っていた。