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その花は天地の間に咲く 前編  作者: 檜崎 薫
第二部
95/96

不本意な出来事

 ー義父の愛人について、アレクサンドラはこれまで深く注視したことがなかった。兄のドミトリィが自分の城に愛人を呼び込む人でなく、弟がいなくなってからは彼女が実家で過ごしても城は十分広々としていたからだ。兄と夫の父親が同じ女性を取り合っていたと知った時にはさすがに驚いた。イヴァンナも兄の愛人だったが、彼女はアレクサンドラにとってはほとんど姉そのものだった。

 カンブレーゼ大公女。幼い頃は、聡明かつ気品ある美少女として知られていたらしい。カレナ大公家、アステンブリヤ家、帝国でも名門中の名門とされるこの2つの名家の血を引く美女がなぜセイレーンなどと渾名されることになったのかーそこに謎があるのだが、ともかくアレクサンドラもこのセイレーンと同じ敷地で暮らしていたのだった。

 シルヴァーナが自分の嫁ぎ先にいたことをアレクサンドラが知ったのは一月前だった。

収入の計上について夫が頭を抱えているのを彼女は目にしたのだ。ちょうどイマヌエルとシャルロッテの結婚披露宴が計画された頃のことで、夫は支払額を計算し、どう支払うか

執事と相談していた。その会話で初めに出てきたのがシルヴァーナの散財額だった。

 「後はあの人の衣装代だけだが…毎回金額がかさんで我々では支払えない。実家も解らんし…」

 「お召になられているのは贈与されたものというわけでは?」

 「いや、…そうではない。ーほぼほぼ請求が私に来ているから」

 「すると、支払いは旦那様がせよと?」

 「そうだろう。他に考えられない」

ー請求書を恨めしそうに眺める侯爵。執事も残念そうに見遣っていた。

 「…ここで設備投資を止めると、また領地の税収が下がりそうだな」

 「そうですね。ー間違いございません」

 「今度こそと思って貯めてきたのにここで散財されるとは…ああ…」

侯爵は脱力してしまった。ーその後で、

 「兄上はこれを知っていて交換の話を持ちかけたのか」

 「まさかそのようなことはありますまい」

 夫と執事の会話から、何か城の中で異常が起きているとアレクサンドラも解った。ただ夫の言わんとすることが、彼女にはまだ掴めなかった。『知っていて交換を持ちかけた』とはどういうことなのだろう?ー前の夫が、先代の長男が弟に黙っていたことがあった?『交換した』ものーそれは爵位と婚約。ただ弟に隠されていたもの、兄が隠したため弟の悩みの種となったものは何かそれが彼女には解らないのだった。


 ー舞踏服のことを聞かれ、自分の夫が入れ替わっていたとアレクサンドラも気づいてはた。だが、彼女は問い質す代わりに、部屋の主について夫に尋ねたのだった。2階の一番奥にある日当たりのいい大きな部屋、そこで寝起きしている女性は誰なのか。義理の姉になる人物が早くに亡くなっていることから、アレクサンドラも、その部屋にいるのが夫の親族でないことは知っていた。先代の息子は2人いたが、ほぼ同じ時期に婚約をしたので兄弟の両方が父親の城にいるとは思えなかった

 舞踏会の準備を始める時アレクサンドラは言った。

 「…お義姉様はどうなさって?」

 「姉?ー私に姉がいると?」

侯爵は怪訝そうにした。ーそれから言った、

 「私にきょうだいはいないが」

聞き間違いではないか。ー侯爵は彼女にそう答えた。

 「いない…ですって?」

アレクサンドラは眉をひそめた。

 「では、…あのお部屋にいらしたのは」

 「義父上のお気に入りだ。皇女の従姉だという妖婦。…シルヴァーナという名は帝国中を探してもあの女だけだ」

侯爵は苦々しげに言った。

 侍女長もアレクサンドラの話から別の人物に替わった。自分を侍女長が見張っているとアレクサンドラが言ったため。妻に話を聞き侯爵も耳を疑ったがー

 「侍女長が君を見張っている?そのはずはないだろう」

 「それは解りませんわ。ですけれど、私は今朝も寝起き姿を彼女に見られたようで」

 「女主人の寝起きを盗み見るとはいかにも品がないな。…もしや買収されたか」

侯爵はため息交じりに呟いた。

 「侍女長は降格させよう。他の女を後任にして、彼女に統括させることにする」

 侍女長は職を失った。降格も受け付けず、女主人の裸を盗み見たのも認めなかったからだ。城の中にある一番いい部屋、その部屋を使っていた女に侍女長はついていたが、女は侍女長が暇を出されたと知って粉薬を執事へ渡した。

 「少しずつ混ぜて。…症状が軽くなるように」

 「…どなたのお薬ですか?」

 「もちろん、ご当主よ」

その薬が何に効くのか。ーそれは聞かれても答えなかったが。


 ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽


 ーその頃、フェルディナンドは摂政大公と会うためハウデンブルグ伯爵を訪ねていた。

摂政大公、皇帝のただ1人の弟が伯爵の城に滞在中だと聞きー話を聞くなら今しかないとフェルディナンドは思ったのだった。彼には確信があった。皇太子の生存を伏せるだけの大きな理由があったのだと。カレナ大公から話を聞いて、フェルディナンドの中に疑問が湧いた。何よりカレナ大公その人が、自分が皇太子だと彼に告げたのだ。

 突然の訪問にも関わらず、伯爵夫妻は彼を快く迎え入れ茶や水菓子でもてなした。娘のギーゼラー彼女はシャルロッテの親友だがーフェルディナンドの姿に一瞬心を奪われた。しかもシャルロッテが滞在していた。

 「あなた、ひょっとして…」

シャルロッテに見つかり逃げられなくなったフェルディナンドだったが、伯爵が代わりに答えてくれた。

 「卿は、カンブレーぜ大公に面会に見えたのですよ」

 「あら、そうなの」

これにはシャルロッテも興を失った。だが、

少ししてシャルロッテは話しかけてきた。

 「前に話をしてくれたわね。いろいろつきあってくれてありがとう」

 「ー滅相もない」

 「あなたをこの国へ呼んだのはお義姉様のご都合?それとも…」

 「両方ですよ」

 「すると、兄の方も、義姉の方もあなたに用があったの?」

 「そう考えて頂ければ」

 「…本当」

気になったことにはいちいち突っ込まないと気が済まないシャルロッテだった。

 「カンブレーゼ大公とお会いになるというのは…どういうご用事なのかしら」

 「そこは突っ込まないでください」

 「ー聞いてはいけないお話なの?」

 「国の重要機密なので…これ以上は…」

 「重要機密…?」

 「そうです。ー申し訳ないのですが、この件に関しては妃殿下に伺えないので叔父君にお話を伺おうと」

 「ごめんなさい、私ったら…。それではこの辺で失礼するわね」

 フェルディナンドの表情にシャルロッテも我に返り、裾をからげて部屋を出て行った。

代わりに相手をしに来たのはギーゼラだ。

 「ごめんなさいね、…ロッテ様は気になると何でも聞かずにいられないの」

 「そうだったのですか」

 「そう、そうなの。でも決して悪意などはお持ちでないから、ご安心なさって」

ギーゼラはふっと微笑んだ。見ているうちに自分も笑顔になりそうな、柔らかく気取りのない笑顔だ。フェルディナンドはその笑顔を見て、いつか公爵家嫡男が言っていたことを思い出した。

 『ギーゼラ嬢には、…男心をうっとりさせるところがあるんだ』

なるほど確かに…。ーフェルディナンドはそう思いながらも無表情を通した。社交界入りは済んだ年齢だし、自分とも年は離れていないのだし…。深入りはやめよう。

 ギーゼラはフェルディナンドに尋ねた。

 「ユーゼフ殿下が、…妃殿下を通じてここへ卿をお呼びになったのですってね」

 「はい、そのとおりです」

 「殿下はどのように仰せになって?護衛に欠員が出たとか?」

 「…いいえ」

 「本当…?すると、何か私的なご用が?」

 「でもありません」

 「どういうふうにおっしゃってらしたの?卿をお呼びになる時」

 「ご自身のご友人について教えてほしいと。それだけです」

 「何でしょう…先にお調べになれなかったのかしら。お妃の国からお呼びになるなんて」

 「なぜでしょうね…」

 それからギーゼラは話題を変えた。

 「大公のご領地は、…サヴァスキータ侯爵のご領地から何日ほどかかるのでしょう」

 「馬で3、4日はかかると思います」

 「馬?ー列車は走っておりませんの?」

 「父の領に駅がないので、どうしても馬で行き来することになるかと」

 「まあ!大変ですわね、それでは」

 「痛み入ります。…どちらにも電信が通じており、やり取りに苦はないのですが」

 「そうだったんですの」

ーそこへ執事が現れた。

 「大公閣下がお呼びです」

 「ありがとう、今行きます」

フェルディナンドは執事に礼を言い、面会に向かった。足を運ぶごとに窓から日が射し、通路を明るくしていた。南向きの一番大きな部屋で大公が待っているという。執事が扉を叩き用件を告げると、

 「ー通せ」

と低い声がした。ー前に舞踏会で聞いたのと同じ声だった。執事は扉を開け、

 「中へお入りください」

とフェルディナンドに言った。彼が中に入ると扉は閉められた。

 「閣下、…サヴァスキータにございます」

 「よく来たな」

そう言う大公の瞳には優しい光があった。

 「甥のことについて話を聞きたいとあったが、それで間違いないか」

 「いかにも」

 「…すると、そなたはわしの甥に会ったわけだな」

 「おそらくー」

それからフェルディナンドは大公に尋ねた。

 「陛下や皇太子殿下から、ご地位の譲渡に閣下にお話はございましたか」

 「ーない」

 「君主制廃止などについてのお話は?」

 「それもないな」

 「すると、…太子を選び直すなどという話はやはりなかったのですね」

 「無論だ。ー急にどうしたのだ」

 「皇太子とよく似たご人物から私にお声がかかりました。…太子は今ーカレナの大公位を保持なさっているのではありませんか」

 「…よく見抜いたな。その通りだ」

 「ご自身で位を降りられた…それは皇女方もご存知なのですか」

 「ーそこまでは知らぬ。知らぬはずだ」

摂政大公は言った。

 「祖父もそうであったから、兄がその命を狙われていたことは2人とも知っていようが…生きておるとは思っておらぬはずだ」

 「すると、ルドヴィカ様のご婚儀は…」

 「ー陰謀だ。直系を遠ざけるための」

フェルディナンドの言葉に、摂政大公は重い声で答えた。

 「あれの実の兄が生きておるとも知らず、己の兄の伝で政略結婚を仕組みおった。甥も義弟とは歳が近かったゆえ、妹に手を出した男はその場で討てと義弟に命じたそうだ」

聞いているうちにフェルディナンドの顔から血の気が引いていった。

 「公爵家の次男が消えたのはそのせい…?」

 「そうとも。…国の乗っ取りと欲望の充足、その2つを図った結果がこのザマだ。聞いて呆れるわ」

 「…ご息女から踊りの相手を頼まれ、即座に断ってしまったのですが大公女様のご真意はどのような…?」

ーフェルディナンドは尋ねた。それを聞いて摂政大公は笑い出した。

 「娘の考えそうなことだ。ー従妹と仲良い若者を追いかけ、その1人でも己に侍らせておきたいのだ。ー娘も野心が強すぎるゆえ、わしは困っておる」

 「…『も』と仰せでしたか、閣下」

 「言ったが」

 「他にもそれを窺わせるご親族がおられたのですか?」 

フェルディナンドは尋ねた。ー大公の子供は2人しかいない。シルヴァーナとエンリコ。だが、エンリコは既に死んでしまった。

 「閣下は、ご子息も、ヴェストーザ公も、…野心を抱いていたとお考えで?」

 「…そなたは勘がいいな。実際、息子が何を望んでおったかわしにも解らんが」

摂政大公が言った、

 「結局は姉と従兄の策にはまって、息子は命を落とした。ーそれが全てだ」

 「そう…でしたか」

なので感情を殺していらっしゃるのですねーフェルディナンドはその様子を静かに眺めていた。

 「これからご帰国なさるのですかー御胸に深い痛みを抱えたまま」

彼は口に出して聞いてしまった。だが、その

言葉は誰からも咎められなかった。

 「これはわしの汚点でもある。息子ばかり責められん」

 「それはどういうことですか?」

ーフェルディナンドはついに大声を出した。

摂政大公はそれを手で制しながら執事の顔を見た。

 「長い話になるが、…つきあう気はあるか」

 「ございます。お聞かせください」

フェルディナンドの即答に大公はうなずき、重い口調で話し始めた。自分たちの結婚から妻の出産に至るまで彼に語り始めたのだが、大公の語った話は、フェルディナンドの胸に重いものを残すことになった。


 ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽


 カンブレーゼ大公フィリベルト2世、彼は先帝の次男にしてロッセラーナ皇帝の唯一の弟だった。兄ベルナルドが位を継いだ時この人物は修道院にあったが、危急の用事があるとしてある日彼は宮殿へ呼び出された。

 『兄上。ーいったい何事ですか』

 『それが…信じがたいことがあってな』

 何とか事情を聞こうとしたところが、兄に食ってかかるような口調になり見習い僧侶の方も兄に非礼を詫びた。だが皇帝も非礼とは受け取らずそのまま答えてきたのだった。

 『傍系のアステンブリヤ家だがーあの家の長女が身ごもったらしい』

 『は?…意味が解りませんが』

 『…解らないか』

 『解りません。いったい何が起きたのですか』

 『ーお前に告げた通りの出来事がだ』

 『お待ちください兄上。身ごもったとは、本当のことなのですか。皇族に連なる家柄の女性が、未婚で子を身ごもるなどとこれまで聞いたことがありません。何かの間違いではありませんか』

 『それが、…事実なのだ』

 『身ごもった?傍系皇族の娘が?』

僧侶は真っ青になった。

 『そうだ。侍医にも診せたから、妊娠しているのは間違いない』 

それで、ー皇帝は言った、

 『お前に頼みがある。ー還俗して、彼女を妻に迎えてもらいたいのだ』 

 『還俗でございますか。…この私が?』

 『他にあてはないしー本人がお前のもとへ嫁ぐことを望んでいる』

 『…それで私をお呼びになったと』

 『その通りだ。済まぬが余の頼みを聞いてくれ。…でないとあれの父親がまた荒れよう』

ー皇帝は弟に告げた。

 『…腹の子の父親は?』

 『不明だ。手を尽くして調べさせたが何も手がかりはなかった』

 『父親不明の子を育てよと…』

 『そうだ。ー親はともあれ、生まれてくる子に罪はない。余もむざむざ新しい命を手に掛けたくないのだ』

 『解りました。そういうことでしたら』

そうして25歳の新米僧侶は、聖堂での生活を離れ、宮廷作法や領地経営などを先帝に直々教わることになった。傍系皇族を父親に持つ身重の公爵令嬢は、彼の還俗から一月後妻とその屋敷にやって来た。新婦が臨月近かったこともあり式も挙げなかった。これだけでも十分異例なのだがーさらに異例なことがこの国には起こったのだ。

 夫人が出産した2年後、先帝がカレナでの療養を終え帰国する途中に襲われた。馬車は車輪が外れ横転、つないであった馬は残らずいなくなっている。従者も護衛も重傷を負い誰も起き上がれなかった。

 『陛下は…?』

執事は知らせに来た侍従に尋ねたが、侍従は涙も拭わず言った。

 『お姿は見当たりませんでした。近隣にも手を借り探しておりますが、おそらく…』 

この数日後、侍従の言葉通り、先帝は遺体となって発見される。報告に来た侍従も発見の翌日首を括り死んだ。下手人や首謀者はどれだけ手を尽くしても出てこずー唯一手がかりと言えたのは付近の住民の証言だけだった。

 『聞き慣れない言葉だった』

 『うん、…やたら子音が多かったね』

〈聞き慣れない〉〈子音の多い〉言葉ーその意味するものは1つしかない。北方の住人がよく使うスラブ語だ。だが目撃者もほとんどなく捜索は難航していた。そうしてこの年は何の進展もなく終わったが、皇太子の大きくなってきた頃この話は急展開した。皇太子が

10歳になろうとした頃だ。大公の養女はその2つ上。12歳だった。

 1代限りの大公位を受け、還俗した皇弟がカンブレーぜ大公と名乗り始めた時、大公にまたも招集がかかった。前回と同じく宮殿の中庭、皇帝一家がいるところへ来てほしい。ーそう、大公は使者から告げられた。用件は到着後直に聞けというのだが、それも異様な話だった。

 『ー兄上のご意向か?』

 『まさしく』

 『解った。…すぐ行こう』

 『痛み入ります、閣下』

使者との会話を終えてすぐ、大公は身支度を始めた。妻には都へ行くとだけ伝えて。娘は連れて行けとねだったがその余裕など大公になかった。

 急ぎ出向いてみると、案内された場所に兄一家が揃っている。皇帝夫妻は顔を伏せ考え込むようにし、その長男は10になったばかりだが上の妹を見遣りながら使用人とあれこれ話しかけていた。この時ルドヴィカは、既に母の実家へ預けられていたためそこにはいなかった。だがとにかく異様で、仲良いはずの皇帝一家が、皆別々の方向を見ている。この時はさすがに大公も違和感を禁じ得なかった。

 『お久しぶりにございます、…陛下』


皇帝がそう言うと、少し前まで四方へ視線をやっていた皇太子が向き直った。彼は叔父にまっすぐ向いてこう言った。 

 『僕は、誰かに追われているのです』

甥の言葉に胸を突かれ僧侶は行き詰まったがこう返した。

 『そのようなことは、お身内のお前でも、何気なくおっしゃるものではありません』 

マルゲリータを見ながら彼は続けた。 

 『ご覧なさい!ーお口になさった菓子が、妹様の喉に詰まってしまったではありませんか』 

皇太子は急いで妹の背を叩いた。

 『マルガ、ごめんよ。大丈夫かい?』

 『…お兄様。お願いだからあまり突飛なことおっしゃらないで!』 

ー喉に詰まった菓子を吐き出しながら、顔をしかめてマルゲリータは言った。

 『でも、嘘は言っていないよ』

 『嫌だわ。…寝不足で見違えたのよ』

 『違うから!僕は寝足なんかじゃない!』

珍しく兄弟喧嘩が始まり、皇帝夫妻も仲裁に躍起になっている。ーマルゲリータは5歳、皇太子もやっと10歳だった。君主の子という自覚もあり、2人は勤勉に真摯に帝王教育を受け続けていた。

 『…なぜお命を狙われていると殿下は仰せになるのですか』

 ー皇弟は尋ねた、

 『ご周辺に不審者でも現れましたか?』 

 『違うのです。…叔父上』

 『違うとは?』 

皇弟は甥の瞳を覗き込んだ。

 『私の乗る馬や乗り物に細工が施されて、行き来が安全でなくなりました』

それも私の出かける時だけにそういう場面が 

出てくるのです。ー皇太子は言った。

 『殿下お1人を狙って…はあ』

皇弟もため息をついた。

 『事故死を装ってお兄様を殺す?』

 『…そのつもりなのだと思うよ』

幼い兄弟は話し合いを始めた。

 『もしお兄様が亡くなられたら、お父様の跡は私かルイーザ…』

 『ただあの子は何があっても国は継がないと言っていますよ』

皇后が子どもたちの会話に入った。

 『ルイーザが…?』

 皇弟は眉を顰めた。

 『何があったのでしょう』

 『宮殿で嫌な思いをしたようです』

 『自分の生まれた城で…』

 『あの子を白い目で見ていたのはお祖母様お1人ではないようです』

ー皇后の言葉に彼は胸を痛めた。

 『…そういうわけなのだ』

 皇帝は重い口を開いた、

 『そなたには悪いが、余の跡を継ぐべく、都へ戻ってもらわねばならぬ』

 『国政を担う準備をせよと。そう、兄上はおっしゃるのですね』

 『ーそうだ。息子や娘の世話も、そなたに託すことになろう』

それからしばらく重い沈黙があって、大公も兄の宮殿を辞した。屋敷に帰ってからも彼は兄の言葉を反芻し続けたが、これといって、いい解決策は浮かんでこなかった。


 ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽


 「何ですって…客…?」

 シルヴァーナは執事に詰め寄った。父親に会おうとしたのを彼に止められたからだ。

 「大事なお客様なので、お待ちください」

 「どう大事なの?…そのお客は」

ーシルヴァーナは言った。

 「屋敷に来客があっても、お父様は私には1度も話をしてくださらなかった。なぜ?」 

 「近年では私どもにも表立って話をなさいません」

 「表立って話さない…いつからそうなの?」

 「もう4年にはなるかと」

申し訳ありませんが、まだ用事がございますので私はこの辺りで失礼いたします。ーそう言うと、執事は悲しそうに彼女の前から立ち去った。

 「4年前ですって…?あの子をクラウス卿と一緒にしたのがいけなかったというの…?」

 シルヴァーナは呟いた。

 「あの子は嫌だなんて言わなかったし夫婦仲良くやっているように見えた。それが全て仮面だったとでも…?」

考えれば考えるほど、シルヴァーナの悩みは深くなった。だが、皇太子の命令には皇女も逆らえないということを彼女は知らなかったのだった。さらに皇太子の本心が花嫁であるルドヴィカにあったことも。

 この時、皇太子は既に入れ替わり、本物は都にいなかった。皇太子を名乗っていたのは全くの別人で、皇帝と血縁も何もない貴族の次男だった。その男の名はヴラディスワフ・ カダルシェフ。ードミトリィの弟が皇太子を名乗り都に入り込んでいたのだ。義理の妹をクラウスのもとへ嫁がせたのは彼女のもとへ夜這いするためだ。ヴラディスワフの行状の悪さを人から聞き知っていた本物の皇太子はクラウスに密使を送った。『カダルシェフの弟が妹を凌辱しようとしている。妹の部屋へ行くところを見つけたなら直ちに彼を捕らえ尋問してもらいたい。何ならそちらで処罰を決めてもらって構わない』とー。この密使がヴラディスワフの運命を決めた。

 シルヴァーナは侍女たちを呼んで、父親に取り次ぐよう命令した。だが皆顔色を曇らせ首を横に振った。

 「何なのお前たちまで!?私の言うことを聞けないなんて」

 「…お父上のご厳命です」

やっと一人が言った、

 「全てを正すまではお嬢様のお話でも取り次ぐなと。クラウス卿のお城へ捜索が入っていたそうで…」

 「そうなの。それで?」

シルヴァーナは関心のあるふりをした。

 「…その地下で男性の遺体が見つかったと。骨になっていたそうですが、検分したところその骨はカダルシェフ公爵家の次男様のものと確定されたと…」

 「何ですって!?ヴラドの遺体が!?」

 「…はい。卿のお部屋からお嬢様のご筆跡の信書も見つかりまして、そのためお父上様はたいそうご立腹なさっておいでで」

 「…ヴラドを殺したのはいったい誰なの?」

 シルヴァーナは沈んだ声で言った。侍女は暗い表情を隠さなかったが、しばらくして、静かにこう答えた。

 「おそらくはクラウス卿でしょう」

 「クラウスが、…グレステンベルクが、あの人を殺したというの?」

 「実の皇太子からお話があったそうです」

 「嘘だわ。…従弟が死んだためヴラドが彼の座についたのよ」 

 「ご薨去の場面を見た方もご臨終を告げた医師も確認されておりません。お嬢様もそのことをご承知ではなかったのですか?」

侍女は言うのだが、シルヴァーナは思い出すことができなかった。

 「クラウス卿は、…お従妹様とご結婚された時点で皇族の身分に上がられました。卿にはご自分のご領地の管理のほか、お従妹様の、皇女殿下の身辺の安全を図る義務ももちろんあったかと存じます。…ですので、名義上ではヴラド卿も皇太子でいらっしゃいましたが、陛下のご嫡男様がご存命でおられる以上そのご命令が最優先されたのではないかと…」

それを聞いて、シルヴァーナは血の気が引くように感じた。彼女が誰より愛していた男が別れを告げる間もなく死んでいたのだ。

 「ヴラドがクラウスの城で死んでいた…」

 呆然と呟いたシルヴァーナだが、すぐには愛人の死を受け入れられず、その目はどこか宙を見るようだった。それでも少しすると、彼女は立ち上がり父親の元へ行こうとした。そこで声がかかった。いたわるような慰めるような優しい静かな声。彼女は声の主をよく知っていた。だがー

 「彼がここにいるはずはないわ」

シルヴァーナはやり過ごそうとした。すると同じ声が聞こえたのだった。

 「…どちらへ行かれるのですか?」

 その切実な声音にシルヴァーナはとうとう足を止めた、そして声のした方を見た。目の前に青年将校が立っていた。大公の部下で、シルヴァーナには一番の理解者だった。その端正な顔立ちは、憂いのためかひどく翳っていた。

 「今はお目にかかれません。…大事な用事があるということでしたので」

 「娘との時間より大事なこと?」 

 「…はい。2国間の恒久和平を固めるためだそうです」

 「…聞き慣れない言葉ね」

 「昼からは呼ばれるまで誰もお目通りしておりません」

ーシルヴァーナは唇を噛んだ。こういう時に限ってなんて間の悪い…。

 「急ぎのお話でしたら、何かに書付をされ執事殿にお渡しになったらよろしいかと…」

 「いつなら話しに行かれるの?」

 「話が終わったらと。それまでは誰も…」

 「すると、来客があったのは間違いないのね」

 「ーはい」

 「何の話をしているの?相手は誰なの?」

 「名前は存じません。風貌だけ申しますと金髪に薄緑の瞳の…」

将校の説明から、父親を誰が訪ねてきたのかシルヴァーナにも解った。従妹の幼馴染だという侯爵家の跡継ぎだろう。自分の周りから従妹のもとへ男がなびいていくのを感じて、シルヴァーナは気が立ってきた。 

 「…何が何でも父に話すわ。このまま黙っていられない」

ーシルヴァーナは言ったが、その言葉を聞き将校の顔立ちは一気に青くなった。彼は扉へ向かうシルヴァーナの前に立ちはだかった。

 「お待ちください!今入られたら、お命は保証できません!相手は射撃の名手です!」

 「…撃てるものなら撃てばいいのよ」

シルヴァーナはうそぶいた。

 「皇族と会うのに武器を持ち込むこと自体違法なのではなくて?」

 「お父上は紛れもなく皇族ですが、…」

その後すぐ将校はバツの悪そうな顔をした。ーとうとう言ってしまった、将校の顔色からそういう思いも汲み取れるようだった。

 「…私は皇族ではないということ?つまり、カンブレーゼは私と血の繋がりがない…」

 「耳に入って来ただけではありますが…そうお受け止めになるほかないかと…」

将校はうなだれたまま言った。

 「でも味方はしてくれるでしょう?」

 「自分はそのつもりです。…しかし、自分の動きがいつ見つかるか解りません」

シルヴァーナはため息はついた。

 「解ったわ。とにかく開けてちょうだい」

 「できません。お命のためです」

 「そばで待っているだけよ」

 「それでもいけません。…お客が帰るまではお待ちください」

将校は必死にシルヴァーナを説得した。

 「お客とのご用事が済めば、閣下も…」

いいから開けろというシルヴァーナを将校は繰り返しなだめるのだが埒が明かなかった。やがて中から足音が扉へ近づいてきた。

 「…終わったようね」 

 シルヴァーナは言った、将校も静かに扉の前から歩き出したが、出てきたのは、なんと大公本人だった。

 「閣下…ご自身でお見送りを?」

将校は目を見開いた。

 「そうだ。ーこれの従妹と親しいゆえ我が一族にとって重要な人物だ」 

お前たちここで何していた?大公は軽く睨みつけるようにして尋ねた。

 「お父様にお聞きしたいことがあるの」

シルヴァーナは言ったが、 

 「国や一族を犠牲にしてまで果たす価値のあることか?ーお前の陰謀は既に国中で知られておる。従妹らに手を出したら、カレナが黙っておらんぞ。あれと果たし合いまでして勝てると思うのか?」

大公の瞳は、猛禽が目を剥いたときのような鋭い光を放っていた。

 「カレナ…カレナ大公が…?なぜ…」

独立国で自分たちにそう手を出すことはないとシルヴァーナは見ていた。

 「あそこにおるのが本物の皇太子だ。兄の嫡男で、マルゲリータやルドヴィカの兄」

 「…!」

 「信じられぬというなら、直に会ってくるがいい。…向こうもお前を待っていよう」

 「私を『待って』いる。そうおっしゃったの?」

 「そうだ。ーいい意味ではないがな」

ーそれを聞いて初めてシルヴァーナも悪寒を覚えた。いい意味ではない、つまり向こうは彼女を標的にしているということだ。だが、真実を知るには覚悟を決めるほかなかった。

 「解りましたわ」

 「それはそうと、客人が帰るので2人とも道を開けてくれんか」

 「…失礼いたしました」

ようやく扉の前は広くなった、だがその影でシルヴァーナは将校と目配せした。

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