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第二十一話:『一撃』

第二十一話:『一撃』

その夜、嵐が来た。

天が裂けるような雷鳴が轟き、風が牢の隙間から吹き込み、松明の炎を狂ったように揺らした。その嵐と共に、曹操がやってきた。その日の彼は、下邳城の戦後処理をほぼ終え、呂布軍の主だった者たちの降伏を取り付けた直後であった。勝利の酒に酔い、その顔は、覇者の自信と、それを超えた神懸かり的な昂揚に紅潮していた。彼は、もはや陳宮を説得しに来たのではない。あの論戦に、完全な終止符を打ち、自らの完全な勝利を、最後の抵抗者の前で誇示し、その魂を完全に粉砕しに来たのだ。

「聞いたか、公台!」

曹操は、鉄格子を掴み、叫んだ。その声は、雷鳴と張り合うかのようであった。

「呂布の残党は全て掃討し、あの誇り高き張遼も、ついに俺に膝を屈したわ! 思い出せ、公台!お前が言った民の心とやらを!その民は今、俺の法の下で安寧を得ているのだ!俺の覇道こそが、お前の夢見た理想郷への唯一の道だったのだ!結果が全てを証明した!さあ、言え!この俺が正しかったと!お前の理想は、所詮、青臭い戯言だったと認めろ! 天は、この俺に味方している! 俺こそが天命! 俺こそが、この乱世の法なのだ!」

自己陶酔の頂点で、曹操は自らを神々の列に置いた。彼の言葉は、もはや陳宮にではなく、彼自身の心を蝕む、かすかな疑念を振り払うための、空虚な絶叫であった。

その時である。

全ての音が、止まった。

嵐の轟音も、風の咆哮も、松明の爆ぜる音も。曹操の荒い息遣いさえも。世界から一切の音が、まるで分厚い壁に遮られたかのように、一瞬にして消え去った。

牢の中央に座す、男がいた。

これまで石のように動かなかった男が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、顔を上げた。

陳宮の双眸。それは、もはや人の瞳ではなかった。憎しみも、悲しみも、憐れみさえも、人間のあらゆる感情が燃え尽きた後に残る、ただ真実そのものを映し出す、静かで、底なしの深淵。それは極限まで研ぎ澄まされた剣の切っ先であり、夜明け前の最も深い闇に輝く、ただ一つの星であった。

鑑定人として、理想の器を探し求めた青年。

同志を見出し、未来を夢見た男。

友の非道に絶望し、袂を分かった士大夫。

復讐心と自己矛盾に苛まれながら、泥水をすすった軍師。

そして、自らの罪と向き合い、全てを受け入れた、一人の敗者。

彼の全生涯、その数十年の苦悩と葛藤の全てが、ただ一言のために、この一瞬のために、凝縮され、研ぎ澄まされ、昇華されていた。

彼は、その深淵の瞳で、曹操を真っ直ぐに見つめた。

「孟徳」

懐かしい字で呼びかけられた曹操の肩が、わずかに震えた。嵐の音も、勝利の喧騒も、全てが遠のく。ただ、その声だけが、彼の世界に響いた。

「貴公は、いつから『天』になったのだ?」

閃光が、走った。

それは、言葉ではなかった。

それは、音ですらなかった。

その一撃の後、世界は再び、完全な無音に支配された。嵐の轟音さえも、この二人の男を避けるように遠のいていく。時間そのものが停止したかのような、永遠とも思える静寂の中で、それは、先の論戦の全てを超越し、陳宮という男の全存在を懸けて放たれた、魂そのものの閃光であった。

その一撃は、曹操が十重二十重に纏ってきた、覇道という名の鎧、功績という名の盾、非情という名の仮面、その全てを、まるで紙のように貫き、彼の魂の、最も柔らかな、最も無防備な核心を、正確に撃ち抜いた。

その問いは、無数の問いを内包していた。

『天』とは、我々が中牟の牢で共に救おうと誓った、民の声そのものではなかったか。

『天』とは、我々が呂伯奢の屋敷で議論した、人としての「義」という名の、遥かなる理想ではなかったか。

『天』とは、貴公が徐州で踏みにじり、俺が下邳で裏切った、あの無数の竈の煙ではなかったか。

お前が今立っているその場所は、天の上か、それとも、お前自身の欲望という名の、孤独な玉座の上か。

お前は、いつから、自分を過ちを犯さぬ全能の存在だと錯覚するようになったのだ。

お前は、いつから、ただの人であることをやめてしまったのだ。

曹操は、答えられなかった。その問いは、彼の魂の、最も柔らかな、最も無防備な核心を、正確に撃ち抜いた。

だが、彼は天下の覇者であった。一瞬、激しく揺らいだ瞳の奥で、必死に虚勢を張り、乾いた笑みを浮かべた。

「…戯言を。天とは、この俺が創る秩序そのものだ」

そう吐き捨て、彼は努めてゆっくりと、しかしどこか硬直した足取りで踵を返し、牢を去った。その背中は、勝利を確信した者のそれではなく、致命傷を負いながらも、敵に弱みを見せまいとする獣のようであった。英雄の仮面は、内側から砕け散った。だが、その破片を繋ぎ止め、彼は最後まで覇者を演じきろうとしたのだ。彼が牢の戸口を抜けた瞬間、まるで堰を切ったかのように、再び雷鳴が轟き、風が牢の隙間から狂ったように吹き込んできた。その姿は、まるで亡霊から逃げるかのようであった。

その背中を見送る陳宮の口元に、かすかな、本当に微かな笑みが浮かんだ。それは、勝利の笑みではなかった。自らの人生を賭した最後の一撃が、寸分の狂いもなく的を射たことを確信した、職人のような、満足の笑みであった。

だが、その笑みはすぐに消え、彼の瞳に、ほんの一瞬、深い哀しみの色がよぎった。それは、道を違えた友への、憐れみだったのかもしれない。あるいは、共に荒野に種を蒔いた、遠い昔を懐かしむ、ただの男としての未練だったのかもしれない。

(…孟徳。もし、あの夜に戻れるのなら…)

脳裏にかすめたあり得べからざる夢想を、彼は自ら振り払うかのように、静かに目を閉じた。

彼の魂は、この一撃を放つためだけに、この世に留まっていたのかもしれない。

その役目を終え、彼の瞳から、ゆっくりと光が消えていった。

嵐は、まだ続いていた。だが、彼の心の中は、静かだった。

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