ある憂鬱
義弟を信用できないことが解り、日に日にドミトリィは無口になった。妹のサーシャにさえ、彼は多くを語ろうとしない。妹の身に危険が及ぶと感じたためだろうか。その反面ヴァーニャやルスランとは多くの時間を共に過ごしていた。
「殿下も要は夫と一緒なのね」
サーシャはヴァーニャに呟いた。
「どういうことになりますの、…つまり」
「ご自分に都合が良いようにだけ、動いていらっしゃるという意味よ。ー兄から聞いた話でそれが解ったわ。大して仲良くないのに相手の女性が結婚するとなると…急に会いたくなられたのね!」
「殿下が…ご夫君のお従弟がですか?」
ヴァーニャは言った、
「招待を受けてらしたわけではなかったのですか?」
「それが不思議なのよ、ヴァーニャ!他の女性と、それもお相手のお姉様と付き合ってらした方がお姉様の方からお妹様へいきなりお相手を変えたのですもの。普通ならそうはならないでしょうよ」
夫や夫の親族の不祥事が明るみになるに連れ夫のもとへ帰る気のしなくなったサーシャ。彼女は夫と話す代わりに、ヴァーニャをよく話し相手にしていた。自分の紹介したことがもとで友人を2人も亡くしたドミトリィは、友人の妹が、ユーゼフに嫁いだルドヴィカが
兄に続いて夫を2人も喪う羽目になるのではと恐れていた。それで彼は妹にもあまり口を開かなくなっていたが、妹の身も安全と言いきれないように感じていたのだった。
「ハフシェンコ伯爵のご令嬢ですが、あの
方に手をお出しになったのがご夫君の侯爵というのは事実ですの?」
ヴァーニャは尋ねたが、サーシャは
「…夫以外でやりそうな男は思いつかない」
と答えるだけだった。
「抱いた女の数だけが私の夫には誇りなのだもの、こういうことが起こってもおかしくないとは思っていたけれど」
「お世継ぎの城で愛人探しを?」
「…そういうことなのではなくて?」
ーそこまで話すとサーシャも口を閉じ部屋へ行ってしまった。衣装係も今回ばかりは服を勧める勇気が出なかった。
「…舞踏会は何日後に?」
「そう近いうちでもないでしょうけど」
「お召し物はご新調なさらないのかしら」
侍女たちは心配したが、誰もそういうことについて指示はされていなかった。
「…お呼びだ」
不意に声をかけられヴァーニャは驚いた。
「イヴァンナ、ーお前をお呼びだ」
「ドミトリィ様が?」
「ああ」
ルスランからだった。ー公爵家の3人の子は皆彼女を愛称で呼んでいたが、ルスランたち従者はそうしなかった。カダルシェフ公爵とカテルイコフ伯爵、この2家と辺境伯の家は親戚同士だった。カテルイコフ伯爵には姉と妹がいて、姉はカダルシェフ公爵に嫁ぎ妹はカフトルツ侯爵に、次には辺境伯に嫁いだ。誘惑に負けさえしなければ、伯爵の妹は今も侯爵家で暮らしていたはずだった。
「父上が勧めた縁談だった」
ドミトリィは呟く、
「嫁ぎ先の一族の性質を、父上はお調べにならなかったのか…?」
「そうではございますまい」
執事が顔色を曇らせるが、ドミトリィはまだ納得できていない。
「ならなぜ叔母上が勘当になった?何が、どういう事情があって、父上は叔母上を勘当なさったのだ」
「ご夫君を手打ちにされたとかいうお話がございましたが…」
「まさか!ー私の知る限り、叔母上もそう気性の荒い方ではなかった」
「ー人は誰にでも同じ顔を向けられるものではございません。叔母君にも、耐え難いと思し召された部分があったのでしょう」
「…その背景を無視してまで父上は叔母上と縁を切ったと?」
ー扉を叩く音に気づき執事は言った。
「どなたですかな?」
「イヴァンナが来たとお伝えを」
「ヴァーニャか。入ってくれ」
聞き慣れた低い声にドミトリィも軽く笑みを浮かべた。
「…では、私はこれで」
「ああ、済まなかった」
若棟梁の様子に、執事は気を利かせて部屋を出て行った。2人の関係がどういうものか、城で知らぬ者もいなかった。
執事と入れ替わりで入ってきた女、彼女は公爵家の子どもたちには従姉にあたる。だが母親が既に除籍されていて、貴族のうちには数えられていない。なので公爵は身内として見ないようにと子どもたちに言ってきたが、妻の公爵夫人が実の姉なので、姪を引き取り自ら目の届く範囲で育ててきた。
「今お邪魔して良かったでしょうか?」
「もちろん」
イヴァンナの問いかけにドミトリィはそう答えた。ー彼の声音には甘いものが混ざっていた。ドミトリィはイヴァンナを抱きしめ、首元に唇を這わせた。
「…どうなさいましたの?」
「やたら気が立ってしまった。済まない」
男の背を優しく撫でながらお飲み物を取ってきますと言い、イヴァンナは立ち上がった。盃に酒と同量の湯を注いでそれを机に置き、彼女は言った。
「ウォッカを薄めましたわ」
女の胸元に顔を埋め、ドミトリィはまぶたを軽く閉じた。
「悪いな、ーこの時間に」
「それより何かご用がおありでは?」
「そうだったな」
イヴァンナの胸に自分の顔を押し当てたままドミトリィは言った。
「お前に頼みがある」
「殿下のお妃についてもらいたい」
「…殿下の、ユーゼフ様のお妃に?」
「そうだ。亡くなった皇太子の妹で、帝国の第二皇女だった方だ。…彼女の近くで不審死が続いている」
ドミトリィは言った。ーイヴァンナの顔色も聞いているうち真っ青になった。
「第二皇女というと、…かつてクラウス卿の奥方でいらした、あの…?」
「そう、『あの』ルドヴィカ姫だ。侍女に推薦したいという話は聞いているが知らない人間に預けたくないので、お前が姫のそばについていてくれ」
「解りましたわ。全て仰せのとおりに」
ー話が済むと、ドミトリィはイヴァンナの膝枕で眠ってしまった。侍女が何人か入ってきたが、主人の息子が寝入っているので何も言えずまた部屋を出て行った。
「…お珍しい、あのドミトリィ様が」
「昨夜ずっと起きてらしたせいね」
口々に侍女は噂し合ったが、寝入った主人を誰も起こそうとはしなかった。だが、ついに妹がやって来てドミトリィも起き上がった。
「…お昼前に昼寝はなくってよ、お兄様」
「ああ、申し訳ございません」
代わりにイヴァンナが謝ったのだが、
「ヴァーニャが自分に甘いのを知っていてそうなさるんだもの、全く」
「…昨夜もおやすみになれなかったとか?」
「違うのよ。コーヒーを何杯も飲んで不眠になっただけ」
サーシャは厳しい口調で言うのだった。そう聞いてイヴァンナは苦笑いする。
「この時間帯に情交などなさったら私からお兄様にお説教してよ」
ーサーシャはまた言った。
「でも、⋯ヴァーニャを呼び出したりして、どうかなさったの?」
「皇女についてほしいと」
「皇女…あの、世継ぎの公子のお妃に?」
サーシャが目を丸くした。
「それは構わないけれど…妃殿下はスラブ語ご存じないのよ。お兄様正気かしら」
「何語をお使いなのでしょう、そうしますと」
「帝国北部標準語かゲルマン語。ご両親がこちらのご出身ないからスラブ語はお話しになれない」
だが帝国北部ならヴァーニャも解るだろう?ーようやく起き上がりドミトリィは言った。
「サヴァスキータ侯爵の領地からシライアやファウーダまでが北部だ。叔母上はかつて辺境伯にも嫁がれていたからいくらか覚えておられるはず」
「…無理よ。急に習えだなんて」
サーシャは言ったが、
「この城に妃殿下をお連れする。ー殿下の城では私も気がかりだ」
話が行き詰まってきた頃ルスランが彼らに姿を見せた。
「…お子を身ごもられたそうよ。妃殿下も」
「ご懐妊したというのか?」
「ええ。伯爵夫人が言っていたわ」
ハフシェンコ伯爵夫人が。ーサーシャは言い
「侍女は彼女に探してもらえば?」
と兄に勧めた。
「ー私にいい考えがあります」
ルスランは言った、
「カフトルツ侯爵の愛人を数人お借り上げください。彼女らを妃殿下の身代わりにし、そばにおつけになったら良いのです」
ー言いながらルスランは薄ら笑いした。
「採算はあるのか?」
「ありますとも!彼女らは帝国の言葉なら宮廷の公用語も庶民の話し言葉も全て話せるとか。ー中には北部の言葉以外知らない女もいるそうです」
ルスランがそう話すので、ドミトリィも乗り気になった。サーシャはイヴァンナと2人で顔を見合わせている。
「なら、ー2人に手を借りないとな」
ドミトリィは言った。
「今月中には舞踏会がある。ーお前は今日明日中にヴァーニャと婚家へ戻ってくれ」
「…私とヴァーニャで?」
「ヴァーニャには、侯爵の気に入りを探し出しこちらへ伝えてもらおう。侯爵の城には妃殿下のお従姉も通うはずだから、お従姉が見つかったら今度はその様子を探ってくれ。少々際どい役かもしれないが」
「妃殿下のお従姉ってどなた?」
サーシャは尋ねた。
「アステンブリヤ公爵夫人だ」
「シルヴァーナ殿下が、夫と⋯!?」
「ルスランが現場を捕らえたそうだ」
兄の言葉にサーシャも気を失ってしまった。
サーシャを介抱するイヴァンナだが、その表情にも戸惑いの色が濃く現れていた。
「すると、私はその方の侍女に?」
イヴァンナはルスランに言った。ルスランも
「それがいい」
とうなずくのだった。ドミトリィは
「舞踏会の準備も考えないとな」
と呟いた。ルスランには手紙を預け、
「ハフシェンコ伯爵邸へ頼む」
「お任せを」
ドミトリィの言葉を受け、ルスランもすぐに城を出た。
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「ドミトリィ・カダルシェフ公爵の命により馳せ参じました、ルスラン・フョードロヴィチにございます。ーぜひご夫妻にお目通りをさせて頂きたい」
「ただいま喪中ですが、公爵閣下がいかなるご用事で」
「ユーゼフ殿下のお妃に関する件で参ったとお取次ぎを」
ー喪中と知っての来客に執事も怪訝そうにした。だがルスランは重要な要件で来たからと帰らなかった。
「ルドヴィカ様に何か」
「妃殿下付き侍女の件でご助言を伺いたいと主から言付けられました。主が亡き皇太子と知り合いで」
ーそうルスランに言われ、少し考えてから
「少々お待ちを」
と執事は屋敷の中へ戻った。それからすぐに執事は彼を客間へ通した。手には盃と小さな水差しが1つずつ。それらを机に起き、盃に水を注ぐと執事はまた行ってしまった。
「主を呼んでまいります」
ーその間に盃の水をルスランは一口飲んだ。
執事はやや小太りの中年男を連れて来た。
夫人はそばにいなかった。
「こちらが私どもの主で」
執事はそう言うと奥へ下がった。
「当主のボリスラフ・ハフシェンコです。公爵家よりご用命とは光栄至極」
「ハフシェンコ伯爵ー伯爵閣下でお間違えありませんね」
ルスランは確かめた。
「いかにも。して、私どもにご用とは」
「ーユーゼフ殿下のお妃ルドヴィカ様に、直属の侍女をご紹介頂きたく」
「ルドヴィカ殿下の侍女を紹介せよと?」
「はい。ー本日はそのためにお屋敷へ伺いました」
伯爵は、そうですかと言ってしばらくの間考え込んでいた。
「公爵閣下は亡き皇太子とご友人の間柄でおられるそうですな」
「はい」
「妻が妃殿下とは姻戚に近いので無理とも言い切れませんが…ただ紹介とまでは行かないかも知れません。その点はご了承ください」
「承知しました」
伯爵の言葉にルスランもうなずいた。その後ルスランはもう1つ頼み込んだ。
「もう1つお願いできますか?」
「言ってみてください」
「カフトルツ侯爵へご推薦状を頂けたら」
ー侯爵の弟を次女の娘婿にする予定だったと彼は聞いていた。伯爵は目を見張った。
「侯爵宛てのご推薦状を?」
「使って頂きたい者がありますので」
「ーそれはそれは。すぐ手配いたします」
ルスランの目の前で伯爵は紹介状を書いた。
礼を言って推薦状を受け取ると、ルスランはドミトリィのもとへ戻った。それを部下から受け取ると、さっそくドミトリィは妹の嫁ぎ先へ人を遣わしたー。
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カダルシェフ公爵から使いが来て、自分の妹と引き換えに愛人を貸せという主の伝言を侯爵に伝えた。
「『愛人を貸せ』だと?ー妙な口ぶりだな」
若き当主は言ったが、
「まあ。⋯白をお切りになるのね」
サーシャは夫を軽く睨んだ。
「私が君以外愛していないことはよく解っているだろう?」
「ー初めて聞きましたわ」
言いながらサーシャは城の奥へ入った。
「これだけ女の声が夜ごと聞こえる城もそうありませんのに」
「待ってくれ。⋯一体いつ、私が城に愛人を囲った?」
「それはご自分の胸にお聞きになったらいいわ」
サーシャが廊下を進んでいくと侍女たちが女主人を認め、静かに礼をした。この城では当主より彼の妻のほうが主人として慕われていた。
「⋯お客様方をお呼びしてちょうだい。全員部屋から出すのよ」
「誰のことだ?ー『お客様』とは」
侯爵は呟くように言ったが、サーシャは夫の言葉に耳も貸さなかった。
「こう何人もおいでになるとはね⋯いつからこのお城は遊女屋になって?」
彼女は言った。
「サーシャ!⋯それは違う!」
「愛称で呼ばないでくださいとずっとお願いして参りましたわよね?」
顔面蒼白の侯爵に対し、妻のサーシャは、アレクサンドラは怒りで顔が真っ赤になっている。
「国同士の和平を固める目的で私もこちらへ嫁ぎましたけれど、このご様子ではとても私のいる意味はございませんわ」
「⋯どういう様子が気に食わないと?」
「中流階級以上の若い女性を、あなたが大勢侍らせてらっしゃることです。⋯殿下の城で行方知れずになったインドラ嬢、彼女もこの城へお囲いになったのではなくて?」
「違う!私はただ保護していただけだ!!」
「…ご自分のお城なので妻の私に了解を取る必要はない。そういうお考えでしたのね」
「これは全部急な預かりでー」
侯爵は掠れた声で愛人などいないと言うが、サーシャは信じなかった。
「あくまでそうおっしゃるのなら、裏付けに証言を頂きましょうか」
「解った。⋯好きにしてくれ」
妻に凄まれ、侯爵も逆らう気力をなくした。もともと貧しい家の息子だったのが侯爵家に引き取られてその家の跡継ぎになった。だが実家が娼宿なので彼には貴族の身のこなしが板につかない。ー生まれも育ちも貴族という美しい妻にも頭が上がらず、気づくと妻より愛人たちに目が行ってしまうのだった。
サーシャは執事を連れ、城を見て回った。
どの部屋からも女物の香水や化粧品の匂いが漏れ出ていた。
「…これはもとからの風習で?」
サーシャは尋ねたが、執事は真っ青になってこう答えた。
「とんでもない!ー先代様にはこのような御所業はございませんでした」
「私を幻滅させないでくださいね」
言いながらサーシャは奥へと進んだ。どこを見ても無人の部屋はなかった。やがて彼女は夫のもとへ戻りおもむろに問いかけた。
「一番の上得意様はどちらに?」
「誰だ?…誰のことを言っている?」
「またとぼけてらっしゃるわ。…妃殿下の、ルドヴィカ皇女のお従姉もあなたとご懇意にしていらっしゃるのでしょう?調べはついていてよ」
サーシャは言うが、夫の侯爵には妻の指す相手が誰か解らなかった。
「ユーゼフ様の姻戚?ー私は知らないが」
「嫌だわ。…親戚関係を調べずに付き合ってらしたんですの?妃殿下のお従姉と申し上げましたのはシルヴァーナ殿下のことですの。アステンブリヤ公爵夫人。…何度もご一緒してらしたんでしょう?」
「アステンブリヤ公爵夫人!あの人が!」
侯爵は生きた気もしなくなった。
「舞踏会へ出たくないのは、あの貴婦人と会いたくないからですのよ。あなたのそばに控えているのがきついという以上に」
「私は単に話し相手をするだけだ、他には何も用はない」
「…ならなぜこのお城へ?」
「義父上のためだよ。君と結婚を決めた時頼まれたんだ。…あの人をここに置いてやってほしいと」
侯爵は暗い声で告げた。
「セイレーンをこの城に置けと父が?」
「そう、君の父上だ。…証人もいる」
そう言って証人を呼びに行かせたが、証人は見つからなかった。それでサーシャは数いる女たちから夫の気に入りの愛人を探すために彼女たちを集めたが、めぼしい者を見つけることはできなかった。はサーシャには気に入る相手がなかった。ー帝国北部の言葉を話す女がいるとルスランは言っていたが、それと思しき女を見つけるのは困難だった。結局、サーシャは傍観に徹しルスランに探してきてくれるよう頼んだ。
「この女です」
ルスランは金髪の女を引っ張ってきた。
「何か喋らせてみて」
「自己紹介を」
「私、マッダレーナ・カロエと申します。カーラスティバで生まれましたの。カレナの迎賓館で、1年奉公しておりました」
サーシャはこれに満足し、この女を連れ出すことにした。
その後サーシャは夫に言った、
「いつになったら別れてくださるの?妻は私でなくて良かったのでしょう?」
「…酔狂から君に求婚した。君はそう思ってきたんだね」
ー妻の言葉に侯爵はため息をついた。
「白状するよ。ー確かに、婚約した当初はその気ではなかった。…だがあの日、君を一目見て私は変わったんだ」
「どう変わったとおっしゃるの?」
「姉の言いなりをやめることにした。従弟というあの若者にいい顔をするのもやめた」
侯爵は妻に語るのだった。
「今はこの辺でやめておこう。ーだがそのうち君に全部話す。君にだけは」
そう言うと、マッダレーナ1人を除き侯爵は女たちを立ち退かせた。
「…じき舞踏会が開かれる。その前に準備はしておかないとー」
そう言いながら妻の肩に彼は手をやった。
「一度でいいから妻のふりをしてくれ」
「ふりって…!」
ー夫の腕を振りほどこうともがいたが、結局サーシャは夫に組み敷かれそのまま肌を重ねてしまった。
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
「弟があの女と寝た…?」
侍女から告げられ、その貴婦人は不快感を露にした。
「形だけの結婚にしろと言ったのに、まあなんて悪い子なのかしら」
「…申し訳ございません、お止めできず」
「いいのよ。…あの子が自分でそれを選んだのでしょう。お前たちのせいではないわ」
言いながらも彼女は不機嫌そうだった。
「それで、弟はどうしていて?」
「昨晩から奥様とおやすみです」
ー侍女は答えた。
「私が思ったより仲は良かったのね」
ここで貴婦人はほほと笑った。
「シルヴァーナ様ー」
侍女の1人が言った、
「放っておかれてよろしいのですか?弟君ご夫妻を」
「…いいのよ。実の弟ではないもの」
「もうお戻りにはならないかも」
「そうなってしまうと困るけれど、今は」
ー侍女との対話は続いた。『義父のために』カフトルツ侯爵が城に預かった女性ーそれがこの貴婦人だった。偶然にも引退した当主がどちらも彼女を気に入っていて、別れようとしなかった。夫の公爵は既に帰国し、彼女のそばにいない。もともと従妹に恋い焦がれていた人だから彼女になびくはずもなかったのだがーとにかく夫は彼女を見放し他国に置き去りにして行った。
柔らかな茶色の髪と琥珀色の瞳。肩幅よりいくらかふっくらしたやや豊満な肢体。この容姿で転がるような中高音とくれば、貴族の男たちが彼女に群がるのも無理はなかった。
ー特に中高年の男は彼女の美貌と美声に酔い痴れた。残念なのは、婿養子を取ったはずが自分が実の娘でないと悟られ早々に相手から婚約破棄されたことだ。それで15か16というまだ若い少年を彼女は連れてこさせた。その少年を将来は愛人にするつもりで。自分にも夫はいたからあくまで姉弟に見せかけるため少年にも結婚を勧めたー少年は成人してから妻に心を傾け始めた。つまりどれをとっても一つ一つが彼女の考えとは裏腹に働き出したのだった。
「…1人連れ出されましたわ」
例の侍女が言った、
「奥様のご実家へ行くと私は聞いたのですけれど、どういうお話があったのでしょう」
「誰が出て行くの?」
「マッダレーナ嬢が」
「マッダレーナが?」
シルヴァーナは顔色を変えた。
「はい。ー別に新参の侍女もいるようですけれど」
「そうなの。…あの子をどちらへ連れて行く気かしら」
「…伺ってみましょうか?」
「そうしてくれる?」
ー侍女に頼むとシルヴァーナは横になった。舞踏服などいくらでも予備があるから新調もいらない。ただ、弟嫁が邪魔なだけだった。
「…実家にいてくれれば良かったのに」
そう呟きながら衣装を脱いでいき、ついには裸になった。侍女たちはそれを拾い上げ洗い場へ持っていく。
「替えのお召し物は?」
「まだ乾いておりません」
「…仕方ないわね。次からは、肌着だけでも余分に買っておきなさい」
「はい、ー申し訳ございません」
侍女たちの会話が聞こえた。だが本人は気にしていなかった。
「夕食もここで食べるわ」
「そ、それは…!」
皆が真っ青になった。
「大旦那様のお耳に入ったらお小言どころでは済みません。ご勘弁ください」
「私がそう言ったと伝えておいて」
シルヴァーナは意思を引っ込めなかった。
弟夫婦ー現侯爵と妻アレクサンドラーは、執事や侍女長から話を聞き妻の実家へ3人で行った。侯爵夫妻とマッダレーナの3人で。この時には、マッダレーナも選ばれた理由をまだ知らなかった。




