由緒
クラウスとの結婚式でルドヴィカがかけていた首飾り。ーそれは紛れもなく、辺境伯の家で受け継がれて来た家宝だった。首飾りというにはずいぶん古びた代物だったが、石に彫り込まれた紋章が全てを語っていた。鎖が貴金属で作られていないのも盗難を防ぐためだろう。
兄の皇太子が亡くなりルドヴィカが都へと帰る時、フェルディナンドは1つだけ彼女に贈り物をした。祖母が身に着けていたという
長い首飾りだった。カメオの裏に、火を吹く鷲が刻み込まれていた。ずいぶんな年代物の真鍮製の鎖。白蝶貝の象嵌細工。とても値の張る品物だった。
フェルディナンドは言った。
『お前にやるよ。お前なら似合うと思う』
だがルドヴィカは複雑な顔をして言った、
『私がもらってはいけないんじゃー?』
旗と同じ図柄が彫ってあるわ。ーその言葉にフェルディナンドはこう返した。
『国を再興させる気もないし…これから他に好きな女もできないと思うから』
お前が持っていてくれ。ー彼はルドヴィカに言ったが、心のどこかで取り戻したいと彼は思い続けていて、他の男と結婚すると聞くといたたまれなくなった。それで、お前は俺を捨てる気か、どうしても他国の男がいいのかとフェルディナンドは詰ってしまったのだ。
相手が君主の跡継ぎならまだ納得はできるといった感じで、決して心から祝福して見送ることができずにいた。
結局気持ちに踏ん切りがつかず、こうしてルドヴィカと一緒に他国へ来てしまったがー彼は少し落ち着いた。もっと言えばそれまで落ち着いていた。アレッシオが彼の前に姿を見せるまで、フェルディナンドも心穏やかに過ごせてはいたのだ。だがやはり彼は平静を失い始めていた。
ここしばらく彼はユーゼフを見ていない。
執務室にも他の部屋にもその姿はなかった。何しろ、いわゆる〈お世継ぎ〉だから単独で旅行することも彼にはないはずだが、2日もユーゼフが執務を休むのは珍しかった。
「…まだお見えではないのか」
「お体に何か異常が!?」
宮廷でいろいろ取り沙汰され、それで余計に
フェルディナンドは苛立った。ー落ち着いて待ってもいられねえのか。何だよ、あいつらあれでも貴族か?ー1人の時になると、彼はことさら口が悪くなる。それを表に出すほど彼は愚かでもなかった。よほど気に食わない相手でもない限りフェルディナンドは礼節に従っていた。
「いつ頃からお戻りになるのでしょう」
「さあ?。もうじきではございませんの?」
貴婦人たちも顔を見合わせている。やがてフェルディナンドの耳に妙な会話が聞こえてきた。
「…なぜなのでしょうか。シャルロッテ様もおいでになりませんわ」
「まあ!シャルロッテ様も!?」
「お婚約者の伯爵は?」
「グランシェンツ伯爵のお姿も近頃は見ておりませんわ」
ー何だって、イマヌエルもいない…?いったい何があったんだ。ーフェルディナンドは話を聞いて疑問を抱いた。幼馴染が初めに嫁いだクレステンベルクの城。2人は少し前にその城を訪ねたらしいが、何が目的だったのか。そこにあるものといったら、自分が祖母から受け継いだ先祖の首飾りしかない。彼は少し胸騒ぎを覚えた。ー何か背後で動いている。間違いない。だがそれはいったい何だ?
あれこれ考えながら過ごしていたところを彼は執事に呼び止められた。
「殿下があなた様にお話を聞きたいと仰せです」
「殿下が、ーユーゼフ様が私に…?」
フェルディナンドは思わずそう尋ねた。
「どちらに伺えば?」
彼が言うと、執事は
「これからご案内します」
そう言って宮殿の隅にある例の食事室へ彼を連れて行った。
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「こちらへ」
ーフェルディナンドが入ってみると、中にユーゼフ含め4人いた。ーこれは…?自分から声をかけるのもためらわれるほどで、自分が罪を犯してしまったのかと彼は固くなった。ユーゼフの他はイマヌエルにシャルロッテ、カダルシェフ公爵ー皆がフェルディナンドと顔見知りだったが、誰も口を開かないために部屋は完全に静まっていた。
「私をお呼びと伺い参りました」
フェルディナンドはやっと言った、
「…急に呼び出して済まなかった。君に少し聞きたいことがあって」
「ーどの件についてでしょう、殿下」
ユーゼフにフェルディナンドは尋ねた。
「妻の身につけていた首飾りだ。ーあれを君は覚えていないか?」
ーやはりそれか。ー話を切り出された時、まず彼が思ったのはそれだった。
「首飾り…妃殿下のお首にあった真鍮の鎖のことでしょうか」
フェルディナンドはそう尋ねた。
「ー真鍮か。だからさびがあったのか」
ーカダルシェフ公爵は言った。
「祖母が亡くなるまでずっと首から下げていたそうで、私が受け取った時にはこの色になっていました」
声も顔色も変えないよう彼は努力した。だが少し苦しかった。
「すると、妻にあれを贈ったのはやはり…」
ユーゼフが少し目を伏せる。周りの者も彼の様子に注意を払い始めた。
「私です。ーまだ少年の頃でしたが」
「少年だった…おおよそ何年前だろうか」
これはカダルシェフ公爵。
「ー5年は前になります」
「まだ兄と一緒になる前のことね」
シャルロッテが言った。
「その首飾りだが、…妻の前いた城にそれがないことが解った」
ユーゼフはフェルディナンドに言いー
「前夫の城に誰か入ったのだろうと、僕も皆も妻から聞いてね。ただ誰が入ったのかが特定できない。それで思い当たる相手がないか君に話を聞きたかったんだ」
そう話を続けた。だが
「首飾りを欲しがる人物ですか?そうそういないはずですが」
とフェルディナンドは呟くように言った。
「君のご先祖はアザリカ王家出身と我々は聞いている。なので、そちらと何か縁のある人物がいたのではないかと」
君の父上は再興を果たせと君たちに言ってはおられなかったか?ーカダルシェフ公はそう彼に言った。
「私も何回か妻を迎えましたが、私に力を貸してくれるような家はありませんでした」
フェルディナンドはため息をつく。
「それで再興を目指すのはさすがに…」
「そういうことか」
「…義姉と知り合ったきっかけは?」
ーシャルロッテはフェルディナンドにそう尋ねた。
「妃殿下と知り合ったきっかけ…ですか?」
フェルディナンドの目が虚ろになる。彼にはどう考えてもここで答えていいように思えず口を開けなかった。自分が答えたばかりに、皇女の輿入れが無に帰するように感じられてならないからだ。
「形見の品を贈るからには、相手に相当の想いがあったはず」
ーそれはもう間違いないが、周りの男たちは対応に困っていた。シャルロッテの発言から空気はさらに重くなった。
「こちらの国では口にするなと、伯爵から念を押されませんでしたか?」
フェルディナンドはそう言った。
「確かに念を押されたわ。ーでもここまで聞いてきて、その話を聞かずには済まないと思うの」
ーシャルロッテは彼に言った。そして彼女はこう続けた。
「義姉の従姉に当たる女性があの首飾りを見たがった。義姉は別の兄に嫁いだのだけどその城で1人は姿を消して、義姉も何者かにさらわれた。義姉の連れて行かれた先にその首飾りがあるとしたらー」
「首飾りですか。…それはありえません」
「ーなぜ断言できる?」
「拉致させた人物が宝飾品には興味がないからです。妃殿下を連れ去らせたのも自分のものにするのが目的で、首飾りがほしかったわけではない」
「義姉を連れ去らせたのは誰だったの?」
またシャルロッテは尋ねた。
「アステンブリヤ公です」
「…あの人の夫が…!?」
ここで1つ呻き声が起こった。カダルシェフ公。ー彼はかつてアステンブリヤ公の奥方と蜜月の仲だったのだ。
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フェルディナンドの話は、昼前からずっと続いている。もう9時課に近かったが、話があまり重かったので部屋には呼吸できた者もいなかった。ーこれを今ここで聞かせるのは本当にどうかしている。ー皆に話をする間、フェルディナンドはそう思い続けていた。
「…閣下はあちらの家と何かご縁をお持ちなのですか」
フェルディナンドは公爵に尋ねた。
「まあな。ー個人的にだが」
「⋯さようでございましたか」
公爵の返答にそう言うとフェルディナンドも口をつぐんだ。
「妻の従姉がアステンブリヤ家の当主夫人というのは本当か?」
ーユーゼフは言った。
「事実です。⋯宮中で正式に発表されましたので」
カダルシェフ公爵は答える。
「夫妻が離縁に向かっているとも現在は伝え聞いておりますが」
「当主はまだこの国にいるのか?」
「そちらは何とも言えません。ー人を遣ってお調べになったほうが」
少しの間、ユーゼフと公爵2人きりの話が続いた。ーフェルディナンドは何も言わずに席に着いているが、イマヌエルは義兄の方を申し訳なさげに見つめるのだった。
「今からでも間に合うだろうか」
「まず動かしてみてください」
摂政大公の娘婿ーアレッシオを捕まえ事情を吐かせるためユーゼフは策を練り始めた。
「ー他に話を聞く相手は?」
「今は彼1人かと存じますが」
「そう言えば、お義姉様はどうなさっているのかしら」
不意にシャルロッテが言った。
「ー今は大公妃と話しているはずだ。少し前に彼女が妻を訪ねてきた」
「大公妃様が⋯なぜ?」
「大公より前に、あの人は皇太子と結婚していたからね。⋯妻とは義姉妹なんだ」
ユーゼフは答え、
「ここで空気を入れ替えよう」
と執事に窓を一部解放させた。
飲み物と菓子を新しく用意させ話し込んでいたのだが、皆が部屋の空気の重さに疲れてしまっていた。イマヌエルは顔を覆っているし、カダルシェフ公爵はユーゼフを見つめ、何やら言いたげにしている。シャルロッテは兄の方にだけ意識を向けているようでーその無表情なのがユーゼフには少し怖かった。
「本当に⋯何も思わなかったの?夫を亡くした女性が服喪もせずにすぐ再婚なんて」
シャルロッテは言った、
「間にお子もいるのだから、軽い気持ちで再婚を思いつくはずがないでしょう!」
彼女はそう言って兄を詰った。これは死んだ兄のためでもルドヴィカのためでもあった。
ルドヴィカは17でクラウスと結婚、その次の年には18で彼の子を産んでいる。だがその後間もなく彼女はさらわれ、クラウスもいないため城は無人となってしまう。ルドヴィカは今21なので、ゴットフリート1人はさんでもやっと服喪期間が終わるかどうかだった。
「何もすぐ引き離したわけじゃない。城の管理役も任命してあったし」
ユーゼフは言うが。
「でも、お義姉様はご出産後すぐご自分のお子と会えなくなった」
「ああ。…そうだね」
シャルロッテに言われ彼も心痛を覚えた。
「殿下も、お子がおられたことまではご存じなかったのでしょう。卿が亡くなったということも⋯おそらく」
「卿と彼女の婚姻は無効だと僕は聞いた気がする。ー誰に聞いたかは覚えていないが」
ユーゼフはカダルシェフ公爵に言った。この言葉に、シャルロッテはなおさらおかしいと思ってしまった。
「言った者をご記憶でない?ーそれは本当なのですか、殿下」
公爵は顔色を変える。
「相手は誰だったの?…貴族?」
「いや、…本当に覚えていないんだ」
これには公爵も頭を抱えた。ーだがここまで話してフェルディナンドが再び口を開いた。
「殿下、…1つだけよろしいですか?」
彼の口調に皆が注目した。
「もし皇太子がご存命でしたら、おそらく殿下との縁組も承知されなかったことと存じます。ー下の姫君については、伯父上の家を継ぐかご自分と親しい者に嫁がせると話しておいででしたから」
これは決して作り話でなく、彼が皇太子から直に聞いたものだった。
『君なら妹をよく知っているから、任せて大丈夫だろう』
皇太子はフェルディナンドに言った。ー彼の実の名前を知っているのも、宮廷では皇帝と皇太子だけだった。
「そうだ。…従姉もそう言っていた」
カダルシェフ公爵は呟く。
「目の届かないところに妹をやりたくないと?」
これはユーゼフの言葉。だが誰もその言葉を気に留めようとしない。
「皇太子が亡くなったのは?」
ーイマヌエルは尋ねた。
「5年前。ー確かそのくらいだと思う」
「妃殿下も社交界入りなさる頃だ」
公爵が言うと、フェルディナンドは
「アステンブリヤ家が嫡男の嫁にと太子に願い出ていたそうで…それが妃殿下のお従姉につながったのかも知れません」
と話した。
「鞘当だな。ー間違いない」
フェルディナンドの話に公爵もうなずいた。だが、ルドヴィカの再婚の経緯は、その後も皆の心に重しとなっていた。
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シャルロッテの言葉があってから、話題はいつしか首飾りでなくルドヴィカ本人の方へ移っていた。それはまあ当然の流れと言えば言えた、なくなったその首飾りを最後に手にしたのが彼女だったからだ。だがそれは既に持ち去られ、前夫の城にはなかったという。1年ばかりの空白期間に、何者かが城に入り込みその首飾りを持ち去ったということだ。
『再興など考えられる身ではなかった』
そうフェルディナンドは言った。首飾りがあるというだけで、それだけで国を興すだの何だのという動きにはつながらないはずだと彼は言うのだ。なら首飾りの価値はいったい何なのか。それがまた謎ではあった。
「今日はここまでにしよう」
ーやっとのことでユーゼフは言った、
「話してくれてありがとう。ー時間まで少し休んでくれ」
これはフェルディナンドへかけた言葉。だがユーゼフを除き皆が顔を見合わせていた。
「確かに喪中の期間が短すぎる。死んだのが配偶者なら、⋯2年は服喪するはずだったのでは?」
カダルシェフ公爵が言った。
「喪中に別の男と会わせて、故意に未亡人の気を反らせるつもりだったとか」
「そこまでする必要が?」
「ー考えたくはありませんが、可能性はあります」
公爵はイマヌエルと話し合ったが、2人とも服喪期間の縮められた理由が思いつかない。シャルロッテも顔を伏せ考え込んでいる。
「結婚式⋯4年前も本当にあったのよね?」
シャルロッテは言った。
「兄様も式には出てらしたのでしょう?」
「そうだけど⋯?」
妹の質問にユーゼフは答えた。ーこの数日に起きたことがまだ信じられず、彼の頭は少しぼうっとしていた。
「参列した人は全部で何人だったの?」
シャルロッテは言った。
「⋯そう多くなかったと存じます」
ーカダルシェフ公爵は彼女に答えた。
「階層はまちまちでしたが、故人と仲の良い者が10人ばかり参列していたかと⋯後はほぼ新郎新婦の身内で」
「⋯参列者の名前覚えていらっしゃる?」
シャルロッテはまた尋ねた、
「もし兄の秘密を知っている人がいれば」
「兄上の⋯クラウス卿の出生の秘密ですか?いないと存じますが」
私もこれまで存じませんでした。ー彼はそうシャルロッテに告げた。
「聞いたばかりの話が気になるのね。結婚は無効と兄は聞いたらしいけど⋯根拠はどこにあるの?」
「どちらも貴族なら、愛人の子も本妻の子と結婚できますからね。無効にはなり得ない」
「そうよ。⋯だから私おかしいと思うの」
「妃殿下に伺うしかないか⋯」
皆が話をする間にユーゼフは部屋から立ち去っていた。それを誰も気づかなかったし、不思議とも思っていなかった。だが声かけもせず急にいなくなったので、残った者が彼に違和感を抱き始めたのは確かだった。
「殿下がご存じとは思えない。ただー」
カダルシェフ公爵は呟いた。
「ご交流がなかったのに、急に兄上のお式に参列なさった理由が解らない」
「⋯いつ頃クラウス卿の存在が殿下のお耳に入ったのでしょう」
「それから探った方がいいか」
男たちはいろいろ話し合っている。そこにフェルディナンドは入らなかった。当事者に幼馴染がいたため活発に動く気にはなれず、彼は口を閉ざし続けた。カダルシェフ公爵とイマヌエルと、2人のやり取りを聞きながらフェルディナンドはただ座っていた。
「兄の出生の秘密⋯。それが首飾りの消えた理由と関係あるのではないかしら」
シャルロッテは言った。
「あの王家と関わりのある家なら、首飾りに手を伸ばしてもおかしくない」
「王家は断絶したはずですよ?ー今からあの首飾りを手にしても、殿下⋯」
ーカダルシェフ公爵は彼女にそう告げたが、シャルロッテは首を横に振った。
「残っているはずなのよ。⋯アザリカの方でなくもう一方の王家が」
「その末裔を探せとおっしゃるのですか?」
途方もなく時間のかかる作業だと公爵は頭を抱えたが、フェルディナンドはイマヌエルとうなずき合い
「手がかりはあります」
と2人に言ったー。
フェルディナンドの言った「手がかり」ーそれはイマヌエルの兄だった。城へ侵入したアレッシオが毒蛇の退治に来たと言っていたことから、この男が何か握っているのではとフェルディナンドは感づいたのだ。ついでに言うと、ルドヴィカの嫁ぎ先をアレッシオに教えたのは父親の先代公爵だったので、彼がクラウスの城とアレッシオの城を何度か行き来していた可能性も否めなかった。
「カルナッハ公爵の城にあの衣装があった?妃殿下のお召しになったあれが?」
「ああ。ー兄が持ってきたらしい」
「お前の兄さん、廃嫡されていたわけじゃなかったのか…」
フェルディナンドは、イマヌエルと2人で花嫁衣装のことを話していた。結婚する前にシャルロッテとクレステンベルクの城を見てきたのだが、首飾りだけでなく、花嫁衣装も城に残っていなかった。だがイマヌエルは、花嫁衣装だけは兄が父親の城に持ってきたと彼に話したのだった。
「父には廃嫡も勘当もされていたーだが、何かあると戻ってくるようで」
「クラウス卿の1件もその『何か』か?」
「ーひょっとしたらそうかも知れない」
「家を勘当されたとなったら、どういった身の振りをすることになるんだろうな」
「…そこまで暗い未来を俺に想像させないでくれよ。お前が頭いいのは解ったから」
「何も頭がいいわけじゃない」
ー仲が良い者同士、つつきあうようにして2人は話していた。ルドヴィカの借りてきた花嫁衣装が、なぜイマヌエルの父親のもとへ持ち込まれたのかーそこにまず1つ目の謎があった。挙式も披露宴もなしでイマヌエルは新婚生活に入った、だがその前に片付けないとならないこともたくさんありー彼は新妻とのびのび過ごしてもいられないのだった。
「そういえば、挙式はどうするんだ?もう日程とか決めたのか?」
フェルディナンドが言うと、
「まだだ。ーそれどころじゃない」
とイマヌエル。
「今回の1件が片付いたら考えるつもりでいたんだが…」
彼はそこで言葉を区切った。
「シャルロッテ様のご意向がー」
「ああ…」
フェルディナンドは吹き出した。
「あの姫さん、ーお前の婚約者だったんだな。ユーゼフ様の妹」
「…ああ」
「ーもっとおとなしい人が婚約者だろうと俺は思っていたよ」
「そんなに意外だったか?」
「ああ。…意外過ぎる」
盟友が笑うのを横に見ながら、イマヌエルはよく笑ってくれるなとため息をついていた。相手が承諾してくれたから良かったものの、本当なら彼女との婚約も解消されていたかも解らない。フェルディナンドはイマヌエルとシャルロッテが婚約していたこともそれまで知らなかったので、式や披露宴も彼に案内を出すことはしなかった。何より彼が随行員の扱いだったことが関係していた。
「…ずいぶん楽しそうだな」
ー突然声がした。
「披露宴の話が出ていたようだが、どなたかご結婚されるのかな?」
我に返って前を見ると、黒髪の青年が1人、笑いながら立っている。
「公爵閣下ー!」
魔の悪いところに来てしまったと固くなったフェルディナンドだったが、相手は特に気にしていないふうな素振りを見せた。
「…あれはあくまで自分の希望でして」
何とか取り繕おうとイマヌエルは釈明した、だが公爵は自分が後で話しておこうと言外に遮ってしまった。
「…せっかくだが、お友達を借りていいか」
ー公爵はイマヌエルに言った、
「どちらへ行かれるのですか?」
「妃殿下のところだ。事情は来てくれたら解る」
その言葉を聞き、フェルディナンドも黙って公爵について行った。
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「…君は妃殿下と知り合いだったね」
歩き始めてから公爵は言った。
「これからお部屋へ伺うんだが、さすがにユーゼフ様の妹君も、お兄上2人が関わっていてご自分では聞きにくいとおっしゃった。ーなので、君を呼ぶことにした」
「…私で良いのでしょうか?」
フェルディナンドは少し緊張してしまったが公爵が彼にこう告げた。
「私の従姉が、以前皇太子に嫁いでいた。彼女が君を見知っているらしい」
「ひょっとして、…あの後カレナ大公に?」
フェルディナンドは息を呑んだ。
「そうだ。ーだからつきあってくれ」
ー公爵の話を聞いて、フェルディナンドも承知しましたと彼に続いて城の奥へ進んだ。
ルドヴィカのいる部屋は、廃兵院と修道院の見える塔にあった。城では奥の方になる。
「ここで良かったかな」
塔の階段を登りながら公爵は言った。上に着いてから公爵は侍従に尋ねた、
「妃殿下に取り次いでもらえるか?」
侍従が
「どちら様でしょう?」
と2人に尋ねたので公爵はまた言った。
「こちらはカダルシェフ嫡男ドミトリィ。ー連れは妃殿下のご友人でサヴァスキータ家ご世子のフェルディナンド卿」
彼は侍従に言ったが、取り込み中なのか声がすぐには通らないようで、侍従は
「少々お待ちを」
と言い、中の小女ーおそらく侍女だろうーに声をかけて中の様子を尋ねた。小女を待つ間2人は静止していたが、途中で聞こえてくる会話に意識が吸い寄せられた。
「…無理?…何が無理と言っていて?」
「私と結婚するのは無理だと夫はその人に言われたそうなの」
「…考えられないわ!クラウス卿にそういう悪ふざけを言ったのはいったい誰なの!?」
ールドヴィカとイネッサが、ルドヴィカとクラウスとの結婚について話していたのだ。
何者かが自分との結婚を諦めろとクラウスを説得しようとしたらしく、彼とその男のやり取りをルドヴィカが耳にしていた。皇太子が妹への愛情を信じて託した相手、それがあのクラウスだった。彼に結婚を考え直せと男は迫ったらしいがー
「…聞けば聞くほど妙な話で」
ルドヴィカが言った、
「夫がー亡くなったクラウス卿が、大公の子でなく実は自分の子だと」
「嫌だ。…ずっと大公の庶長子だと私たちは聞いていたのよ」
「そうでしょう?それで兄も彼を信用していたと思うの。それが後にはああ言われて」
「…そうしたらあれだけの時間をかけたあの結婚式は何だったの?」
ールドヴィカが〈妙な話〉と言うだけあり、聞き手のイネッサが不快感を示す様子が見て取れた。どちらも表情を隠さず顔をそのまま出して向き合っていた。
「結局聞いてしまったな、我々も」
公爵は小声でフェルディナンドに言い、
「けっこう深刻そうですね」
彼もそう言ってうなずいた。会話の断片が、聞いた内容の深刻さを物語っていた。2人が顔を見合わせている間に小女は戻ってきた。
侍従は小女に来客の名を告げ、それで
「すぐお伝えして参ります」
と小女はまた奥へ行った。右側に座る女性に小女が尋ねると、彼女はうなずき、
「お入りなさい」
と答えた。右の女性は喪章だけ。ー喪服姿は左側の女性なので、この女性がルドヴィカということになる。
「ー失礼申し上げます」
入りがてら公爵は言った。
「不敬には相違ありませんが、…先ほどから話しておられたことを聞いてしまいました。ーあれが妃殿下のお耳に入ったクラウス卿の口論の中身なのですね?」
「…ええ」
「もし事実だとしたら、紛れもなく卿とのご結婚は白紙です。ーだが、卿にそう告げた男が誰か、我々はそれをまず突き止めないといけません」
ー女性2人は口をつぐんだ。実情を知る者が周りにいないため、誰も簡単に解決できると思っていなかった。
「これで公国へ嫁がれたのは2度目ということになりますが、…不思議な感覚に囚われたことはありませんでしたか?」
ー公爵がルドヴィカに言った。
「小さくてもいいので、妃殿下の中で何か違和感をお感じになったことがあれば、ぜひお聞かせください」
フェルディナンドも頼んだ。
「不思議な感覚ね…」
ルドヴィカは言った。
「国境を越えて公国へ入った時に、案内を務めてくださった伯爵を一度見たような気がして。…年齢や目元の印象から同じ人に見えて驚きました」
公爵は目を見開いた。フェルディナンドは、
「ーグランシェンツ伯がですか?」
と彼女に尋ねた。
「ええ。…伯爵は別人だと笑いながら教えてくださったけれど、ずっとその奇妙な印象が胸に残っていて」
「初めお会いになられた時の印象は?」
ー公爵が聞いた、するとルドヴィカは
「30は過ぎていると私は思いました。その人は瞳がどうも暗く濁っていて」
「30過ぎで瞳の暗い男…」
イネッサが呟く。
「伯爵の兄だ。ー廃嫡された、カルナッハ公爵の長男」
公爵が言うので、フェルディナンドは
「伯爵に知らせて来ます」
「頼んだぞ」
公爵は彼を見送った。
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
「私が来てからもう2人死んだわ。本当にどう考えたらいいのやら」
ルドヴィカは泣きながら言った。
「3年前は夫を亡くし、ここへ来て今度は義母と従兄…」
「不幸への耐性を試されているみたいね。それに私の夫まで関わるなんて…、本当に頭の中が整理できない」
「…ご主人は兄の親友だと私は思っていた。違ったの?」
「ーそう。私たち誤解していたのかも」
神妙な顔つきで、貴婦人たちは話し合った。
「ーシャルロッテ公女ですが、亡くなったクラウス卿のご親族は、今ではあの方お1人でしたね」
公爵が言うと、
「…ええ。小さい時に生き別れて、お兄様が生きていたことも最近になって知ったそう」
ルドヴィカはそう答えた。
「ご兄妹が生き別れになった時、それぞれおいくつだったのでしょう」
「『自分は9歳で妹は2歳』。…夫からそう聞いた気がします」
「その時に2人の母親も殺された。ー誰が手を下したのでしょう」
「さあ…」
皆で推理するうち時間は過ぎていったが、
公爵はまた言った。
「それにしても解らないのはユーゼフ様の動機です。…知り合いでも兄弟でもないのに、なぜ式へ参列されたか」
「…それもそうね」
イネッサはうなずき、
「誰かが卿の存在を匂わせたかも」
「ーご自分の兄弟だからというので会いに行かれた、ということでしょうか」
「…それだけだったら、結婚式でなしに他の日に予定を入れても済むはず」
「そうですね。ー私もそう思います」
公爵が言った、
「兄弟以外で、結婚式でないと会うことのできなかった相手がいたとしたら…?」
そう彼は言ってルドヴィカを見つめた。
「…?」
ールドヴィカは訳が解らなくなった。
「あなたですよ、妃殿下」
「!?…どういうことですの?」
ルドヴィカは唇を震わせる。
「お父上の見ておられた席順表に、殿下はご記憶のある名前を見出された。その名前は新婦のものでしたがーご自分の振った相手がお父上の養子と結婚を決めたので、さすがに殿下も気になられたのでしょう」
「そう言えば…私が13の頃から、見合いの話は確かにありました」
「そうでしょう?ーただ、ユーゼフ様は、お姉上の方と仲良くなられて妃殿下へ興味を示されなかった」
「そうでしたわ。…本当にそう」
ルドヴィカもやっと思い出して、
「その頃に、兄がー皇太子が、友人を私に紹介してくれて。それから兄の友人と文通を始め、彼が最初の夫に」
ーここまでたどり着くと、部屋にいた者は、もうため息しかつけなかった。
「めぐり合わせが悪すぎませんか。誰かが後ろについているとしか」
公爵は言った。
「誰かとは、いったいどなたですの?」
「…まだ解りません。ただ相手が我々のごく近くにいるように感じるのです、私は」
そしてまた公爵が言った、
「お2人をつなぐ唯一の存在が、卿の妹だというあの公女です。彼女は幼い頃から兄と一緒に宮廷で育てられてきた。ーだが気性が激しいというので兄だけはよそへ移された」
「気性の激しいのは、お兄様お1人でないように思うけれど」
ールドヴィカが言う。
「ーなぜそう思われるのですか?」
「…私が初め着いた時、侯爵夫人と話をする声が聞こえて。それを殿下が止めてらした」
「それがシャルロッテ公女だったと?」
イネッサも公爵も顔を見合わせる。
「すると…亡くなった大公妃から隠すだけが目的ではなかったということでしょうか」
「そういう気がします」
人は多くの顔を持つ。ー家族、恋人、友人…相手によって皆がその顔を使い分けている。だが、その裏に潜むのが何か、見抜くことのできる者はいない。
公爵は言った、
「ーグランシェンツ伯ですが、彼は大公の奥方についてこう言っていました。『気性も穏やかで気分もむらがないから、恨みなどを買うことはないはずだ』と。それは彼だから見ることができたのですね」
「…でしょうね。お子の幼馴染なら」
ルドヴィカもその感想に同意を示した。
「お2人とも、ご自分の身内には相当甘い対応をされた」
「それでシャルロッテ公女は不信感を?」
「そう見ていいと思います」
時刻は既に夜だった。ールドヴィカは軽い食事を用意させ、それを皆が食べたところで解散にした。
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
ー真夜中の祈祷が始まる頃、ドミトリィは自領の城に着いた。扉を開けるとすぐ、若い女が彼を出迎えた。
「お帰りなさいませ」
ー女はかすかに微笑んで言う。
「ヴァーニャ…」
まだ起きていたのか?ードミトリィが聞くと彼女はうなずいた。
「サーシャ様が…」
「サーシャが、どうかしたのか?」
ドミトリィはまた尋ねた。
「ご夫君からの手紙に悩んでいらして」
まだ帰ってこないのかとご夫君に詰問されるそうです。ーヴァーニャはそう告げた。
「いっそ離縁してくれたらいい。離縁してくれれば他の家へやれる。…愛人など囲うのは向こうだけなのだから」
ドミトリィは言った、それを聞いて
「ご冗談が過ぎますわ」
とヴァーニャは口元を覆い含み笑いした。
「こちらは本気だ。…大事な妹を、軽々しい男になどやれない」
「お話しになりますか?…お兄様をお待ちのはずですから」
ヴァーニャは真顔に戻って尋ねた。
「ああ、聞いてみよう」
ーヴァーニャは2階の奥へ行き、部屋の扉を叩いた。
「お兄様がお戻りです」
「お兄様が?」
小女がやって来て扉を開けた。ドミトリィは妹の部屋へ入り手前で扉を閉めた。しばらくして戻ってくると、その手にいくつか封書があった。
「ー代わりに読んでくれと言っていた」
「まあ…」
ヴァーニャは生姜茶を少し薄め、机の上に置いた。
「お食事は?」
彼女は聞いたが、ドミトリィは公子のお妃にごちそうになったからと断った。
「それは良うございました」
生姜茶を口に含みながらドミトリィは手紙を読み進めたがー感じの良い内容のものはなく彼も読む気はしなくなった。
「縁談を進めたのは父上だったが…妹を奴に嫁がせたのはどう見ても失敗だったな」
「それほどひどいことが?」
「ああ。…後で聞かせてやろう」
その前に私の相手をしてくれ。ーそう言うとドミトリィはヴァーニャの唇を奪った。
「旦那様…」
ヴァーニャはその腕を彼の首に回し、自分もドミトリィに口づけした。もう一度口づけを交わす時には、2人は寝台の上で抱き合っていた。
「お妃に会われたのですね?」
ヴァーニャは尋ねた、ドミトリィは
「ああ。ーおかげでいろいろ解ってきた」
「弟のヴラド様についても?」
「もちろん」
ー言いながらドミトリィはヴァーニャの肩に手をやった。脇にあったろうそくを吹き消し彼はヴァーニャの服を剥いでいった。
「ヴラドの姿も、…妃殿下は昔ご主人の城で見たらしい。だがヴラドはー最期はいったいどこにいたんだろうな」
「気になりますわね…」
ヴァーニャも言った。
時間が立つごとに会話が減り、甘い囁きや喘ぎ声がそれに取って代わった。そして狼の遠吠えのする頃には、2人は互いの腕の中で深い眠りに就いていた。
夜が明ける頃、ドミトリィは喉を潤そうと起き上がった。ふと人影に気づいて彼は足を止めた。男が1人ひざまずいていた。
「ルスランです、…閣下」
「ー今戻ったのか。首尾はどうだ?」
「ご愛人の公爵夫人ですが、まだ数名ほど懇意の方がおられるようです。ーその中にはサーシャ様のご夫君もいるかと」
「ーあの男も愛人の1人か」
「はい。ーそれだけではなくお父上もまたヴラド様も夫人に囚われていたようです」
「…何!?」
ドミトリィの表情が強張った。ーすると私は手駒に過ぎなかった…?そのつもりであの人は私に近づいたのか!
「お父上は、クラウス卿の存命中から、城で夫人と密会を。ー使用人の中にもその様子を見ていた者が複数おりました」
「ありがとう。…引き続き励んでくれ」
「承知」
ーそれだけ答え、男はまた立ち去った。
…本文を再編中です。
まとまるまで少々かかりますが、
どうかご了承くださいませ




