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第十九話:『城、魂の論戦』

第十九話:『城、魂の論戦』

数日後、再び現れた曹操は、戦略を変えていた。

彼は、過去の記憶という名の、甘い毒を携えてきた。

(ただの裏切り者なら、ここで斬れば終わる。だが、こいつは違う。陳宮公台は、俺が兗州で敷いた法の、その設計者の一人だ。あの『屯田制』の理念を、俺以上に理解している男だ。こいつを生かして、俺の正しさを認めさせ、再び側に置くことこそが、俺の覇道が単なる武力による圧政ではないことを天下に示す、何よりの証明になる…!)

今回は一人ではなく、供回りを下がらせ、牢番に静かに命じた。「もし俺が声を上げたら、すぐに兵を連れて飛び込んでこい。それまでは、何人たりとも近づけるな」。最低限の警戒心を見せながらも、それは、単なる旧友への感傷ではなかった。天下人として、最も価値のある駒を、是が非でも手駒に加えんとする、冷徹な計算が根底にあった。彼は自ら鉄格子の鍵を開けて牢の中へと入ってきた。勝利者の驕りの下に、その計算を隠しながら。

「覚えているか、公台。中牟の夜、我々は語り明かしたな。あの時の月は、確か三日月であったか。お前は俺の目に『天下を救う光』を見たと言った。あの時の、お前の瞳の輝きを、俺は生涯忘れん。お前は、この曹孟徳を、ただの逃亡者から『英雄』にしてくれた最初の男だ。我々は、ただの主君と家臣ではなかったはずだ。共に天下を憂い、同じ夢を見た、唯一無二の同志ではなかったのか」

その言葉は、確かに陳宮の心の琴線に触れた。彼の閉ざされた瞼が、わずかに震える。あの夜の熱気、未来への希望、若き日の高揚が、死んだはずの心にかすかな温もりを甦らせる。曹操は、その微かな反応を見逃さなかった。

彼は、陳宮の前に置かれた、濁った水の入った粗末な器に気づき、眉をひそめた。彼は、自らの水筒を取り出し、その水を捨てると、綺麗な水を注いでやった。

「こんなものを飲んでいたのか。お前ほどの男が、これではあんまりだ。さあ、飲め」

陳宮は、その曹操の行為を、ただ黙って見ていた。そして、彼は、その清らかな水が満たされた器に、おもむろに、指先をそっと浸した。

ぽつん、と小さな波紋が広がる。彼は、その波紋が揺れ、やがて消えるまで、じっと、ただじっと、水面を見つめ続けていた。

曹操の言葉も、彼の親切も、もはや、陳宮の心に何の波紋も起こさない。友情という名の清らかな水は、もはや、数多の血と裏切りによって、濁りきってしまったのだ。その無言の、しかし絶対的な拒絶を前に、曹操の顔から懐柔の笑みが消えた。

「……まだ、徐州のことを言うか!」

曹操の声が、低く唸る。彼の握った拳が、わなわなと震えていた。

「あれは、必要な犠牲であった! 乱世を終わらせるには、時に、非情の決断も必要となる! 荊を刈るのに、いちいち草花を憐れんでいては道は開けん! 理想だけを語り、手を汚すことを恐れる者に、天下は救えんのだ! お前はそれが分からなかったから、呂布のような男にすり寄ったのだ!」

陳宮は、その激情を、ただ静かに受け流していた。

曹操は、それでも諦めなかった。彼は、陳宮という名の鏡に、自らの正しさを映し出すことを渇望していた。三度目の訪問で、彼は未来の構想という、最後の切り札を切った。

「俺は、法を整備し、屯田制で民を食わせる。それだけではない。俺は『唯才是挙』を掲げ、家柄や品行ではなく、ただ才能のみで人材を登用する。腐りきった漢の推挙制度を、俺が破壊するのだ。そこでは、民は飢えることなく、才ある者は出自を問われず登用される。お前が夢見ていた国の姿に、近いとは思わんか? もう、いいだろう、公台。俺を認め、俺の元へ戻れ。共に、この国を完成させようではないか」

その時、陳宮は、初めてゆっくりと顔を上げた。その目は、もはや何の感情も映さず、ただ静かに曹操を見つめていた。そして、彼は、まるで風が囁くような、か細く、しかし鋭い声で、ただ一言だけ、問い返した。

「……その国に、民の心はありますか」

その問いは、長く続いた静寂を破り、二人の魂の論戦の火蓋を切る一言となった。

「……貴様」

曹操の顔から血の気が引いていった。彼の口から、憎悪の音が漏れた。「貴様は、俺の覇道を、ただの圧政だと言いたいのか!」

「圧政とは言わぬ」陳宮の声は、変わらず静かだった。「だが、貴公の言う秩序とは、民の心なくして成り立つのか? 兗州で我らが見た灯火は、貴公の覇道のための駒だったのか? 貴公が『大義』と呼ぶもののために流された血の河を、貴公は正視できるのか。貴公の正義は、ただの『力』の言い換えに過ぎぬ!」

初めて受ける、正面からの反論。曹操の顔から懐柔の笑みが消え、冷たい覇王の顔が覗いた。

「貴様……! 理想だけを語り、手を汚すことを恐れる者に、天下は救えんのだ! 荊を刈るのに、いちいち草花を憐れんでいては道は開けん! 俺は、この身を汚してでも、この乱世を終わらせる! それがお前の言う民の心とやらに応える、唯一の道だ!」

二人の「正義」が、薄暗い牢の中で激しくぶつかり合う。曹操は己の功績を盾に、陳宮は民の心を盾に、息詰まる論戦が始まった。その応酬は、夜を徹して続いたが、決して交わることはなかった。

自らの理想の核心を、根底から否定された曹操は、憎悪の言葉を吐き、牢を飛び出していった。その足取りは、来た時とは比べ物にならないほど乱れていた。

鏡は、彼の望む姿を映さなかった。それどころか、彼が最も見たくない、彼自身の心の闇を、無慈悲に映し出したのだ。

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