第三話:『同志の誓い』
第三話:『同志の誓い』
逃亡の道は、過酷であった。だが、陳宮の心は、県令として過ごしたどの年月よりも、鮮やかに燃え上がっていた。
昼は山野の獣道に息を潜め、鳥の声にさえ追手の幻聴を聞いた。夜は星明りの下を馬で駆け、冷たい風が頬を切り裂く。腹を満たすのは、土の香りがする野草の根か、運よく手に入れた石のように硬い乾酪のみ。それでも、苦痛は感じなかった。隣には、未来の天下を語り合う同志がいる。その事実が、あらゆる困難を希望の色に変えていた。
ある夜、打ち捨てられた廃寺で、二人は小さな焚き火を囲んでいた。崩れた仏像が、揺れる炎に照らされて不気味な影を落としている。昼間の緊張から解放され、疲れた体を横たえながら、曹操が不意に口を開いた。
「公台、お前ほどの知恵者が、なぜ俺のような素性も知れぬ男に賭けたのだ? 俺の父は宦官の養子だぞ。清流派を気取る名門の士大夫たちからすれば、唾棄すべき存在だろう」
その問いには、純粋な疑問と、相手の真意を測るような鋭さが同居していた。陳宮は、ぱちぱちと音を立てる炎を見つめながら、静かに答えた。
「孟徳殿。人の価値は、その出自という名の杯の形ではなく、何を志すかという、注がれる酒の質で決まるもの。私は、東郡で見てきました。磨き上げられた名門の杯が、濁った私欲の泥水しか溜められぬのを、嫌というほどに。ですが、貴公という存在には、天下の苦悩を全て飲み干してもなお、余りあるほどの広さと深さがある。そして何より、理想という名の、清らかな水を渇望している。私は、その杯を満たす一助となりたいのです。この陳宮の生涯を懸けて」
陳宮の言葉は、熱を帯びていた。それは、ただの追従ではない。彼の魂の奥底からの、真実の叫びであった。
曹操は、しばらく黙って陳宮の顔を見つめていたが、やがてその口元に、満足げな笑みが浮かんだ。彼は身を起こし、焚き火の向こうの陳宮に手を差し伸べた。
「ならば、公台。お前は俺の知恵の腕となれ。俺がお前の断罪の剣となろう。お前が道を照らし、俺が道を切り拓く。この乱世を終わらせ、万民が安らかに眠れる夜を取り戻す。その暁には、この国の最も高い場所から、共に天下を見渡そうではないか」
その声は、廃寺の闇に力強く響き渡った。
陳宮は、迷わずその手を握り返した。ごつごつとした、力強い手だった。二人の手が、焚き火の光の下で固く握り締められる。この手があれば、理想の国を現実に築ける。そう信じた。
だが、焚き火の光に照らされた曹操の瞳の奥に、一瞬、ぞっとするほど冷たい光が宿ったのを、彼は見逃さなかった。獲物を見据える虎の光だ。陳宮は、その光から目を逸らし、握った手の温もりだけを、必死に信じようとした。この男となら大丈夫だ、と。