沸点
ほぼ伝説と化した祖先の絵姿ー遠い昔西の方にあった国の最後の王女の絵姿が、今でもフェルディナンドの部屋にはある。
『いつか祖国を再興させてくれ』
父親は言っていたが、彼は祖国のことをよく知らなかった。祖国の最後の王女がこれだと父親に見せてもらったが、まだ3つの少年に祖国だの何だのが解るはずもなく、その絵は古い城壁に立てかけられたまま時が経った。
『ご先祖はジャニス王女でしたかしら』
ハフシェンコ伯爵夫人は、執務室の前で彼を見た時そう口にした。彼が部屋に飾ったのはそのジャニス王女の絵姿だった。自分と同じように、物心がつく前に父親と死に別れたという王女。ー父親を幼い頃に亡くした彼は、その王女の絵姿を心の支えにしていたのだ。侯爵の城でルドヴィカに出会うと、その姿が絵に描かれていた王女の面影と重なり、彼は2つ年上の彼女に想いを寄せるようになる。
ルドヴィカは兄の皇太子が亡くなって都へ帰還し、以前の関係に戻ることはもうないと彼も考えていた。彼が心を許し想いを寄せる唯一の女性で、他の相手に心を移すなど到底できなかった。それでも18の時に彼も結婚が決まったが、妻は結婚早々に愛人を作り彼の目を盗んでは情事を楽しんでいた。その後も2度3度結婚したが、同じ結果で終わった。最初の結婚で失敗してから絵は取り外したがその後も不貞を働かれ、フェルディナンドは結婚する気をなくした。妻は婚外恋愛に身を入れていたのだ。ー相手がルイーザだったらこうならなかったんじゃ…。そう思うと、彼は無性に昔に戻りたくなった。その後は母親の慰めや励ましも、フェルディナンドの耳には入らなかった。
部屋の壁にかかっていた絵をルドヴィカが見た時の、彼女との会話。5年経ってからもそのやり取りがフェルディナンドの記憶から離れない。
『これはどこにあったの?』
ずいぶん古い絵ね!ー彼にそう尋ねながら、ルドヴィカは眉をひそめた。
『前の家にあったんだ。ーお前を肖像画に描いたんじゃないかと思って』
フェルディナンドは言った。ー雰囲気が似ていると思わないか?
『私がこういうふうに見えるの?どれだけ年寄だと思っているのやらー失礼な』
ルドヴィカはまた眉をひそめた。ーそれからこう言った。
『奥方を迎える頃には壁から外したほうがいいわよ』
『俺の奥方って…お前がなってくれるんじゃなかったのか』
フェルディナンドは呟いた。
『私はあなたと一緒になれない』
ルドヴィカは言ったー祖母を説得することはできなかったわ…。フェルディナンドはそれを聞いてひどく寂しくなった。
『もうお前と気楽に話せないんだな』
言いながらルドヴィカをそっと抱き締めたー言葉にならない想いを飲み込んで。ー14歳のフェルディナンドは、2つ上のルドヴィカの身長を追い越し始めていた。
『ーそうね』
ルドヴィカもそれしか言わなかった。彼女も多くの言葉を胸の奥に封じ込めていた。口に出せない思いがありすぎて、封じ込めるほかなかったのだ。
ー話すことはあったと思う。いくらでもとまでは言わないが、俺たちはまだ話すことを話しきれていなかった。フェルディナンドの胸にはやりきれなさが残っていた、だが今の彼にはそれをどうこうする時間も余裕もないのだった。
皇太子は愛人の口車に乗りジャニスの国を滅ぼした。アステンブリヤは皇太子の本命、オリガ公女の生まれ育った国だった。それで彼女の母国にちなみアステンブリヤ公爵家となったのだが、祖先が廃嫡された皇太子だというので、この公爵家は廃太子の子孫という呼ばれ方をしている。ーフェルディナンドはジャニスの子孫なので、時代が時代なら彼はこの一族と敵対する関係だった。今はそうとまで言い切れないが、ただ1つ気になるのは電報にルドヴィカの名前があったことだ。
ーもしかしたら俺にことよせてルイーザをさらっていく気なんじゃないか。それだけは勘弁してもらおうー何があっても奴には絶対渡したくない。フェルディナンドの胸に強い闘志が沸き起こった。




