第二十二話:『残響』
第二十二話:『残響』
翌朝、嵐は嘘のように去っていた。
洗い流された空は、痛いほどに青く澄み渡っていた。水嵩を増した泗水の濁流だけが、昨夜の嵐の激しさを物語っていた。
この日、下邳城の白門楼の上では、人中の呂布と謳われた猛将が、その波乱の生涯に幕を下ろしていた。だが、英雄の魂に生涯消えぬ傷を刻んだ真の戦いが、この薄暗い地下牢で行われたことを知る者は、誰一人としていなかった。
牢番が、恐る恐る牢の中を覗くと、陳宮は、壁に背をもたせたまま、静かに息絶えていた。その顔は、まるで長年の旅を終えた旅人のように、穏やかであったという。
陳宮の死の報せは、曹操の陣営に静かに、しかし確かな重みを持って広がった。
牢番からの報告を受けた曹操は、しばし無言であった。彼の脳裏には、まだ嵐の夜の問いがこだましていた。側近の一人が「丞相、裏切り者の一族の処遇は、いかがいたしましょう」と進言した瞬間、曹操の目に一瞬、憎悪の炎が宿った。だが、それはすぐに深い苦悩の色に変わった。彼は、まるで自分に言い聞かせるように、低い声で命じた。
「……公台の家族には、一切手を出すな。彼の故郷に送り届け、生涯、不自由のない暮らしを保証せよ。これは、俺と公台の問題だ。他の誰にも、関わらせるな」
そのあまりに寛大な処置に、居合わせた将たちは息を呑んだ。勝者は、天下の全てを手に入れたはずだった。だが、たった一人の敗者の死によって、その心に決して埋まらぬ穴が穿たれたことを、彼らはこの時、悟ったのである。
曹操への帰順を決め、新たな任地を与えられるのを待っていた張遼は、その報せを兵卒から聞いた。彼は、愛用の矛の手入れをする手を止め、しばし無言で北の空を見つめたという。彼の脳裏には、陳宮が描いた鮮やかな戦術の数々が蘇っていた。濮陽の炎、定陶の奇襲。その知略は、常に曹操軍を脅かし続けた。だが同時に、その策が、主君である呂布の気まぐれと猜疑心によって、いともたやすく瓦解していく様も、彼は目の当たりにしてきた。
(公台殿…貴公の知恵は、まさに天下無双であった。だが、貴公は器を間違えた。いや、あるいは、貴公の描く理想を収められる器など、この乱世には、どこにも存在しなかったのかもしれぬ…)
張遼は、陳宮の死に、理想家の悲劇的な末路を見た。そして、自らがこれから仕えるであろう男、曹操の持つ、恐ろしいほどの現実主義の重さを、改めて感じていた。生き残るために、彼は現実を選んだ。だが、理想に殉じた男の死は、彼の心に小さな棘となって、残り続けるだろう。それは、武人としての忠義とは別に、一人の人間として、決して忘れることのできない、ある種の憧憬にも似た痛みであった。
一方、嵐の夜以来、曹操は誰とも口を利かず、自らの天幕に閉じこもっていた。
牢を出た後、彼は荀彧や程昱の前では何事もなかったかのように振る舞い、呂布の残党への処断を冷静に下した。だが、たった一人になった瞬間、張り詰めていた虚勢の糸が切れ、あの問いが、まるで遅効性の毒のように、彼の魂を蝕み始めていた。
下邳城の戦後処理、論功行賞、次の軍事行動の計画。為すべきことは山積しているにもかかわらず、覇者は、まるで魂を抜かれたかのように、動かなかった。
側近中の側近である荀彧が、意を決して天幕を訪れると、曹操は、ただ一人、地図を睨みつけていた。だが、その目は、どこの城も、どこの軍勢も見てはいなかった。彼の魂は、まだ、あの暗い牢獄に囚われていた。荀彧は、これまで幾度となく、苦境にある主君の姿を見てきた。だが、今の彼は、それらとは全く異質であった。それは、敗北への恐怖ではなく、自らの存在そのものが根底から揺らいでいるかのような、深い動揺であった。
「…荀彧よ」
曹操は、ぽつりと呟いた。その声は、ひどくか細く、まるで子供のようだった。
「俺は、間違っているのか…?」
荀彧は、言葉に詰まった。彼は、漢王朝の復興を願い、曹操の類稀なる才能に、その望みを託した。曹操の非情な手段も、乱世を終わらせるための必要悪だと、自らに言い聞かせてきた。だが、今、主君の口から漏れた、その根源的な問いに、彼は、安易な答えを返すことができなかった。
彼の脳裏に、今は亡き旧友の幻影がよぎった。『その国に、民の心はありますか』。そうだ、公台は初めから分かっていたのだ。この覇道が、いずれ人の心を置き去りにするであろうことを。
(このお方ほどの傑物が、たった一人の男の死によって、これほどまでに揺らぐとは…陳宮公台は、最後に、一体何を為したのだ…?)
荀彧は、主君の揺らぎの中に、自分自身の信念の揺らぎをも見た気がした。(漢室の安寧のためだ…今は、この劇薬に賭けるしかないのだ…)彼は自らの心を偽り、その揺らぎを心の奥底に封じ込めた。
「…天下は、丞相の英知を求めております。今は、ただ前進あるのみかと」
そう答えるのが、精一杯であった。
曹操は、それ以上何も言わず、再び地図に目を落とした。だが、その背中は、天下をその手に収めつつある覇者のものではなく、たった一人の男に、魂の急所を撃ち抜かれた、傷ついた獣のようであった。
陳宮の死は、物理的な終焉でありながら、勝者の心に、決して消えぬ「残響」を残した。その問いは、やがて、荀彧自身の魂をも、苛むことになるとは、まだ誰も知らなかった。




