第六話:『酸棗の盟』
第六話:『酸棗の盟』
呂伯奢の夜が明けてから数日、陳宮の心は重く沈んでいた。焚き火を囲む夜も、二人の間に交わされる言葉は少なくなった。彼は隣を走る曹操の横顔を盗み見るたびに、自問を繰り返していた。(あの男の非情さは、この乱世を終わらせるための必要悪なのか。それとも、ただの抑えきれぬ獣性なのか…? 俺は、この手に賭けてもいいのだろうか)。中牟の牢で見た光は、あまりに強烈だったが故に、その影もまた深く、陳宮の心を蝕んでいた。
反董卓連合軍の結成。その報せは、そんな彼の心の闇を振り払う、一筋の希望の光に思えた。
酸棗の地に、綺羅びやかな諸侯の旗が林立し、天を衝くかのような勢いで翻る。漢室の復興を誓う声が大地を揺るがし、集いし兵士たちの鎧が陽光を反射して眩く輝いた。その光景に、彼は、腐りきった漢王朝にも、まだこれだけの忠義と気概が残っていたのかと、胸を熱くした。そうだ、大義の前では、個人の過ちなど些細なことだ。呂伯奢の夜の記憶は、この天下を正すという、より大きな目的の前に、心の隅へと押しやられていった。
だが、その希望は、宴の酒が冷めぬうちに、色褪せた失望へと変わった。
盟主となった名門・袁紹をはじめ、諸侯たちは、互いに牽制し合い、目前の勢力争いに汲々とするばかり。董卓という巨悪を前に、誰もが兵を惜しみ、動こうとしない。昼夜開かれる宴席では、勇ましい言葉が美酒と共に飛び交うが、それはただの空虚な響きに過ぎなかった。彼らの目は、洛陽ではなく、互いの領地と野心にしか向いていなかった。
陳宮は、その偽善に満ちた空気に、吐き気すら覚えた。ここは、忠義の士の集まりなどではない。己の利を貪る狼たちの、仮初めの宴だ。彼はその夜、一人天幕の外で冷たい風に当たりながら、己の甘さを噛みしめていた。(これほどの偽善者たちを相手にするには、清廉な理想だけでは何も成し遂げられぬ。曹操の持つ、あの冷酷なまでの現実主義…あの『毒』こそが、この腐りきった世を浄化する唯一の武器になるのかもしれない)。それは、彼が自らの理想を、意図的に捻じ曲げ、現実と向き合うことを決意した瞬間だった。
その中で、曹操だけが異質であった。
彼は、諸侯の無能さにいち早く見切りをつけ、陳宮が必死で止めるのも聞かず、わずか五千の兵を率いて果敢に董卓軍の先鋒、徐栄に挑んだ。結果は、惨敗だった。味方の誰一人として、援軍を送らなかったからだ。だが、その敗北は、彼の名を天下に知らしめる結果となった。彼は、ただ一人、本気でこの乱世と戦っている男だった。
泥と血にまみれ、命からがら帰還した曹操の姿を見た時、陳宮の心は激しく揺さぶられた。諸侯が彼を嘲笑する中、陳宮は、その敗北の中にこそ真の英雄の姿を見た。
(この男は、本物だ…)
陳宮は、傷ついた曹操の姿に、改めて舌を巻いた。彼の冷徹さは、確かに乱世を終わらせる力を持っている。そうだ、この男なのだ。この男こそが、口先だけの偽善者たちの集まりの中から、真の天下を掴むのだ。呂伯奢の夜に芽生えた疑念は、この男の持つ圧倒的な行動力の前に、再び「大義のための、やむを得ぬ影」として心の奥底に封じ込められていった。自分は間違っていなかったのだと、もう一度信じたい。陳宮は、そう自らに強く言い聞かせていた。
曹操の非情さは、この腐りきった世を正すための、やむを得ない毒なのだ、と。
そう自らを納得させ、彼は傷ついた主に肩を貸した。
「孟徳殿、ご無事で」
「公台か…見ての通り、無様を晒したわ」
曹操は自嘲気味に笑ったが、その瞳の奥の炎は少しも衰えていなかった。その炎を見て、陳宮は静かに決意を固めた。
(私は貴公の『光』だけでなく、その『影』をも受け入れよう。この乱世を終わらせるためならば…この陳宮、貴公の最も深き理解者となり、その道を照らす影となろう)。
その日から、陳宮は再び、曹操の影となり、その知略の全てを捧げることを誓った。