第十七話:『天罰の雨』
第十七話:『天罰の雨』
そして、運命の下邳城。
曹操の大軍に完全に包囲され、城の周りを流れる沂水と泗水の流れを引き込まれた城は、泥水の中に浮かぶ孤島と化した。兵糧は尽き、疫病が蔓延し、兵士たちの士気は地に落ちている。そんな中、呂布は、もはや現実から逃避するように酒と女に溺れるだけの日々を送っていた。城内には、腐臭と絶望が充満していた。
陳宮は、最後の策を献じた。それは、己の命をも賭した、起死回生の策であった。
「将軍! 私が城兵の半数を率いて、今宵、城外に討って出ます。曹操軍の兵糧線を断ち、敵陣を混乱させる。その間に、将軍が城を固守し、機を見て内外から挟撃するのです! これが、我らが生き残る最後の道!」
呂布は、酒に酔った赤い目で陳宮を見つめ、一瞬、その策の妙に心を動かされたようだった。だが、その時、彼の妻・厳氏が帳の奥から現れ、泣きながら夫にすがりついた。
「あなた様! 陳宮は、昔から曹操と親しい男。彼を城外に出せば、兵を連れて曹操に寝返るに決まっております! 私たちを見捨てて、手柄を立てるつもりなのです!」
その言葉は、猜疑心に満ちた呂布の心に、毒のように染み込んだ。彼は、あっさりとその策を取り下げた。
「…ならぬ。城を離れることは許さん」
その一言が、陳宮の、そして下邳城の全ての運命を決定づけた。
陳宮は、よろめくように呂布の天幕を後にした。泥水に浸かった城壁の上で、彼は一人、うずくまっていた。降りしきる冷たい雨が、彼の体を打つ。もはや天を仰ぐことすらしなかった。天に問うべき言葉など、もはや尽きたからだ。彼の目は、足元に広がる、濁った水面を見つめていた。
その水面に、疲れ果て、絶望に歪んだ、自分自身の顔が映っている。
(…これが、俺の顔か。理想を語り、天下を憂いていた男の、成れの果てか…)
その時、水面に映った自分の顔が、ふと、かつて東郡で見た、あの農夫の顔と重なった。太守に全てを搾り取られ、ただ地面を見つめるしかなかった、あの無力な民の顔と。
(結局、俺も同じではないか。曹操も、呂布も、そしてこの俺も、己の理想や野心、復讐心のために、民を戦に巻き込み、苦しめているだけだ。俺は、彼らを救うどころか、彼らと同じ絶望の淵に、今、立っている…)
雨水が、彼の頬を伝う。
(そうだ、これは涙ではない。これは、天罰の雨だ)
理想を掲げながら、結局は私怨に走り、空虚な器に己の野望を託したことへの、罰なのだ。泗水の赤い流れも、この下邳の濁流も、全て自分が招いたものなのかもしれない。
全てを失った。探すべき器も、掲げるべき理想も。城壁の上で雨に打たれながら、陳宮は自嘲の笑みを浮かべた。(鑑定人などと、思い上がっていたものだ…)外の世界への問いを諦めた彼の意識は、初めて、自らの魂という最後の深淵へと向かい始める。その暗闇の底で、彼は何を見出すのだろうか。




