第十三話:『復讐の器』
第十三話:『復讐の器』
曹操の下を去った陳宮が、次に選んだ器は、呂布奉先。人中の呂布、馬中の赤兎と謳われた、当代随一の武勇を持つ男。
この選択は、陳宮にとって最大の自己矛盾であった。理想の君主を探し求めた旅は、いつしか、かつての同志への復讐の旅へと変貌していた。彼の心は、復讐心に燃えていたのではない。むしろ、自らが力を与えてしまった曹操という怪物を、自らの手で止めなければならないという、悲壮な責任感に満ちていた。「毒を以て毒を制す」。暴走する曹操の武力を止められるのは、この乱世において呂布の武力をおいて他にない。あの危険極まりない獣を、自分が御者となりて民を守る盾とする。それが、かつて曹操に与した自らの罪を償う、唯一の道だと信じた。
彼は、放浪の末、旧知の仲である陳留の太守・張邈の元に身を寄せていた。張邈は、数少ない、曹操との旧友であり、その変貌を共に憂うことができる人物だった。
ある夜、二人は密かに語り合った。月明かりが差し込む静かな部屋で、張邈は重い口を開いた。
「公台よ。孟徳は、もはや我らの知る孟徳ではない。彼のやり方は、天下を獲るかもしれぬが、それは、我らの望む天下ではない。あの男の目は、もはや人を見ておらぬ。ただ、地図の上の駒を見ているだけだ」
張邈の言葉に、陳宮は静かに頷いた。そして、彼は、自らの胸に秘めていた策を、初めて口にした。その声は、熱を失い、乾いていた。
「張邈殿。今こそ、好機です。曹操は、徐州にその兵力のほとんどを注ぎ込んでいる。我らが築き上げた本拠、兗州は、今や空っぽに等しい。ここに、呂布将軍を迎え入れ、曹操の背後を突くのです」
「呂布だと…?」張邈は、眉をひそめた。「あの男は、丁原を裏切り、董卓を裏切った、信義なき男。彼を迎え入れるのは、虎を寝室に招き入れるようなものではないか」
「その通りです」と、陳宮は、自嘲気味に笑った。その笑みは、彼の顔に深い皺を刻んだ。「ですが、虎でなければ、龍は狩れませぬ。呂布は、確かに信義なき男。しかし、その武は本物。そして何より、彼は『空っぽ』です。理想も、思想も、何もない。だからこそ、我らが、その器の魂となればよいのです」
張邈はなおも不安げな顔を崩さない。それを見て、陳宮はさらに言葉を続けた。その声には、冷徹なまでの覚悟が宿っていた。
「張邈殿、ご安心を。虎は猛々しいですが、腹を満たし、その牙の向かう先を定めてやれば、ただの番犬にもなりましょう。私が、その手綱を握ってみせます」
呂布の陣営を訪れた陳宮は、まずその異様な熱気に圧倒された。
ちょうど演習の最中だった。赤兎馬にまたがった呂布が、たった一騎で数十人の兵士を相手にしていた。その方天画戟の一振りは嵐を呼び、地を割り、兵士たちはまるで木の葉のように吹き飛ばされていく。それは、戦術や兵法といった理屈を超えた、ただ圧倒的な「個」の武。神話の戦神がごときその姿に、陳宮はしばし言葉を失った。
演習が終わり、呂布は馬から降りると、打ち負かされて泥にまみれた兵士の肩を、屈託なく笑いながら叩いた。「まだまだだな! だが、骨はあったぞ! 褒美に酒だ、今夜は飲むぞ!」その裏表のない豪快さに、兵士たちは恐怖ではなく、心からの畏敬と親愛の眼差しを向けていた。
彼の周りには、理屈や計算を超えた、原始的なカリスマ性が渦巻いていた。その傍らには、陷陣営を率いる高順と、若き猛将・張遼が、静かに控えている。彼らの佇まいは、この混沌とした熱気の中にあって、異質なほどに冷静だった。その目は、主君の武勇を誇らしく見つめながらも、どこかその危うさを見透かすような、複雑な色を浮かべていた。
陳宮はその夜、高順と短く言葉を交わす機会を得た。
「高順殿。貴公ほどの将が、なぜ呂布将軍に?」
陳宮の問いに、高順はしばし黙した後、重々しく答えた。
「我らが主は、難しい理屈は好まれぬ。策謀も、駆け引きも、肌に合わぬようだ。だが、裏切らぬ限り、部下を家族のように遇し、その武功を誰よりも喜び、称えてくださる。その一点において、腹に一物ある名門の輩より、よほど信が置ける。戦場で、計算なく背中を預けられる。我ら武人にとって、それ以上の主君がありましょうか。我ら武人は、信じてくれる主のために命を懸ける。それだけのことだ」
陳宮は、その言葉に呂布という男の本質の一端を垣間見た気がした。この男は、確かに思考は浅い。だが、その獣じみた純粋さが、かえって人の心を惹きつけるのか。そして何より、この単純さ故に、御しやすい。
(この獣じみた純粋さ…思考の浅さ…これならば御しやすい。高順や張遼のような駒は私の策通りに動かせばよい。この呂布という空っぽの器に、私の知恵を注ぎ込み、曹操を討つ。あの男が踏みにじった理想を、この私の手で……いや、違う。理想など、もはやどうでもいいのかもしれぬ。ただ、あの男が、この私の鑑定眼を裏切ったことが許せないのだ。俺こそが奴を見出したのだぞ! その俺を裏切ったのだ! 曹操にできなかった真の覇道を、この私が呂布を使って成し遂げてやる…!)
それは、曹操の変貌に絶望した彼の心に芽生えた、新たな、そして歪んだ傲慢さであった。人を『器』として鑑定し、意のままに操ろうとすること。その傲慢の病に、自分自身もまた深く侵されていることに、この時の彼はまだ気づいていなかった。そしてその決意の底には、理想の挫折という悲劇に酔う自己憐憫と、かつての友への私怨、そして何より、自らの知略で天下を動かしてみたいという、書生じみた抑えがたい功名心が、一条の黒い川のように濁って流れていることも。
彼は、呂布という空っぽで危険な器に、自らの知略と復讐心を注ぎ込み、かつての同志を討つための道具とすることを決意した。




