第十一話:『赤き泗水』
第十一話:『赤き泗水』
兗州での成功がもたらしたつかの間の安寧は、一本の凶報によって、粉々に砕け散った。
運命の、徐州大虐殺。
父、曹嵩が、隠居先の瑯琊から兗州へ向かう途中、徐州牧・陶謙の部下に殺害され、財産を奪われた。その報せを受けた曹操の怒りは、常軌を逸していた。兗州の政庁に、獣のような咆哮が響き渡った。それは、もはや為政者の怒りではない。愛する父を奪われた、一人の男の、理性を焼き尽くすほどの狂気であった。
彼の天幕からは、器物が叩き割られる音が昼夜を問わず響き渡り、側近の誰もが近づくことすらできなかった。陳宮は、遠巻きに見守りながら、曹操の心が復讐心という名の熱病に浮かされ、かつての冷静さを失っていくのを、ただなすすべもなく見ていた。
そして、あの命令が下された。
軍議の席で、曹操は血走った目で地図上の徐州を指し、震える声で言った。
「徐州の民、一人残らず皆殺しにせよ」
その言葉が陣営に伝わった時、満座の将兵は凍りついた。静寂の中、最初に声を上げたのは、軍師の荀彧だった。彼の冷静な顔も、この時ばかりは蒼白であった。「お気を確かに! 父君の死は、まことにお気の毒にござる。なれど、その罪は陶謙と、手を下した者にのみあるもの。民に、何の罪がありましょうか!」
程昱も続いた。「これでは我らが築き上げた天下の信を、自らドブに捨てるようなものですぞ! 暴虐をもって暴虐を制することはできませぬ!」
だが、曹操は、その忠臣たちの顔を一人一人、まるで知らない男を見るかのように、冷たく見渡した。彼は、血に濡れたような目で彼らを睨みつけ、佩刀の柄に手をかけた。
「黙れ。これ以上、俺の邪魔をする者は、たとえ腹心であろうと斬る」
その狂気と殺気に、歴戦の将である夏侯惇さえもが息を呑み、荀彧も程昱も、それ以上の言葉を失った。政庁は、恐怖に満ちた沈黙に支配された。
その中で、陳宮は冷静に一歩前に出た。彼の声は、もはや感情的ではなかった。
「孟徳殿。私情はお察しいたします。ですが、この暴挙は、我らが兗州で苦労して築き上げた『信』という、何物にも代えがたい財産を自らドブに捨てる行為。民の信を失えば、我らはただの賊軍と変わりませぬ。それは貴公の覇業の、その根幹を揺るがすことになりましょう。今一度、ご再考を!」
彼は、感情ではなく、覇業の利害という観点から、必死に論理で諫めた。だが、曹操は、その陳宮を、一瞥した。その目には、もはや葛藤の色はなかった。そして、彼は一言だけ吐き捨てた。
「俺の邪魔をするな、公台」
陳宮は、その時、全てを悟った。
この男は、大義のためならば非情の決断ができる傑物なのではない。己の私情のために、これまで築き上げた大義すら平気で捨てる、ただの凡庸な暴君だったのだ。自分の鑑定眼は、その根本から間違っていたのだ、と。理知的な、そして完全な絶望が、彼の心を支配した。
足元から、世界が崩れ落ちていくような感覚。この男にとって、「民」とは、自らの覇業を成すための道具であり、駒でしかなかったのだ、と。中牟の牢で語られた「民の声が天命となる」という言葉は、彼が天下を取るための、甘美な方便に過ぎなかったのだ、と。
呂伯奢の夜に感じた疑念は、もはや疑念ではなかった。あれこそが、この男の紛れもない「本質」であったのだ。そして兗州での成功は、その本質を覆い隠す仮面ではなく、その本性をさらに増長させるための土壌に過ぎなかったのだ。
数日後、先鋒隊が送ってきた徐州からの報せは、地獄そのものであった。
ある兵士は、震えながら語った。「村々は、ただの灰になっておりました。井戸は、赤子の死体で埋め尽くされ…」。
またある兵士は、顔面蒼白で報告した。「鶏や犬に至るまで、生きているものは何も…抵抗する者も、泣き叫ぶ者も、全て…」。
そして、決定的な一報。「泗水の流れが、おびただしい数の死体によって、三日間も堰き止められたとのこと…」。
陳宮は、その言葉を聞きながら、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。彼の理想、彼が信じたもの、彼が自らを欺いてまでついてきた男。その全てが、今、血の河となって、足元から崩れ去っていく。
兗州で灯した無数の灯火が、民の血で消されていく。陳宮は、遠目に見た曹操の姿を思い出す。怒りの咆哮を上げ、復讐を叫ぶその横顔に、ほんの一瞬、全てをやり遂げた後の茫然とした空虚さがよぎったのを、彼は見逃さなかった。だが、その空虚さはすぐに、さらなる狂気によって塗りつぶされていった。もう、この男の隣にはいられない。陳宮は、自らが築き上げた理想の残骸を前に、静かに立ち上がった。その手は、もはや壁の兗州図を指すことなく、決別の書を記すための筆を強く握りしめていた。




