第十二話:『天の涙』
第十二話:『天の涙』
その夜、陳宮は、曹操の陣営を去る決意を固めた。
彼の心は、凍てつく冬の湖のように、冷え切っていた。曹操への怒り、というよりは、自らの鑑定眼の甘さに対する、骨身に染みるほどの絶望が、彼の全身を支配していた。
彼が荷をまとめていると、天幕の入り口に人影が立った。荀彧だった。
「公台、待ってくれ。今は丞相もどうかされているだけだ。時が経てば、きっと…」
荀彧の声は、必死だった。陳宮は、筆を置くと、静かに旧友に向き直った。
「荀彧殿。貴公はまだあの男を信じられるのか? それとも、信じるしかないのか? 私はもう、信じられない。あの男の隣にいては、私の魂が腐り果てる」
荀彧は言葉に詰まった。彼は漢王朝の復興を願い、曹操の力に賭けている。その大義の前には、多少の非道も目をつぶらねばならない。だが、陳宮は違う。彼の言葉は、荀彧の心の最も痛い部分を抉った。二人の道が、ここで完全に分かたれたことを、互いに悟った。
陳宮が去った天幕で、荀彧は一人、拳を強く握りしめた。(公台よ…お前の言う通りかもしれぬ。だが、理想だけではこの乱世は終わらぬのだ。漢室の安寧を取り戻すためならば、私はこの身がどうなろうと、あの『劇薬』に賭けるしかないのだ…!)彼の瞳には、友を失った悲しみと、それでも己の信じる道を進むという、鋼のような決意が宿っていた。
陳宮は、自らの天幕で、震える手で一枚の竹簡を取り出す。灯火が彼の蒼白な顔を照らし、握りしめた筆が墨を含み、走った。その筆先は、彼の心の動揺を映すかのように、何度も紙の上を滑った。
「孟徳。貴公はかつて、天命となると言った。だが、民の血で汚れた天など、断じて天ではない。それは、天を騙る、ただの魔王だ。私は、私の信じる天を、別の場所で探す」
書き終えた書簡を、彼は静かに卓上に置いた。もはや、この男に直接言葉を交わす価値もない。それは、決別の書であると同時に、自らの愚かしい夢への、墓碑銘でもあった。
彼は立ち上がった。そして、壁に掛けられていた兗州の地図、棚に積まれていた数々の献策の竹簡を、一つ一つ、その手で灯火の炎にくべた。ぱちぱちと音を立てて燃え上がる、かつての理想の残骸。中牟の夜、廃寺の誓い、兗州の灯火。その全てが、赤い炎に飲み込まれ、黒い灰へと変わっていく。彼は、その光景を、ただ無表情に見つめていた。
誰にも気づかれぬよう、馬を一頭引き出し、静かに、しかし確かな足取りで、陣の出口へと向かった。
歩哨の兵士が、彼を呼び止める。
「陳宮様、どちらへ」
「…少し、夜風にあたるだけだ」
彼の声は、自分でも驚くほど、平坦だった。兵士は、不審な顔をしたが、彼が曹操の腹心であることを知っている。それ以上は何も言わなかった。
陣を抜けた瞬間、彼は、馬の腹を蹴った。どこへ行くという当てもない。ただ、この地獄から、一刻も早く離れたかった。
降りしきる雨が、彼の顔を、体を、容赦なく打ちつける。それは、まるで、見失った理想のために、天そのものが涙を流しているかのようであった。
数日後、雨の上がった道を、陳宮は当てもなくさまよっていた。彼は自問した。これからどこへ行くべきか。袁紹か? いや、あの男の器の小ささは酸棗で嫌というほど見た。それでも、万に一つの可能性に賭け、彼は平原の劉備玄徳を訪ねた。
劉備は、確かに噂に違わぬ仁徳の士であった。その瞳は民を憂い、その言葉は信義に満ちていた。陳宮は一瞬、ここにこそ探していた光があるのかもしれないと、心を動かされた。だが、その理想を支える現実は、あまりに脆弱だった。乏しい兵糧、少なすぎる兵士、そして何より、劉備自身が自らの無力さに苦悩していた。
「陳宮殿、貴公ほどの知恵者に来ていただければ、まさに百人力。だが、今の私には、貴公の才に見合うだけの舞台を用意することができぬ。この通りだ…」そう言って深々と頭を下げる劉備の姿に、陳宮は最後の希望が砕け散るのを感じた。正しいだけの理想は、この乱世ではあまりに無力なのだ。
理想の器など、どこにもないのだ。ならば…残された道は、一つしかないのか。曹操という巨悪を止めるためならば、それ以上の『凶器』を手に取るしかないのか。
絶望という、重い荷物を背負って。彼は、どこへ行くという当てもなく、ただ、闇の中を馬で駆け続けた。
雨は、再び降り始めた。彼の頬を伝うのが、雨なのか、涙なのか、もはや彼自身にも分からなかった。




