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第四話:『呂伯奢の夜』

第四話:『呂伯奢の夜』

逃避行の中、同志としての絆を深めていた二人だったが、その輝かしい誓いに、最初の影が差す。それは、突然で、そして残酷な形で訪れた。

数日後、疲労困憊の二人は、曹操の父の旧友である呂伯奢の屋敷に身を寄せることになった。呂伯奢は、旧友の子の来訪を心から喜び、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして二人を迎え入れた。その飾り気のない歓待に、追われる身であった陳宮の心は温かく解けていくのを感じた。老人は、一家に最高の酒を用意するよう言い付け、自ら隣村へと買い出しに出かけていった。その背中を見送りながら、陳宮は久しぶりに人の情の温かさに触れた気がしていた。

その夜、陳宮は、旅の疲れから、つかの間の眠りについていた。ふと、彼は物音で目を覚ます。隣の部屋から、微かな刃物を研ぐ音と、ひそひそ話が聞こえてくる。

「……準備はいいか」

「……ああ、でかいやつだ。一気にやらねば、暴れるかもしれんぞ……」

断片的に聞こえる言葉。陳宮の背筋を、冷たい汗が流れ落ちた。報奨金目当てか。あの温かい歓迎は、我々を油断させるための芝居だったというのか。彼は、隣で寝ていた曹操の肩を掴み、揺り起こした。小声で、しかし切迫した声で事態を告げる。

その瞬間、曹操の目に宿った光を、陳宮は見た。それは、廃寺で未来を語った同志の光ではなかった。それは、追い詰められた獣が放つ、猜疑心と暴力性に満ちた、氷のように冷たい光であった。陳宮の言葉を最後まで聞く前に、曹操はすでに抜き身の剣を手にしていた。

「待て、孟徳!」

陳宮は、慌てて曹操の腕を掴んだ。その瞳に宿る凶光に、彼は焦りを覚えた。

「早まるな! あの話しぶり、豚でも屠って我々をもてなす宴の準備やもしれぬ! このような温かいもてなしをしてくれた人々だ。今一度、確かめるべきだ!」

だが、曹操は陳宮の手を振り払い、低い声で唸った。

「公台、お前は甘い! この乱世で、疑わしきは殺すまでだ! 万が一、彼らが追手に通じていたらどうする! お前の青臭い理想論で、我々は二人とも首を晒すことになるのだぞ!」

陳宮の制止の声は、届かなかった。曹操は一言も発さず、音もなく隣の部屋へと忍び寄る。そして、次の瞬間、部屋の中から、甲高い悲鳴と、肉を斬り裂く生々しい音が響き渡った。陳宮が恐怖に駆られて駆けつけると、そこには地獄があった。血の海の中に、呂伯奢の一家が倒れている。その傍らには、宴のために屠られるはずだった、大きな豚が転がっていた。彼らが手にしていたのは、客をもてなすための刃物であったのだ。

「孟徳、これは……」

陳宮の言葉は、最後まで続かなかった。曹操は、返り血を浴びた顔で、まるで路傍の石でも蹴るかのように、冷たく言い放った。「疑わしきは、殺すまでだ」。

二人は、血の匂いが満ちる屋敷を飛び出し、馬を駆った。陳宮の頭の中は、真っ白だった。罪悪感と混乱が、彼の思考を麻痺させていた。だが、その道中で、酒甕を手に、上機嫌で戻ってくる呂伯奢本人と鉢合わせてしまう。老人は、何が起こったかも知らず、にこやかに二人に声をかけた。

「おお、孟徳殿。もう行かれるのか。最高の酒が手に入ったのに。さあ、戻って一献」

陳宮は、罪悪感に顔を伏せることしかできなかった。謝らなければ。だが、声が出ない。彼の隣で、曹操はこともなげに馬を止め、老人と二言三言言葉を交わした。そして、すれ違いざまに、その背中を、一刀のもとに斬り捨てた。

噴き出した血潮が、陳宮の頬を濡らした。崩れ落ちる老人の体。その手から滑り落ちた酒甕が、地面に叩きつけられて割れる音が、やけに大きく響いた。陳宮は、信じられないものを見る目で、曹操を睨みつけた。

「なぜだ! この人は、我々を裏切ってはいなかった! もう、分かっていたはずだ!」

陳宮が叫ぶと、曹操は斬り捨てた老人の亡骸から目を逸らし、震える声で言った。

「……これでよかったのだ、公台。これで、我々は生き延びられる」

彼は、血に濡れた自らの剣を握りしめ、まるで自分に言い聞かせるように、何度も何度も呟いた。

「『我、天下の人に背くとも……天下の人に我を背かせじ……』」

その横顔は、冷酷な覇王のものではなく、犯した罪の重さに怯え、己を必死で正当化しようとする、ただの弱い男の顔に見えた。

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