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第二話:『流星、相会す』

第二話:『流星、相会す』

報告に来た兵士の言葉に、陳宮の眉がぴくりと動いた。「都からのお尋ね者、曹操と名乗っております」。その名は、彼も聞き及んでいた。騎都尉として、洛陽の北門に五色の棒を掲げ、法を犯す者は身分を問わず打ち据えたという、あの気骨ある若者か。董卓の暴政に、一矢報いようとした唯一の男。その名が、死を待つしかなかった陳宮の心に、小さな波紋を広げた。

「…牢へ案内せよ」

彼は、静かに、しかし抑えきれない衝動に駆られて席を立った。

自ら牢へと足を運ぶ。階段を下るにつれ、湿った土と黴の匂いが濃くなり、松明の光も頼りなくなる。ひんやりとした空気が、肌を刺した。牢の最も奥。そこに、男は座っていた。旅の汚れにまみれ、衣服はところどころ裂けている。だが、その瞳には、囚人たる絶望の影は微塵もなかった。

陳宮は、鉄格子の前に立った。息を飲む。薄暗い牢の中で、男の双眸だけが異様な光を放っていた。その瞳は、格子越しの陳宮という役人でも、己を縛る運命でもなく、この乱世そのものの、さらにその先の未来を見据えているかのようだった。その瞳の奥に宿る野心の炎が、ギラリと光った瞬間、陳宮は全身に鳥肌が立つのを感じた。あれは、ただの囚人の目ではない。あれは、獲物を前にした虎の目だ。天下という、巨大な獲物を。

その夜、陳宮は役人としての職務を逸脱した。人払いをし、灯火と粗末な酒を手に、再び牢を訪れた。

「県令殿が、罪人に酒とは。酔わせて、口を割らせるおつもりか」

男は、嘲るように言った。だが、その声には敵意よりも、好奇の色が濃かった。

「…語り合いたいだけだ」

陳宮は、格子越しに酒を差し出しながら答えた。

その夜を皮切りに、陳宮は県令としての尋問という名目で、数日にわたり曹操との対話を重ねた。

灯火を挟んで、二人は語り明かした。曹操は語った。法家の厳格な法治と、儒家の徳治を両立させる国家の姿を。荒れ果てた土地に民を帰し、屯田によって食糧を確保し、国を富ませるという壮大な構想を。それは、陳宮が書斎で夢想していた、ただの理想論ではなかった。実現への道筋が見える、緻密で、大胆で、そして何より血の通った設計図であった。

だが同時に、陳宮はその男の瞳の奥に、目的のためには手段を選ばぬ非情な光も見て取っていた。「呂伯奢の一件では、確かにやりすぎたかもしれぬ。だが、あの状況で他に道があったか? 理想だけでは、己の首が飛ぶだけだ」そう語る曹操の言葉は、陳宮が信じる為政者の徳とは相容れない。この男は、天下を救う光明を宿す一方で、全てを焼き尽くしかねない業火をも内包している。危険な劇薬だ。だが、この乱世という病を治せるのは、この劇薬しかないのかもしれない。陳宮の心は、激しく揺れ動いた。

語らいが熱を帯びた頃、陳宮は、自らの魂の奥底にある、長年の問いを口にした。

「孟徳殿。失墜したのは漢王朝だけではありませぬ。天そのものが、民を見放したかのようです。私が信じる天とは、高き天子の座にあるものではない。それは、名もなき民草一人ひとりの竈から立ち上る炊煙であり、子をあやす母の歌であり、老人が畑を耕す、その営みの総体です。真の天命とは、その声なき声に応えることにあるはず。貴公には、その声が聞こえますか?」

曹操は、牢の小さな窓から見える三日月を見上げ、しばし黙した後、陳宮の目を真っ直ぐに見据え、確信に満ちた声で答えた。

「聞こえるとも、公台。痛いほどにな。だが、応えるだけでは足りぬ。嵐の中で助けを求める声に応えるだけでは、次の嵐でまた同じ悲劇が繰り返されるだけだ。俺は、その声そのものとなり、嵐を鎮め、河を治め、新たな天を創るのだ。民の声が、俺の法となり、俺の道となる」

陳宮は、その言葉に雷に打たれたような衝撃を受けた。天命とは、天子を通じて下されるものではなく、民の総意そのものである、と。そしてこの男は、その民意を体現し、自らが天命となろうとしている。なんと大胆で、なんと魅力的な思想か。この男の器ならば、法家の説く「覇道」の厳しさと、儒家の説く「王道」の徳を、その巨大な器の中に両立させられるやもしれぬ。

見つけた、と。この男こそが、探し求めていた天命の器である、と。

数日間の葛藤の末、陳宮は、もはやためらわなかった。彼が、県令という地位、築き上げてきた名誉、そして故郷に残した家族という守るべき全てを、この男に賭けることを決意した。

旅立つ前夜、彼は故郷の妻に宛てて一通の書簡を記した。『私は今、一つの大きな賭けに出る。それは、この乱世に苦しむ全ての民という、より大きな家族の未来のためだと信じてほしい。許せ、とは言わぬ。ただ、私の信じる道を進むことを、分かってほしい』。

自らが罪人となり、この男を牢から解き放つのだ。それは、論理や計算を超えた、魂の衝動であった。

「…孟徳殿。私は、貴公に賭ける」

その声は、震えていた。

「明日、この牢の扉は開く。共に、この乱世を駆けよう」

夜明け前、二人は馬を駆って中牟の県城を後にした。東の空が白み始める中、陳宮は、隣を走る曹操の横顔に、新しい時代の夜明けを見た気がした。背後には、捨て去った過去。そして目の前には、果てしない未来が広がっていた。

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