第五話:『天に背く者』
第五話:『天に背く者』
呂伯奢の夜が明けてから、二人の間に言葉はなかった。
あの惨劇の夜、陳宮は物音に目を覚ました。少し離れた茂みで、曹操が一人、激しく嘔吐していた。父の友を、その一家を手にかけてしまった罪悪感が、彼の体を蝕んでいたのだ。「……これでよかったのだ……」そう呟く声は、もはや覇気なく震えていた。
陳宮は、その弱さから生まれる非情さに言葉を失った。だが同時に、彼は冷徹に自覚した。この男の光も闇も、全てを理解した上で、この劇薬を自分が御さねばならない。理想の国を築くためならば、自分もまた、この罪を共に背負う共犯者とならねばならぬ。その苦い覚悟が、彼の心を固めさせた。
今、野営の焚き火が、向かい合って座る二人の男の顔を、不気味に照らし出している。呂伯奢の血の匂いは、まだ衣服に染み付いているかのようだ。陳宮は、自分の指先にこびりついた、乾いた血の感触を拭うこともできずに、ただ炎を見つめていた。
そして、彼はついに沈黙を破った。彼の声は、怒りよりも、深い悲しみと、打ち砕かれた信頼への絶望に震えていた。
「孟徳……。あれは、過ちだ。我々が殺めたのは、追手ではない。我々を信じ、もてなそうとしてくれた、罪なき人々だ。恩人さえも、貴公は手にかけてしまった。我らが目指すのは、民を救う道ではなかったのか。彼らの顔を、貴公は忘れたのか」
曹操は、火を見つめたまま、静かに答えた。その横顔は、まるで石像のように感情を読み取らせなかった。
「公台よ。お前はまだ、この乱世の本当の恐ろしさを分かっていない。ここでは、一瞬の油断、一瞬の情けが、命取りになる。俺が呂伯奢の一家を殺さねば、我々が殺されていたかもしれん。俺が呂伯奢本人を殺さねば、我々の逃亡が露見し、追手に捕らわれていたかもしれん。これは、生き残るための、必然であった」
「必然だと?」
陳宮の声が、鋭くなる。彼は、思わず立ち上がり、曹操を睨みつけた。
「仁なくして、王道は成らず。民の声を聞く者が、無辜の民を殺めては、その天命は偽りとなる! 貴公がやっていることは、己の欲望のために民を虐げる董卓の暴虐と、一体何が違うのだ!」
その言葉に、曹操は初めて、炎から目を離し、陳宮を射抜くように見つめた。その瞳には、もはや廃寺で語り合った友に向けられる温かみはなく、ただ冷徹な為政者の光だけが宿っていた。
「違う。全く違う。董卓は、己の欲望のために殺す。俺は、天下のために殺すのだ。公台よ、よく聞け。俺は、この身を汚し、あらゆる非難を受けようとも、この乱世を終わらせる。そのために、千の罪を犯すことも、万の屍を踏み越えることも、ためらいはしない。目の前の小さな義に囚われて、天下万民を救うという大きな義を見過ごすことこそ、最大の罪悪だ」
「それは詭弁だ!」陳宮は叫んだ。「天下とは、個々の民の集まりだ! その一人を不当に殺めることは、天下そのものを傷つけることだ! それが分からぬ者に、天下を語る資格はない!」
陳宮は、言葉を失った。曹操の論理は、あまりに明快で、あまりに冷酷で、そしてあまりにも揺るぎなかった。陳宮が信じる「天」は、一人ひとりの民の営みの総体であり、その一つ一つが尊いものであった。だが、曹操が見ている「天」は、遥か高みから、個々の犠牲を大局のための数字としてしか見ない、巨大で冷たい概念そのものであった。二人の見る「天」は、似て非なるものであったのだ。
陳宮の心に、曹操への決定的な不信感が芽生えた。この男と共に歩む道は、自らの魂を売り渡す道ではないのか。中牟の牢で見た光は、ただの幻だったのか。
しかし、同時に、彼は曹操の言葉の持つ、恐ろしいほどの説得力も感じていた。この男でなければ、この乱世は終わらないのではないか。この男の冷徹な決断力こそが、偽善と私欲にまみれた諸侯を打ち破り、真の秩序をもたらすのではないか。董卓という巨悪を討つという大義の前で、陳宮は自らの疑念を心の奥底に押し殺すしかなかった。
二人の間に、見えざる壁が生まれた。曹操は、天下統一という大義のため、己の心を殺す覚悟を決める。一方、陳宮は、その大義に潜む底知れぬ闇から、目を逸らすことができなかった。(今は、この男の力を借りるしかない…)そう自分に言い聞かせながらも、彼の魂はすでに別の器を探し始めていた。