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第十八話:『鏡、過去からの亡霊』

第十八話:『鏡、過去からの亡霊』

下邳城の地下牢は、湿った土と、絶望の匂いが満ちていた。それは、単なる比喩ではなかった。長雨で染み出した泥の匂い、腐りかけた藁の匂い、そして、ここで命を落としていったであろう名もなき者たちの、消えぬ無念の匂いが、重く澱んだ空気となって漂っていた。

牢番の男は、松明の灯りを頼りに、薄暗い通路を歩いていた。彼の役目は、この牢の最も奥に繋がれた、大罪人の見張りであった。男の名は、陳宮公台。かつては曹操孟徳の腹心であり、そして、最も手ひどく彼を裏切った男。

牢番は、鉄格子の隙間から、中の男の様子を窺った。

陳宮は、壁に背をもたせ、ただ座していた。重い鉄の枷は、彼の痩せた手首にはあまりに大きく、その冷たさは骨身に染みているはずだった。だが、彼の表情からは、何も読み取れなかった。敗北という名の、そして自らの選択が招いた数多の悲劇という名の、見えざる枷に、彼の魂は完全に縛られていた。彼は、もはや生きることに何の執着も示さず、ただ、自らの死を待つだけの、抜け殻のようであった。

そんな静寂を破り、その男は、現れた。

曹操孟徳。この下邳城を陥落させ、今や天下に最も近い男。彼が、供も連れず、たった一人でこの薄汚い地下牢に降りてきたことに、牢番は肝を冷やした。

曹操は、あえて威圧的な態度は取らなかった。その手には、上等の酒が入った瓢箪が一つ。彼が纏う、香の焚きしめられた絹の衣服の香りが、牢の淀んだ空気を切り裂く。彼は鉄格子の前にあぐらをかき、まるで昔、陣中で語り合った夜のように、一方的に語り始めた。

「公台よ。この俺を見ろ。天下は、この俺の手に収まりつつある。結果が、俺の正義を証明している。お前の見ていた夢は、所詮、現実を知らぬ者の戯言であったのだ」

曹操は、瓢箪の口を開け、酒を一口あおる。芳醇な香りが、牢の黴臭い空気をわずかに和らげた。その仕草には、揺るぎない自信と、陳宮に対する、あからさまな優越感が滲んでいた。

「俺と共にいれば、お前はこの勝利の美酒を、この席で味わえたものを。なぜ、呂布のような、勇のみが取り柄の、中身のない男を選んだ? 己の感情に溺れ、大局を見誤ったお前の姿は、滑稽ですらあったぞ。俺には理解できん」

だが、陳宮は、答えなかった。彼は壁に背をもたせ、ただ目を閉じていた。その瞼の裏には、徐州の赤い川が、今も流れていた。まるで、曹操の言葉など、耳に入っていないかのように。

沈黙は、時に最も雄弁な拒絶となる。曹操は、そのことを知っていたが故に、隠していた苛立ちが声に滲んだ。彼は瓢箪を音を立てて床に置き、立ち上がった。

「……まあいい。お前がその頑なな沈黙で、己の愚かさを噛みしめる時間も必要だろう。敗者には、それくらいの慈悲を与えてやる」

そう言い捨て、曹操は去った。その背中には、拒絶された者の、わずかな焦りの色が浮かんでいた。

曹操にとって、陳宮は、自らの過去を映す「鏡」であった。彼は、この鏡に、今の自分の姿を「正しい」と認めさせることで、自らの覇道を、真に完成させようとしていたのかもしれない。心のどこかで、この男の承認を渇望していたのだ。だが、その最初の試みは、鏡の、完全なる沈黙によって、無残に打ち砕かれた。

二人の男の、息詰まる心理戦の火蓋が、静かに切られた瞬間であった。勝者は、まだ真の勝利を得ていなかった。そして敗者は、最後の戦いを、この暗い牢獄で始めようとしていた。

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