第一話:『蒼天、死す』
第一話:『蒼天、死す』
歴史とは、勝者が紡ぐ物語だと人は言う。だが、陳宮公台の目に映る歴史とは、ただ悠々と流れる大河の水面であり、その輝く水面の下には、声なき者たちの無数の泥砂がどこまでも重く沈んでいた。
後漢王朝という名の老いた巨木が、ついにその命脈を絶たれんとしていた。帝国全土は、漆黒の乱世へと沈みかけていた。それは単なる戦乱の時代の始まりではない。四百年続いた漢という名の「天」が権威を失墜させ、人々が信じるべき価値、従うべき秩序、その全てが音を立てて崩壊していく時代であった。
この時代における「天」とは、単に頭上の空を指す言葉ではない。それは万物を支配する理であり、天子に統治の正当性を与える「天命」であり、そして何よりも、地に満ちる民の総意そのものであった。黄巾の党が掲げた「蒼天已死 黄天當立」のスローガンは、民が天を見限ったという、時代の根幹を揺るがす地殻変動の狼煙だった。
東郡の若き県令、陳宮公台は、乾いた風が吹き付ける役所の門前で、その現実を日々、全身で受け止めていた。
彼の目の前で、痩せこけた農夫が土下座をしている。ひび割れた大地と同じ色の肌、乾ききった唇から絞り出される声は、風にかき消されそうなほどか細い。今年の旱魃で、収穫は例年の三分の一にも満たないという。だが、宦官の縁者というだけで私腹を肥やす太守は、容赦なく定量の税を取り立てようとしていた。農夫の背後には、同じように虚ろな目をした家族が、ただ黙って地面を見つめている。その小さな子供の、怯えきった瞳が、陳宮の心を射抜いた。
陳宮は、太守の執務室の扉を叩いた。高価な香が焚きしめられた部屋で、彼は書物から引用した為政者の徳を説き、民の窮状を切々と訴えた。だが、肥満した体躯を絹の衣に包んだ太守は、鼻で笑い、油の浮いた額に汗を光らせながらこう言った。「陳宮殿、君はまだ若い。書物の中の青臭い理想で、腹は膨れんのだよ。税は法で決まった義務。これを私情で曲げては、国庫が傾き、それこそ万民が苦しむことになる。民とは、厳しく法で治め、時には絞らねばならんもの。それが、この世の道理だよ」
その夜、陳宮は自室で、揺れる灯火の下、竹簡に目を落としながらも、その文字は一つも頭に入ってこなかった。昼間の農夫一家の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。「民を慈しめ」「徳を以て治めよ」。竹簡に記された聖人の言葉が、太守の正論めかした嘲笑と重なり、彼を苛む。彼は、法と徳が地に堕ちた現実を前に、己の無力さを噛みしめた。漢王朝という巨大な器は、すでに内側から腐り落ちている。ならば、新たな器を探し出すしかない。それが、彼の絶望から生まれた、唯一の希望であった。
震える手で筆を取る。一度深く息を吸い、覚悟を決めて竹簡に記した。「真の『天』とは、天子にあらず。民の安寧、そのものにあり」と。この時代、天子の権威を否定することは、死を意味した。だが、彼の心は、もはや旧き天にはなかった。
そんな折、都から衝撃的な報せが届く。宦官誅殺を掲げた大将軍・何進が返り討ちに遭い、その混乱に乗じて、并州の董卓が、わずかな兵を率いて洛陽を掌握した、と。暴虐の限りを尽くし、帝を意のままに操る董卓の出現は、漢王朝の死を、天下に宣告するに等しかった。
役所内が、恐怖と混乱のどよめきに包まれる中、陳宮は一人、自室で拳を壁に打ち付けた。終わりだ、と。だが、その絶望の底で、ふと、彼の心にかすかな光が差し込んだ。
古い器が、完全に砕け散ったのなら。
今こそ、新しい器が生まれる好機ではないか、と。
彼は、弾かれたように顔を上げた。その瞳には、もはや無力な県令の憂いはなかった。彼は、自らの書斎の窓から、遠い西の空、洛陽の方角を睨み据えた。乱世の闇が、最も深くなったその時、彼は、夜明けの光を放つ英雄の出現を、固唾をのんで待ち続けていた。
そして、運命の日が訪れる。
都からのお尋ね者、董卓暗殺に失敗したという男が、彼の治める中牟県に連行されてきた。
その男の名は、曹操孟徳。陳宮の長い旅が、今、始まろうとしていた。