記憶の狭間
翌朝、イマヌエルは登城してすぐ、宮殿の客室へ案内された。友人を紹介してほしいと彼は頼まれていたのだった。従妹の幼馴染というので会わせてもらえる機会を待っていたが、一向にその機会が来ないので自分の方で動いたのだという。だが当人が既婚者なのでイマヌエルも少し肩身が狭かった。
「説得して頂けたかしら」
イマヌエルの顔を見るなり、相手は尋ねてきた。蜂蜜色の巻き毛と、磁器のような色の肌。弓なりの眉の下に、きれいに巻き上げたまつげとやや吊り気味の切れ長の瞳が2つ。相当な美女だった。
「はい、…確かに」
イマヌエルは声を少し抑えて答えた、
「舞踏会へ呼び出せというお言葉だったかと」
「ええ、そうよ。それであの方は何と?」
女は言った。
「参加してくれるそうです」
「良かったわ。…そのお返事を聞けて」
依頼主の女は答えた。
「私のところに呼んでくださるわよね?」
女はそうも言った。
「ご自分でお声かけください。彼にも務めがあるのですから」
でも本当にご親族なのですね?ー女の素性がまだ掴めないので、イマヌエルは少し疑心に駆られていた。
「本当よ!…将来のことだけれど嘘はついていません」
「将来ですか。ーそれは少々心外です」
イマヌエルは女に言った、
「現在形で縁のあるお相手がご親族というのではなかったのですか?」
「今からつつかないでちょうだい。だからといって、相手に迷惑がかかるということでもないでしょう?」
女はイマヌエルに言った。
「お相手によるのでは?ー私はご当人でないので、何とも申し上げられませんが」
「まあ…。意地が悪い方ね。解りましたわ。これきりにします」
すねた様子を見せる女だがイマヌエルは動じなかった。
「公爵夫人ー」
イマヌエルは言った、
「あなたが軽いお気持ちで振る舞われると、後に続く女性へ弊害が起きませんか?」
「…それはどういうことかしら」
公爵夫人は呟くように言った。
「既婚の貴族女性が、皆夫をないがしろにして遊興に浸るようになるということです」
「嫌だわ、これくらいのことで遊興になるなんて!…それでは、あなたがたの国はよほどお硬いのね!」
女は転がるような声で笑いだした。
「それほどおかしい話ですか?私は真剣にお話ししたのですが」
大笑いされイマヌエルは額に汗を浮かべた。
「おかしかったわ」
女は言った。
「それに私は、もうじき公爵夫人ではなくなるのよ」
「ではどうお呼びすれば?」
「カンブレーぜ大公女。…〈妃殿下〉から〈妃〉の字がなくなるわね」
女は答えたーこれがまたイマヌエルの背筋を冷たくした。
この女が話していたのは、大公の妹夫婦が開く結婚披露宴だった。披露宴とはいっても死者2人の葬儀が後に控えているためあまり豪華なものではない。一方でユーゼフたちの時と違い今回は完全に内輪なので、招待客を吟味する必要もなかったらしい。伯爵夫妻はこの女がルドヴィカの従姉と知ると、早々に招待状を送っていた。既婚者が夫婦片方だけ出席することはまずないが、この女はそれをやってのけた。ー夫抜きで自分だけ参加すると主催者に伝えたのだ。
「所用がありますので、この辺で私は失礼いたします」
イマヌエルは女の前から立ち去った。身が凍るほどの妖気と、全身から漂う艶かしさーあれは確かにセイレーンだと彼も納得せずにいられなかった。声を聞くと命はない、そういう言い伝えのある化け物だが、それは何も言い伝えでなかったのだ。その化け物が現に実在するのだから。このセイレーンは自分の盟友に興味を持ったらしいーだが夫ある身で男漁りするところから、フェルディナンドに勧められる相手でないとイマヌエルは解っていた。心変わりしやすいために、新婚早々に家を追い出されることになろう。何よりも、フェルディナンドがルドヴィカを諦めきれていないのだ。
イマヌエルはため息をつきながら任務へと戻った。6時課が済んだら、今度は衣装屋へ行かなければならない。その前に妻と話して仕立て直しをしようー彼はそう考えていた。だがこのところ侍医の姿を見ていない。何か聞きそびれたかと思い、イマヌエルは足早に医務室へ向かった。
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医務室があるのは、宮殿の中でもやや陰になっている場所だ。玄関の両側には大広間や応接間が会って、公子公女の結婚式や国賓を迎えた晩餐会、重要な会議などはこの付近で開かれる。その大広間の斜向かいー大広間の脇を通って左側の棟へ入ると医務室が見えて来るのだった。
主だった女官たちが大公妃の世話に控えていることから、普段は女性の話し声がしたり衛兵が敬礼し合ったり賑やかなのだが、この日に限って静まり返っていた。侍女が何人かいたのだが、眉尻を下げ気遣わしげな表情で話し合っている。ー何だか変だ。いつの間にこう陰気くさくなった?ーイマヌエルは嫌な予感がして知らず知らず顔をしかめていた。
「おはようございます、…伯爵閣下」
真っ先に彼を認めたのは執事だった。
「おはよう。…どうも今日は陰気臭いな」
「閣下もそうお感じになられましたか」
執事は重い声で言った。
「先ほど連絡がありまして、クラウス卿の城で死体が出て来たと」
「…死体が!?」
イマヌエルも眉間にしわを寄せた。
「はい。ーそれも白骨化しているそうで」
執事が言った。それなら皆が陰気になるのも無理はない。
「…それで侍医は朝から呼ばれたのか」
「はい。ー殿下のお見守りも今回は兼ねているそうです」
ー随分血の匂いがしてきたな。聞きながらイマヌエルは思った。クラウス卿、クラウス卿というが一度は君主の養子となった男だ。しかも、父親はともかくとして母親は貴族の生まれだから、決して侮られて良い人物ではなかったはずだ。そのクラウスのいた城で、何が起こっていたというのか。
「白骨化している⋯すると死んでからだいぶ経つんだな」
「そうだと思います」
「殿下は今どちらに?」
「侍医と一緒に現場へ向かわれました。今はご到着なさった頃かと」
嫌な予感がだいぶ現実味を帯びてきたようでイマヌエルはめまいを感じた。
「⋯妃殿下はお部屋か?」
やっとのことで言ったが、
「そのはずです。ーただ、先ほどの連絡からさすがにお心も塞がったようでして、今朝はまだお食事に見えておられません」
「そうかー」
イマヌエルは頭を抱えた。ー前に暮らしていた城で死体が見つかったというのだから、心の晴れるはずもなかった。だがどうしたらいいというのだろうか。
「しかし殿下がご自身で行かれるとは⋯」
イマヌエルは呟く。ーユーゼフがいなければ決裁を行うことができない。何をしている、そう怒鳴りつけたくなったが、イマヌエルは怒りをじっと堪えた。ー妃殿下のために城で何があったか見てこようと、殿下はお考えになったのだろうか。ご自身で動かれなくてもよいはずだが⋯。ーイマヌエルはユーゼフが解らなくなり対応に困った。クラウスならば自分の城だから見に行く必要もあっただろうが、ユーゼフはそうではない。
クレステンベルクから都までは列車を乗り継いでも半日かかる。決裁に時間がかかると困るので、イマヌエルも非常動員を決行することにした。父親のカルナッハ公爵に書類の検分を手伝ってもらうのだ。ー執事を呼んで事情を伝えると、快く電報を打ってくれた。
次の課題はルドヴィカの話し相手探しを誰に頼むか。だが適当な人物が思いつかないー。イマヌエルは悩み始めた。そこへ聞き慣れた低めの声がした。
「立ったままぼうっとしてどうしたんだ。何かあったのか?」
ーフェルディナンドだ。
「…お前は一緒じゃなかったのか」
イマヌエルはまた呆然とした。
「見事に断られたよ。ー俺に見せたくないものがあるようだ」
「見せたくないもの…?」
「ああ」
ユーゼフの物言いはイマヌエルにもいくらか引っかかった。隣国から来たからか、自分で自分の護衛に着けながらユーゼフはその男を信用していないのだった。だがそれだけではない。
「当分は、…妃殿下も城から出さないでくれと言われた」
フェルディナンドはそう言ったのだった。
「城から出すな?…じゃあ、この宮殿に顔を出すのもだめっていうのか」
「だと思うね。ーつくづく殿下のお考えになることは解らない」
フェルディナンドはうそぶいた。
食事に行くどころか城を一歩離れてもだめだと、ユーゼフはルドヴィカに伝えていた。なので必然的の彼女の世話は城の者たちしかできなくなる。寝起きや食事はいいとして、排泄はいったいどうするのか。イマヌエルも覚悟を決めた。こうなると、女官長に頼んで出張ってもらうしかない。
「シュスティンガー夫人はいるか?」
侍従を呼ぶと、イマヌエルは彼に女官長へ伝言を頼んだ。
「見かけたら至急頼んでくれ。…殿下が無事お戻りになるまで女官をよこしてほしいと。これは俺からじゃなく、殿下からの命令だと思ってもらいたい」
「承知しました」
侍従は静かにうなずき立ち去る。残ったのは青年貴族2人だが、フェルディナンドは少し気に食わぬと言った様子だった。
「よそから妃をもらっておいて、その妃に知り合いを呼んでこさせ…。どうにも俺は納得できない」
「ー気持ちは解る」
うなずきながらも、イマヌエルは別件を持ち出した。
「それはそうと、あのご婦人に一度会ってもらえないか」
「何だよ改まって」
フェルディナンドは言った、
「舞踏会へ俺を誘ってきたのも、女に俺を紹介するためか」
その手には乗らねえ。ーフェルディナンドは背を向けた。
「…軽い気分転換と思って会ってきてくれよ。そうしたらお前も舞踏会へ出なくて済むんだし」
「なぜそこまでして合わせたい?」
「…聞き出してほしいんだ。夫なしでここに残っている所以を」
ーイマヌエルの言葉にフェルディナンドはため息をついた。
「そんなことをお前に頼まれるとは」
それから彼は、
「俺は探偵なんて柄じゃないんだが…ここは1つ動いてやるよ」
「行ってくれるのか!?」
目を輝かせたイマヌエルだったが、期待した通りの答えは来なかった。ただ、
「心当たりがある」
とフェルディナンドは言う。
「…公爵の城まで遠いか?」
「公爵ー俺の父親じゃなくてか?」
「違う。ドミトリィ卿のところだ」
イマヌエルはああ、と言いかけたがすぐ顔を強張らせた。
「あの公爵を使う気か!?ー俺たちよりもずっと格上なのに」
「そこを行ってもらうんだ。公爵にはそうするだけの動機も気力も揃ってる」
「…なぜそう思う?」
フェルディナンドの言葉にイマヌエルは異を唱えようとしたが、次の言葉で止められた。
「あの公爵夫人は、俺から見ると幼馴染の従姉というだけだがドミトリィ卿にはどうも違うらしい」
「ー違うってどう違うんだ」
「前に話をしていた時、すぐそばで公爵が何か呻いていたのを思い出した。ー聞いたら『夫人と個人的に知り合い』だと。だがあの呻き声は友人同士のものに思えなかった」
「つまりドミトリィ卿を呼びに行くと?」
「そういうことだ。…城で見つかった死体は公爵の弟かも知れないぞ」
フェルディナンドはそうも言った。ーそれで動かすのか…しかし骨になっているのに身元はどこで解るんだ?ー半ば納得はしたが全容の掴めていないイマヌエル。
「身元を明らかにするには解剖以外にないかもな…でもそれで葬る手順は立てられる」
ーいやに淡々としているフェルディナンドに渋々うなずくイマヌエルだったが、とにかく聞いてもらえそうなのが解りほっとした。
「その後はどうするんだ」
「カレナ大公と会って来る」
フェルディナンドは言った。
「妃殿下の話し相手をしてもらおうと」
「…なぜ大公に頼むんだ?」
「なぜって、ー兄妹だからさ」
ーその言葉を聞いたイマヌエルは、しばらく口を開いたままになった。
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「閣下、…ただいま戻りました」
ドミトリィの前に男がひざまずいた。背の高い黒髪と黒瞳の青年ー上着の内側から何か取り出すと、彼は静かにそれをドミトリィに差し出した。
「…以上が今回の戦果となります」
「上出来だ。ーこれだけ手応えがあれば」
受け取ったものを見ながらドミトリィは彼に笑顔を見せる。差出人は皇家に関わりのある貴族ばかりだった。皇帝の遠い親戚だというグラッソーヴァ公爵、外戚のサヴァスキータ侯爵夫人、皇女の腹心であり親友ファウーダ伯爵夫人の3人だった。伯爵夫人の封書以外どれも厚みがあり重かった。
「どちらの方々も、閣下をご信用なさっているように思われます」
ー青年は言った、
「初め訪れました侯爵家から、続く2家への紹介状を受け取れましたので」
「ほう…」
「ただ、皇女殿下のお返事は後ほどになると伺いました」
「アルペディーニャではな。あまり遠いからそれも仕方ない」
ドミトリィは封書を開け読み始めたが、そのうち彼は不可解な点に気がついた。。皇太子の名がばらばらで、一致していなかった。
「ルスラン、ーお前はどう思う?」
開封して出てきた文書を側近に渡し意見を求めるがー
「頼んだ者としては言いづらいのですが、とても比較しづらいですね。ーなぜ皇太子の名が分かれているのでしょう」
「やはりか。⋯困ったな」
ドミトリィは頭を掻いた。もう一度読み直したのだが、やはり解読できなかった。そこへ執事が現れ彼に来客を告げた。
「今は断ってくれ。…忙しい」
ドミトリィは言いかけた、だが来客の名と用件を聞いて会ってみることにした。
「サヴァスキータ侯爵のご世子が舞踏会の件でお会いになられたいと」
「何、…舞踏会のことで?」
ドミトリィは聞き返した。
「はい。ーアステンブリヤ公爵夫人と話をなさって頂きたいとか」
執事は言った。ードミトリィも一瞬迷ったがやはり会うことにした。取られるのが癪だというわけでなく、自分の親族に何があったかドミトリィには読めてきたからだった。だがその確証を掴むまでには至っていなかった。
「解った。ー身支度の間に、何か飲み物を飲んでもらってくれ」
「はい、…旦那様」
執事はかしこまった様子で出ていった。
「せっかくだから休むなら休んでいい」
側近たちに彼は言ったのだが、
「一度お目にかかりたい」
「人となりを知りたい」
と、2人は下がろうとしなかった。ーまさか俺が倒れたら乗り換えるというわけではないだろうな。ードミトリィは一瞬疑いかけた。
ただその場では口に出さず、話が終わるまで待つようにドミトリィは2人の側近に伝え、それから応接間に向かった。
「主はじきに参ります」
ー執事は好きな酒を選ぶように勧めたが、フェルディナンドは未成年なので飲めないと断った。
「水一杯だけ頂ければ」
と言い、執事が差し出すと彼は水を少量ずつ口に含んで飲んでいた。
「いつもかようになさっておいでで?」
酒も茶も飲まない客は珍しいと執事は言い
「こちらは寒い地方ですので、…酒に限らず生姜茶など温かいものが好まれます。先ほど水で良いとおっしゃいましたが…お身体に何か障るのでしょうか?」
そう執事はフェルディナンドに尋ねた。長い職業経験からそうさせるもので、水だけだと体が冷えないかと気にかけていたのだった。
「お気遣い痛み入ります。…生姜など刺激の強いものを取ると後々まで尾を引いてしまうので、それで控えております」
「では、…コーヒーなども同じように?」
「はい。ー薄めて飲む習慣ができてしまいました」
ー来客の話に目を丸くしながらも執事は聞き入っていた。それから
「高原地帯と言っても地域によってこうも違うのですね。…こちらにおりますと、何でも濃い味が主になりまして」
と執事は言い、こう続けた。
「盛んなのはやはり放牧でしょうか?山となりますと羊よりヤギの方が?」
よくご存知ですね、ー執事の問いかけを聞きフェルディナンドは感嘆した。
「羊は確かに見たことがありませんー私の目に入ったのはほとんどヤギでした。山裾の方には羊飼いもいるそうですが」
「さようでございましたか…やはりヤギから取りますと、牛の乳とは味が違うのでしょうな。口に入りませんので解りかねますが」
フェルディナンドは軽く声を立てて笑った。
「違うようですね…四方を行き交う商人は、贔屓筋の口に合うものだけ取り揃えて商談に赴くと聞きました。父は行商より巡礼や旅の僧侶からよく話を聞いていたようですが」
「ほう…商家よりも聖職者の声を?」
「はい。ー彼らを通して他地方の特産品や作物の出来不出来を探るようです」
執事はまたも目を丸くする。
「ー行く時期によって出される食事も質や量は違うとか。これはあくまで伝聞ですが」
巡礼からそう聞いた、とフェルディナンドは語った。
「貴族間の物々交換ですかな?」
ー執事は微笑んだ。
「そうかも知れません」
フェルディナンドも笑みを浮かべた。
用意ができた、と降りてみたら話が弾んでいて驚いた。
「何か楽しそうにしていたが、私に隠れて商談を進めようというのではないだろうな」
軽くすごんでからドミトリィは客の方へ顔を向けた。もちろんこれは冗談だ。執事も、
「とんでもない、そのような」
と彼に告げた。
「水だけで良いとおっしゃったので、何かご事情があるのかと」
「…そうか」
「嗜好品の話から特産物にまで話が飛んでしまいました」
その話にドミトリィも含み笑いをした、だが次の瞬間彼は真顔に戻って言った。
「ー私に会いに来たのは、公爵夫人と話をしてほしい、…ということだったね」
「ーはい。急なご訪問をお許しください」
「それはいいんだが…君がわざわざここまで出向くのにはどういう背景があるのかな?」
「長期滞在の理由を夫人から聞き出せと。ー要約するとその一点に尽きます」
ーフェルディナンドは言った、
「ただその依頼者が、ユーゼフ殿下と同じ公国の人間なのです」
「…何!?」
フェルディナンドの言葉に、ドミトリィはつい声を荒げた。
「ご気分を害してしまいましたら、申し訳ありません」
「…君が謝ることでもないが、なぜそういうことになった?」
相手がまだ立ったままなので、ドミトリィは座れと椅子を指し示した。
「恐れ入ります」
フェルディナンドはその好意に従い、自分を落ち着かせながら着座した。
「君に依頼してきたのは誰だった?」
ドミトリィはまずそこから尋ねた。
「グランシェンツ伯爵です」
「ー公女の婿殿か。それで、伯爵は、どういうふうに君に言ってきたんだ?」
「…私と会いたがっている貴婦人がいるのでぜひ話をしてほしいと。ーその流れで、相手に公国に長くとどまる理由を聞いてほしい。ーそう言われました」
「…なるほど」
相槌は打ったものの、ドミトリィからするとはなはだ面白くない状態だった。ーつまり、自分になびく男ならあの女は誰でも良かったのか。ー不服ではあったが、せっかく交代を願い出てきた相手がいるので、ドミトリィもその流れに乗る気になった。何より失踪した弟の行方がこれで解るかも知れない。
「腹を立ててしまいますと収まりづらく、妻の不倫相手を射殺したこともございます。ー私個人の感覚なのですが、あまり面識ない女性に火薬の匂いを嗅がせたくはないので」
公爵閣下に替わって頂きたい。ー声も口調も抑えながらフェルディナンドは言った。その話を聞いて、ドミトリィにも裏の裏が見えてきた気がした。
ドミトリィはまずこう言った。
「…妃殿下とは幼馴染だったそうだね」
「はい、閣下」
「ひょっとして、皇家のお方々にお目通りしたことがあるのか?…皇家の一員のお1人にでも」
「ーごく小さい頃ですがあります」
フェルディナンドは答えた。そこまで聞いてドミトリィにも納得がいった。ー高位貴族に帰国を促すのだ、こういった遠回しの反語は相手をよく知った者にしかできない。ここへ話が回ってきたからには、俺がそれをやってみせようではないか。ードミトリィの貴族としての矜持が持ち上がってきた。自分に話を持ちかけた相手が何を恐れて替わってくれというのか、彼には解ったのだ。失踪した弟の行方も手がかりが掴めるかも知れない。そう考え、ドミトリィは引き受けることにした。
「君の望み通り、代役は引き受けよう」
ードミトリィは言った。
「確かに皇族に刃を向けてしまうと大事になるからな。不用意に近づきたくない」
気持ちはよく解る。ー憐れみや同情ではなく
本心から彼はそう感じていた。
「ありがとうございます、…閣下」
ーフェルディナンドも、表情や声から固さがなくなっていた。その様子に自分の弟が同じ年頃だった時期をドミトリィは思い出した。
ーあいつはいつから皇帝になろうなんて思い始めたんだ?父上にも叔父上にもその素質はないのに。
「礼はいらない。渡りに船で、こちらにも都合が良かった」
自分とよく似た薄緑の瞳を持つ青年を見て、彼はそう言った。それから側近2人の言っていたことを思い出し、相手にこう尋ねた。
「部下が君と話したがっている。もし君が嫌でなかったら、会ってみてくれないか」
「では、…面通しだけさせてください」
フェルディナンドはそう答えた。話し始めてだいぶ経つので、彼も早く御暇したかった。なぜ公爵の側近が自分に興味を持ったのかーそれが彼には不思議でならない。だがそれをはねつける理由もなかった。
ドミトリィは、執事を呼ぶと別室で控えている側近を彼に呼んでこさせた。2人はすぐやって来た、自己紹介もすぐ始まったが話を聞くうち3人には違和感が芽生えた。だが、手紙の文面から、やはり会うべきだったのだという考えに皆落ち着いた。
「我々はよそ者ということだろうな」
ドミトリィは言った、
「ーあまり国政に深入りするなと言われている気がする」
「…どなたからでしょう?」
「ーもちろん、皇族たちからだ」
ルスランの言葉に、軽く自嘲の笑みを浮かべドミトリィは答えたのだった。
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ーイマヌエルは、夜遅くなってやっと城へ戻った。腹の子が定着するかどうかの大事な時期なので、妻を一人残して城を空けるのは彼も気が引けた。なので、両親が自分たちを呼んでくれたことに感謝していた。
「若様ー!ようやくお戻りに!?」
「いくらご伝言くださったからって、日付変わるまでかかったなら泊まっていらしても良かったのに」
冗談ともジャレ付きとも受け取れる言葉を侍女は主の息子に投げかけた。
「…奥様が、お帰りあまり遅くて寝られないと嘆いておられました」
ー侍女長は言う。
「寝られない?…留守中何かあったのか」
「ここは自分のものだから早々に明け渡せと」
「まさか兄上が!?そんな」
不吉な予感に身を震わせながらイマヌエルは妻のもとへ向かった。
「妻はどうしている?」
「ご寝室で待っておいでです」
執事の返事に胸を撫でおろしたが、それでも不安は消えなかった。ーやっと寝室まで来て妻を見ると、妻は読んでいた手紙を脇へやりイマヌエルへとその顔を向けた。
「お帰りなさい、あなた」
「君にまで徹夜させてしまったね」
「兄が宮殿にいないなら私たちが代わりをしなくてはね」
徹夜したにもかかわらず、シャルロッテはそうとは感じさせぬ笑顔で夫に笑いかけた。彼女の笑顔は高級娼婦のそれのように甘美で魅力に満ちていた。ーこの甘い笑顔を見たらどんな堅物でもすぐに落ちるだろう!ー妻の
笑顔に見惚れながら、イマヌエルはその額に口づけした。
「兄は何を見に行ったの?」
シャルロッテは訪ねた、
「身重の私から夫を取り上げるまでして。普通ならありえないわ」
「クラウス卿の城だよ。ー人の入り込んだ跡があったそうだ」
イマヌエルは答えた。ー人の骨が見つかったとは腹の子に障りそうで言えなかった。
「妃殿下も、君と同じで城に籠もることになってしまった」
「お義姉様も…?それであなたもお義父様も駆り出されたわけね」
夫の言葉に眉をひそめるシャルロッテ。この言葉には、イマヌエルとしても同意せざるを得なかった。
「父には私が自分で頼んだが…。確かに君の言う通りだ」
「クラウス卿のお城へね…人を遣るとかいい方法がなかったのかしら。執務を放り出して出て行くなんて」
「…なぜだろうな」
ー夜着に着替えながらイマヌエルは言った。だが夫妻の抱いた疑問は、最悪の形で答えを見ることになった。




