事態はめぐりめぐって
ヴェストーザ公。彼はルドヴィカの従兄で、彼女の3つ上になる。皇帝の弟の摂政大公が彼の父親で、彼はその品格から〈太陽の化身〉〈貴公子中の貴公子〉と謳われ貴婦人たちの崇拝の的になっていた。皇太子とは従兄弟というだけでなく、良き友であり、互いに軽く張り合う良いライバルでもあったーこの人がルドヴィカをゴットフリートに紹介したのだった。ー彼の名をエンリコ・エマヌエーレといった。
縁談が反故になったのでゴットフリートは詫び入れに来たのだが、屋敷にも皇帝府にもエンリコはいなかった。執事の話では、彼が戻るのはいつだか解らないと。四方の親族に話をしに行ったらしい。なんでも
『話がまとまったら戻る』
とだけ言って出かけたそうでーあまり都合が合わないのでゴットフリートも途方に暮れてしまった。直接ルドヴィカに会って話そうと宮殿に行くと、今度は伯父の領地へと移った後だった。この様子だと対談は無理と悟ってゴットフリートも帰国することにした。
まだ手紙も何も出していないので、動きがそれまでと違うのにゴットフリートは大きな不安を抱いた。不安というより疑惑と言ったほうが正確かも知れない。自分の関知しない
ところで何者かが糸を引いているーそういう感覚を彼は抱いたのだった。ーこれから話をしようというのにどうなってしまったんだ?
ー自分の前に大きな壁が立ちはだかっていることにゴットフリートは気づかされた。
ゴットフリートとルドヴィカ、この2人をエンリコが引き合わせたのは、ゴットフリートが20歳の時だった。きっかけは貴族学校で彼が見かけた討論。ゴットフリートは休憩所で一人の青年と議論しているエンリコを見かけたのだ。普段は温厚なので、議論に熱中する彼の姿は周囲の注目を浴びた。
「殿下、そこまでおっしゃるのなら会わせてくださいよ。いくら何でも隠すことはないじゃありませんか」
「これでも皇帝の娘だからね。ーそう簡単に会わせるわけにいかないよ」
「⋯皇帝の娘?それにしてはお行儀良くない気がしますが」
「私の従妹が?ー冗談はやめてくれ。乗馬で品がないというなら、毎晩酒を飲んで女遊びする君たちはどうなのだ」
「いやいや、⋯いくら自分でも毎晩は夜遊びしてませんって」
「ーだめだね。私生児など産ませたら大変な名折れだから、ごめん被るよ」
そこで彼らの話は終わった。〈私生児〉という言葉が少し気になったゴットフリートだが、そこは何とか抑え込んだ。
それからしばらく経ち、今度は教室の席で写真を眺めているエンリコを彼は見かけた。遠目にも人物像を見ていると解ったのだが、髪の色などから彼の婚約者と違う人のように思われた。何か考え込んでいるようでもありゴットフリートは静かに声をかけた。
「ご覧の写真に写った女性は妹君ですか、お姉上ですか?ーかなり見入ってらっしゃいましたが」
ーそう尋ねるとエンリコは言った、
「⋯この写真か?私の従妹だよ」
そしてゴットフリートに写真を見せた。
「お従妹だったのですかー見事な黒髪の持ち主ですね!」
「そうだろう?実際この子ほど髪のきれいな女性はそういないよ」
一目で黒と解る豊かな髪にゴットフリートは惹きつけられた。
エンリコは、
「本当ならこの子もここへ通うはずだったが伯父の反対で白紙になった」
と言った。
「ー親族の一部が、この子には自分を皇族と名乗らせたくないと」
「⋯すると、この方は皇女ー」
「そう、ー皇女だ」
〈型崩れ〉と評される皇女が現皇帝の娘にいるという話はゴットフリートも噂に聞いて知っていた。ーだが、写真で彼が見たのは、型崩れどころか、ごく気品に満ちた貴婦人の姿だった。青といぶし銀の衣装で馬に横乗りしたルドヴィカの写真。首に鎖をかけているだけで武器の携行はない。ゴットフリートはその姿と笑顔に見とれてしまった。ーが少ししてから、例の議論を彼は思い出した。
「ー以前他の方と話題になさっていたのは、このお従妹ですか?今のお話からすると」
彼がそう問いかけるとエンリコは当たりだと答えた。
「祖母があまり辛く当たったので、この子は小さいうちに基礎を習得できなかった」
「ー皇太后がですか?」
「そう。⋯髪と瞳の色が不吉だと嫌がって」
「私には想像できませんが⋯そういうことが皇族の方にもあったのですね!」
とても型崩れとは思えないー。従妹の写真に惚れ込んだゴットフリートを見て、
「ー何なら一度会ってみるか?」
とエンリコは持ちかけた。
「この子の兄から後を頼まれたが、ー私の友人にも託せそうな人はいなくてね」
「…それでしたら、なおさら定評ある人物にお託しになった方が」
ーゴットフリートは言った、だがエンリコは無理だと否定した。
「名前を聞いただけで皆避けるのだ。私も釈明に疲れてしまった」
それからゴットフリートに言った。
「君は気に入ってくれたようだから。直に会ってみてだめならそれで構わない。ーだが今の様子を見る限り大事にしてくれそうだし、捨てたりはしないだろう」
傍系親族より貴族に嫁がせたいということらしく、エンリコは従妹の生い立ちや性格をいろいろゴットフリートに話した。彼の話を聞いたゴットフリートはついにルドヴィカと会う決心をしたーそしてエンリコに言った。
「私で良いのでしたらお願いします」
紹介してほしいという意味だった。ーそして
エンリコは伯父である皇帝に話をし、従妹を
他国の人物に紹介したいと直に伝えた。父の摂政大公もその場にいたが、写真を通してのやり取りを聞き紹介を認める決断を下した。その一月後、ゴットフリートは侯爵家の領でルドヴィカと対面した。
エンリコともルドヴィカとも会えないままゴットフリートは自領に戻った、帰ってから彼がまず目にしたのはエンリコから送られた書状だった。心が重くなるのを感じながら、ゴットフリートは封を開けた。その文面には
〔今後一切の交流・通信を謝絶する〕
とあった。思った通りだーゴットフリートはため息をついた。ー俺のいないところでこれほど早く物事が進むとは!こうなると、誰か裏で皆を動かしているとしか思えなかった。
「ルイーザ…最後に一目会いたかった」
ゴットフリートはそう呟くと、力なく椅子に腰を下ろした。まだルドヴィカからの手紙はなかった。だが来たとしてもどう説明したらいいのだろう?ー本当のことを告げたとして受け入れてもらえるのだろうかーそれだけは彼にも自信がなかった。ここへ来て婚約者と手を切らせられたゴットフリートは、自分の人生に深い絶望を覚えることになった。
帝国側が動き出したのは、ゴットフリートが帝国へ出たちょうどその時だった。皇帝府の奥に位置する皇帝一家の住む宮殿、娘の結婚を前に皇帝が家族四人で前祝いしていると、侍従が飛び込んできたのだ。彼は主君の前にひざまずき暗い声でこう告げた。
「陛下、⋯スタンハウゼンより急使が参りました。急ぎお目通りを拝したいと」
「いったい何用だ」
家族と過ごす時間を中断され皇帝は不機嫌を隠せない。ー侍従は言った、
「皇女殿下のご婚儀に関わるものと、急使は申しております」
「⋯何!?」
侍従の説明を受けて謁見に向かった皇帝は急使から驚くべきものを見せられた。それは娘たちへそれぞれの交際相手が別れを告げるものだった。皇帝は厳しい表情で話を聞いていたが、大公から届いた親書を読み終えるとそれを引き破って侍従に命じた。
「ヴェストーザを呼べ」
ーヴェストーザ公は皇帝の甥、すなわち摂政大公の息子でルドヴィカたちの従兄、つまりエンリコだ。外交任務を担っていた彼を皇帝は急ぎ呼びつけたのだった。
エンリコが到着すると、不機嫌そのものといった表情で皇帝は彼に文書を突きつけた。
「そなたを信用して、余は娘たちの縁談を任せたがこの結果に終わるとはいったいどういうことだ」
「とおっしゃいますと…?」
エンリコは呆然と尋ねた、そして目の前に置かれた書面を凝視した。
「娘との縁談を見送ると、先方から申し入れがあった。ー余が真摯に取り組んできた和平交渉も断るとな。こうなっては見くびられていたとしか余は考えつかぬ」
2つに裂かれた書状を目の前にして、エンリコは平伏するしかなかった。
「申し訳ございません」
ーこの前までは順調だったのにここへ来て決裂…?そんなばかな!伯父に詫びながら、
エンリコは原因を探し始めた。
「一番の問題は第二皇女の婚約者だ。侯爵は大公の庶子とあったが、公国にはそのような人物はいないそうだ」
摂政大公の言葉。
「大公の跡継ぎの方は、⋯マルゲリータからルドヴィカに換えたいと申してきた。娘に瑕疵でもあるなら応じるが、何の説明もなくこのように扱われるのは我慢がならぬ」
「⋯御意にございます」
「直ちに仕切り直せ」
皇帝に命じられ、エンリコは重い足取りで
謁見の間を出た。そこへルドヴィカがやって来た。従兄が急に登城してきたので、彼女は姉と共に様子を見守っていたのだった。
「ヴェストーザ公ー」
ルドヴィカはエンリコに呼びかけた、
エンリコは振り向いた。
「この時刻にいらっしゃるなんていったいどうなさいましたの?」
ごく丁寧な口調で彼女は言った。ー従兄でも公的な場では主従関係なので、下の名で呼ぶことはできなかった。
「ルイーザ様⋯、」
エンリコは力なく言った、
「ご婚約が反故になりました…とてもお詫びする言葉がございません…」
「…反故ですって?そうしたら私はどうなるの」
マルゲリータもエンリコを見つめていた。
「先方からは、…姉上様とご交換なさりたいとのお話があったとか」
エンリコが言うと、姉妹は顔を見合わせた。
「ここへ来て急に破談だなんて…。あまりに不自然ではなくて?」
「…事情は何かありそうだけれど」
ー2人はしばらく話し合っていたが、やがて納得できないといった顔つきでルドヴィカはエンリコに言った。
「…私は公子のもとへ行くわ」
エンリコは掠れた声で殿下…と呟いた。
「後から取り消せませんが、殿下はそれをご承知の上で嫁がれるのですか?」
彼の問いかけにルドヴィカはうなずいた。
「ーもちろん」
「陛下もそこまでお考えではないようですから、おやめになるなら」
今のうちです。ーエンリコは言おうとしたがそれを聞かずにルドヴィカは父の前へと自ら出向いた。
ルドヴィカは皇帝の前まで来て言った。
「ーお父様、お願いがあります」
「何だ。ー何がしたい?」
ールドヴィカがそう言うので、皇帝は驚いて彼女を見つめた。だがその眼差しにも声にも娘への愛情が満ちていた。
「私を、…公子のもとへ行かせてください」
「ー何!?」
皇帝の声が上ずった。何を言うのかと皇帝は言葉を失ったし、隣にいる皇后や摂政大公はなおさらそうだった。だが皇帝は不安を表に出さず、ただ静かに娘に聞き返した。
「そなたはユーゼフ公子の妻になるというのか?」
「ーはい」
「嫁がせてからは、余も皇后もついていてやれぬが、それでよいか」
「はい」
皇帝の問いかけにもルドヴィカは簡潔にしか答えなかった、それがまた皇帝には戸惑いを感じさせた。実の親ではあっても手元で育てられず、娘の幼い頃しか見てこられなかっただけ余計に皇帝は寂しさを禁じ得なかった。
ーこれが母上の御前から逃げて義兄上の懐に行った、あのルイーザか?母上のお顔つきが怖いと泣いて逃げ惑っていた娘か?義兄上のご領地で余の娘は何を見てきたのかー。
「そなたは本気で嫁ぐつもりなのか?国を出たら帰っては来れぬのだぞ?」
皇帝は静かに言った、
「ー解っています」
「父も母も、あなたのそばにはついていてやれなくなるのですよ」
これは皇后の言った言葉。だがルドヴィカは心を決めていた。
「お言葉はとても嬉しいのですが、ここで自分を甘やかせる気になれなくなりました」
「ーいったいどうしたのだ」
皇帝は心を痛めた。
「物心ついてから、お父様やお兄様が私のことで心を砕いていらっしゃるのをずいぶん見てきました。従兄のエンリコにも」
ここで彼女は話を区切り、後ろにいる従兄を見遣った。
「私の嫁ぎ先を探すだけでさんざん苦労をかけましたしー今回ばかりは自分の目と耳で物事を見ておきたいのです。戦争を終わらせようとお父様が苦心なさっていらしたのも、私は伯父様から聞いて知りました。私が嫁ぐことで少しでも進展するのなら、嫁ぐ価値は十分あるでしょう」
「ルイーザ…」
娘の言葉に皇后も目頭が熱くなった。
皇帝はしばらく無言でルドヴィカに視線を注いでいたが、やがて言った。
「解った。ー娘のそなたが申すからには、余も心を決めよう」
「ありがとうございます、お父様」
父親の返事にルドヴィカは瞳を輝かせた。
「輿入れにそなたの叔父と従兄を後見また見張りとしてつける。ー存分に頼るが良い」
ーそう言うと、皇帝は隣に座る弟に軽く目を遣った。摂政大公は緊張した表情で一言
「他意はございません」
とだけ言った。
「本当にそれでよいのですね?」
皇后が念を押すとルドヴィカは言った。
「もう心は決まりました」
ユーゼフとルドヴィカの結婚が決まったのはこういう経緯からだった。
それから父に礼を述べて彼女は出て来た。マルゲリータは心配そうに妹の顔を見つめ、エンリコは本当に向こうへ行く気かと従妹に問い詰めた。だがルドヴィカはもう決めたとしか言わなかった。
「婚約さえしなければ」
彼は最後にそれだけ呟いた。ー私に婚約者がいなければ…彼はそう思ったのだった。この美しい従妹を彼は心から愛していた。
「…これからずっと会えないわね」
マルゲリータも涙を流した。姉妹は固く抱き合って別れを惜しんだが、摂政大公だけは、準備を整えねばと硬い表情で帰参した。
ーユーゼフのもとに返事が届いたのはその翌週だった、ルドヴィカが自分の求婚を受け入れたことに彼は恍惚としていた。
「これであの姫と一緒に暮らせる」
息子の様子に大公は不安を感じたが、本人はそれを見なかったことにした。
ゴットフリートは紹介しなかったが、実はその方が都合が良かった。彼女の双子の姉がユーゼフの交際相手だったから、結婚とまでいかなくても彼はマルゲリータから紹介してもらえたのだ。自分たちの交際披露宴で。
舞踏会でユーゼフが違和感を覚えたことがたった一つあった。それはゴットフリートとルドヴィカの話の内容だ。ただ楽しそうでは済まず、隠し事をしていると思わせるようなセリフが出てきたのだった。
『辺境伯の息子には頼まなかったのですか』
辺境伯ー彼はルドヴィカの伯父と実際全くの別人物で、かつて西隣にあった古王国の血を引いていた。彼に息子がいたのは事実だが、その存在は皇帝一家と摂政大公しか知らないはずだった。ーゴットフリートがユーゼフと同じ国で生まれ育ったなら、当然その事実を知っているはずがない。ルドヴィカも他国で育ったはずの彼が自分の幼馴染をなぜ知っているのか疑問を抱いた。そうして彼女が思いだしたのは幼馴染に聞いた一言だった。
『僕には腹違いの兄さんがいる』
ルドヴィカは幼馴染に確かめようとしたが、彼は彼女の話に耳を貸さなかった。
ルドヴィカの婚約者について公国から来た通知だが、ユーゼフの庶兄は成人前に死んでしまっていること、さらに称号も弟と同じく公爵になるはずだったこと、それら2つから「弟」のユーゼフは兄のことを知らされてはいないという。それで皇女を嫁がせるわけにいかないと皇帝は判断した。それに加えて、2人の娘を入れ替えろという公国からの要望も皇帝には理解しがたかった。それでも実際舞踏会に出てユーゼフと直に話をしたことでルドヴィカは彼に嫁ぐ気になったのだった。だが最後にもう一度幼馴染と話そうと思い、彼女は伯父の領地へ戻ったー。
…本文を再編中です。
まとまるまで少々かかりますが、
どうかご了承くださいませ