第十六話:『墓標の策』
第十六話:『墓標の策』
濮陽での決定的な失敗の後、呂布軍は曹操の巧みな兵站攻撃の前に、じりじりと追い詰められていった。後がない定陶の戦いを前に、陳宮はそれでも、最後の知恵を振り絞っていた。一度は心が折れかけたが、彼の策を信じ、命を懸けてくれる将がいる。その忠義に報いるため、彼はまだ諦めるわけにはいかなかった。
完成した策を手に、彼はまず、軍の中でも最も信頼のおける二人の将、高順と張遼を自らの天幕に招いた。
「…見事だ」地図を食い入るように見ていた張遼が、感嘆の声を漏らした。「曹操の焦土作戦の裏をかく、鮮やかな一手。兵站さえ断てば、飢えた敵兵は自壊しましょう。しかし、公台殿。この策はあまりに見事すぎるが故に、我らが主君の気性を無視している。これほど地味で緻密な策の真価を、将軍がご理解されるとは到底思えませぬ。武人である我々には、貴公の描く戦が、少々理想に過ぎるように思えるのです」
傍らの高順も、重々しく頷いた。「公台殿。この策、机上の空論ではない。我ら陷陣営と、張遼殿の騎馬隊が連携すれば、必ずや成功する。だが、我らが主君は、その策の真価を理解されぬ。それどころか、貴公の才気を疎ましくさえ思っておられる節がある。このままでは、我らは自滅するだけだ」
高順の言葉に、陳宮は静かに首を横に振った。「いや、高順殿。責められるべきは将軍ではない。この器では曹操を討てぬと知りながら、他に道を見つけられなかった、この私の非才だ。だが、私がこの男を選んだ。ならば、この限られた手札で、勝つための最善手を、私は最後まで探し続ける」
彼の言葉には、自己憐憫のかけらもなかった。ただ、自らの選択への、あまりに重い責任だけがあった。高順は、そんな陳宮の肩を、無言で、しかし力強く叩いた。そして、去り際に一言だけ残した。「それでも、私は蟷螂の斧を信じたい。貴公の知恵が、その斧なのだと。我ら武人は、貴公の策を信じ、命を懸けるだけだ」
その言葉は、陳宮の心をわずかに慰めると同時に、さらに重い十字架を背負わせた。自分の策が、高順のような忠義の士を、無駄死にさせているのではないか、と。
その懸念は、軍議の場で最悪の形で現実となる。陳宮が策を説明し、高順と張遼が力強く補佐する。だが、呂布の妻・厳氏の縁者である魏続が、嘲るように口を挟んだ。
「お待ちください、将軍! 陳宮殿は所詮、曹操の元から流れてきた新参者。兵站切りなどという地味な戦で、将軍の武勇が天下に鳴り響くものですか! これは息のかかった高順殿と張遼殿に手柄を立てさせ、我らをないがしろにする魂胆に違いありませんぞ!」
その言葉は、呂布の虚栄心と猜疑心を的確に刺激した。
「黙れ!」呂布は陳宮を一喝した。「回りくどい策は認めん!」
そして、戦闘が始まると、その魏続が曹操に内通し、呂布軍は総崩れとなった。陳宮は、燃えさかる自軍の陣を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。彼の心は、もはや何の感情も映さない湖面のようになっていた。
その夜、陳宮は一人、天幕の中で地図を睨みながら、自問した。
(俺は、一体何をしている? 俺は、誰のために戦っているのだ?)
答えは、どこにもなかった。
彼は、軍議で退けられた、起死回生の奇襲策が記された竹簡を手に取った。高順や張遼が「見事だ」と称賛した、自らの知恵の結晶。それを、彼はしばらく見つめていた。
そして、おもろに立ち上がると、その竹簡を、自らが寝起きする粗末な寝台の、一番深い藁の底へと押し込んだ。それは、捨てるのでも、燃やすのでもない。自らの理想の死骸を、誰にも見られぬよう、自らの体の下へと葬り去る行為であった。明日から、自分はこの「墓」の上で眠り、そして目覚めるのだ。
もはや、彼の心に新たな策が生まれることはなかった。ただ、軍師の深い孤独と、自らが犯した罪の重さだけが、彼の心を鉛のように蝕んでいった。理解者はいる。だが、声は届かない。下邳へと追い詰められていく道程で、彼はただ、自らの終焉の地が近づいていることだけを感じていた。




