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第十話:『孟徳の光、公台の安堵』

第十話:『孟徳の光、公台の安堵』

兗州の統治が軌道に乗り、民の暮らしが目に見えて安定してきたある日のことだった。政庁に、一つの訴えが持ち込まれた。曹操の父方の遠縁にあたるという男が、その威光を笠に着て、古くからその土地に住む農夫一家から不当に畑を奪い取ったというのだ。

軍議の後、その案件が諮られると、居並ぶ将たちの間に、気まずい空気が流れた。相手は、主君の縁戚だ。夏侯惇や曹仁といった一族の将でさえ、口をつぐんでいる。誰もが、曹操の顔色を窺っていた。

その沈黙を破ったのは、陳宮だった。

「孟徳殿。この件、断じて看過できませぬ。我らがこの地で築き上げた法とは、何のためでありましょうか。それは、民が理不尽な力に泣き寝入りすることなく、法の下に平等に守られるためのものではなかったのですか。ここで身内への情を優先させては、我らが掲げた信義は地に落ちます」

陳宮の言葉は、静かだが、揺るぎない響きを持っていた。政庁内が、さらに緊張に包まれる。誰もが固唾をのんで、曹操の裁断を待っていた。陳宮の心にも、一抹の不安がよぎった。呂伯奢の夜に見せたあの非情さ、楼閣で聞いたあの傲慢な言葉。もし、この男が己の身内をかばうようならば…。

曹操は、しばらく目を閉じ、腕を組んだまま黙考していた。その表情からは、何も読み取れない。やがて、彼はゆっくりと目を開けた。その瞳には、もはや何の迷いもなかった。

「…公台の言う通りだ」

その声は、政庁の隅々にまで響き渡った。

「法を犯す者に、身内も他人もない。俺の縁戚であろうと、民を不当に苦しめる者は許さん。その男を捕らえ、法に従って厳罰に処せ。奪われた土地は、即刻、元の持ち主に返すのだ」

その裁断を聞いた瞬間、陳宮の心の中にあった、長年の澱のようなものが、すうっと消えていくのを感じた。

(ああ…この男は…この男は、やはり信じるに値する!)

(そうだ…これこそが真の孟徳だ。呂伯奢の夜に見せたのは、追い詰められたが故の過ちだったのだ。楼閣で聞いた言葉は、乱世を終わらせるための、厳しい覚悟の現れだったのだ。そうでなければならない。そうでなければ、私が故郷も地位も、全てを捨ててついてきた意味が…この道のりが、ただの愚かな過ちになってしまう…)

彼は、私情よりも公の義を優先できる真の君主だ。私の鑑定眼は、間違っていなかった。そう、必死に自分に言い聞かせた。心の奥底で微かに疼く違和感に、無理やり蓋をするように。

その夜、陳宮は、久しぶりに穏やかな気持ちで自室の寝台に就いた。窓から差し込む月光が、部屋を優しく照らしている。彼は、この脆い希望の上に成り立った確かな手応えに、心からの安堵を覚えていた。曹操と共に、真の理想の国を築ける。その未来を、彼は一点の曇りもなく信じたかった。

だが、その安らかな眠りが、やがて来る、あまりにも残酷な悪夢の前触れであることを、この時の彼は知る由もなかった。

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