第十五話:『濮陽の炎、軍師の絶望』
第十五話:『濮陽の炎、軍師の絶望』
焦燥感に駆られる陳宮に、反撃の絶好機が訪れた。濮陽城内の富豪、田氏が密かに内応を申し出てきたのだ。曹操軍に偽りの降伏をさせ、油断した敵本隊を城内深くまで誘い込み、四方から火を放って一網打尽にする。陳宮はこの千載一遇の好機を逃さず、夜を徹して完璧な火計を練り上げた。これが成功すれば、曹操の命運は尽き、戦局は一気に覆る。
軍議の席で、陳宮は地図を広げ、その策を熱弁した。呂布も、敵を罠にかけるという胸のすくような筋書きに気を良くし、珍しく素直に頷いた。
「面白い! さすがは陳宮だ。曹操めを、この俺の手で焼き殺してくれるわ!」
その子供のような無邪気な言葉に、陳宮はわずかな希望を抱いた。この戦にさえ勝てば、この男も少しは変わるかもしれぬ。理想の君主とはいかずとも、共に戦うべき主として、新たな関係が築けるやもしれぬ、と。
運命の夜。空には雲が垂れ込め、月明かりすらない。夜陰に乗じて、曹操軍の先鋒が東門から入城してくる。陳宮は、城壁の上からその光景を食い入るように見つめていた。冷たい夜気が肌を刺し、心臓が激しく高鳴る。勝てる。この一戦で、全てを取り戻せる。徐州で流された血の報いを、あの男に受けさせることができる。
敵軍の主力が完全に罠にかかったのを確認し、陳宮は天に届かんばかりに声を張り上げた。
「放て!」
合図と共に、城壁や家々の屋根に待ち構えていた伏兵が一斉に火矢を放った。乾燥した建材はたちまち燃え上がり、城内は瞬く間に炎の海と化した。阿鼻叫喚の地獄絵図の中、混乱に陥った曹操軍は逃げ場を失い、右往左往するばかり。炎は風を呼び、業火は天を焦がす勢いで燃え盛った。曹操は文字通り、焼き殺される寸前まで追い詰められていた。
「今です、将軍! 全軍で突撃し、曹操の首を取られよ! この機を逃してはなりませぬ!」
陳宮は、本陣にいる呂布に向かって絶叫した。勝利は目前だった。
だが、呂布は動かなかった。彼は恍惚とした表情で、燃え盛る城をただ見つめていた。
「見ろ、陳宮。美しいだろう。俺の武の前に、曹操の城が燃え落ちていく。この炎こそ、俺が奴に勝利した証だ!」
彼は戦場の現実を忘れ、子供のようにはしゃぎ、眼前の壮麗な破壊に酔いしれていた。突撃の絶好機を、全く意に介さなかった。
その瞬間、陳宮の全身から血の気が引いていくのが分かった。愕然とした。この男にとって、戦とは天下盗りのための戦略ではなく、己の武勇を誇示するための、ただの舞台なのだ。私が築き上げた理想郷も、この完璧な策も、全てはこの男の虚栄心という名の砂の上に建てられていたに過ぎなかった。
好機を逸した者は、必ずその代償を支払わされる。それが、戦場の鉄則だ。陳宮の絶望的な予感通り、曹操は、猛将・典韋の鬼神の如き奮戦によって、奇跡的に炎の中から脱出した。
陳宮は、城壁の上で、遠ざかっていく曹操軍の旗を、ただ茫然と見つめていた。彼の胸に去来したのは、好機を逃した悔しさだけではなかった。それは、呂布という男の、器の小ささに対する、底なしの絶望であった。
(この男では、決して、曹操は討てぬ…!)
城壁の上で膝を突きながら、陳宮は悟った。復讐のために選んだ器は、あまりにも空虚で、あまりにも軽かった。彼が信じた一筋の光明は、今、自らが放った炎によって、完全に焼き尽くされた。




