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その花は天地の間に咲く 前編  作者: 檜崎 薫
第一部
26/96

行く末

 〔スタンハウゼンに着いた〕

 ー息子からの手紙を侯爵夫人が受け取ったのは、ちょうど婚約式の行われる日だった。

 「あなた、無事に着いたそうですわ」

 「ーそうか」

侯爵はそれだけ言って微笑んだ。

 「無事にお務めを果たしてくれれば…」

侯爵夫人は呟く。ー大丈夫だ、気にするな。横で侯爵はそう答えた。

 今でも、子を産んでいなければと、彼女は強く後悔していた。ーあの日私がお断りしていれば。奥様のもとへ行くよう、お勧めしていれば…。主人の子を産んでしまったことが、ずっと心残りになっていた。

 サヴァスキータ侯爵夫人、カラヴァッシア城主夫人シルヴィア・メリッサ。世話係から妾を経て正夫人へと成り上がった、数少ない人物だった。19で奉公に上がり翌年には20で辺境伯の子を産んだーそれが自分だけでなく息子の運命を変えるとは知らずに。

 父親が死に仕事口を探していると、近所の老人から城に上がってみないかと彼女は声をかけられた。子供の世話係を辺境伯が求めていると。それが始まりだった。

 『そんな、お城に上がるなんて⋯!』

貴族の子供を世話するというのは考えさえもしなかった。だが、奉公先は、先代の奥方も当主も優しい人柄だと老人は言った。

 『お前さんなら見込みあるよ』

 『でもお子様のお世話でしょう?私その経験ないし』

断ろうとしたが、向こうで教えてくれるからやってみろと押し切られてしまった。それが彼女の大きな転機になった。

 城の女中頭と会って諮問を受け、最終的に彼女は奉公に入れることに決まった。ただ、一度奉公が決まったら城から出られないと。それを知った彼女は、女中頭に頼み仕送りをしてもらうことにした。女中頭もその願いを快く聞き入れた。

 『仕送りくらいなら問題ないから』

その言葉を聞いてシルヴィアの顔色も明るくなった。

 『ありがとうございます。お願いします』 

 『お安い御用だ』

女中頭も笑った。 

 彼女の世話するのは3つになったばかりの幼い少年。ー先代辺境伯の奥方も、もちろん主人の辺境伯もいる。だが少年の母親の姿がない。貴族が子供の教育を人にさせる自体は普通にあったがー母親の正妻がいなかった。

何気なく主人に尋ねると彼は黙って首を横に振り、立ち去ってしまった。

 『若奥様のことはいいから』

女中頭は言う。別の侍女は、

 『旦那様と不仲なのよ若奥様。嫁いできたその日から』

と言った。そうして、城に上がったその日にシルヴィアは奉公先の秘密を知ってしまったのだった。 

 主人が1人でいた時、シルヴィアは近くに行って恐る恐る声をかけた。

 『あの、…旦那様』

辺境伯が振り向くと、彼女は静かに謝った。

 『先ほどはすみませんでした。何も考えず口にしてしまって』

辺境伯はああ、と苦笑いし、それから彼女にこう言った。

 『別に構わないよ。ーこちらこそ君に気を遣わせて悪かった』 

最近は妻と反りが合わなくてねーそう彼女に話すのだが、その口調はどこか自嘲気味でもあった。

 正妻と話したことはないから、あれこれと口を出す気にはシルヴィアもならなかった。だが、妻とほぼすれ違いで会話すらできずに過ごす主人の姿は、彼女の胸に痛みすら感じさせた。 

 主人の息子に読み聞かせしたり、添い寝で寝かせてやったりしていたシルヴィアだが、途中から子守の対象がやって来なくなった。聞けば

 『若奥様のところに』

と。それからは、辺境伯の息子をあやす姿も見られなくなった。妻も息子もそばにいないとなると、辺境伯もいよいよ離縁を考え出すようになった。世話する対象は主人の母親に替わり、老婦人に仕え、貴族の妻の代わりをシルヴィアはするようになっていった。

 『君のおかげでここは保っている』

辺境伯は彼女に言った。

 『でも、…お寂しくないのですか』

 『寂しくないと言えば嘘になるが…もともとそういう人だったと思えば…』

辺境伯の呟き。

 『ご自身だけでなくお子様まで、若奥様は旦那様と引き離してらっしゃる』

 『仕方ない。ー今から彼女に言ってももう直らないだろう』

それを聞いて涙ぐむシルヴィア。彼女が頬を濡らすのに気づいた辺境伯は、その涙を指で拭い、自分のもとに抱き寄せた。

 やっと戻ってきた正妻は息子を夫のそばへ行かせようとせず、シルヴィアにも父親にも正妻の子はなつかなくなった。城の手入れや少年の世話を終え少年がおとなしくなると、シルヴィアの方が疲れ切って寝てしまった。それを辺境伯は抱え上げ、寝台に運んだ。

 『あ…旦那様…』

シルヴィアが呟くと、その唇に辺境伯は指を当てた。彼は彼女の唇に自分の唇を重ねた。シルヴィアも自分の腕を主人の首に回した。

 『ここなら2人でゆっくりできる』

そう言って彼は何度も彼女に口づけした。

 『私の子を産んでくれ』

 『え?…ええ』 

男の腕に包まれたまま、シルヴィアは眠りに就いた。ー正妻の姿はなく、主人の辺境伯と使用人たちが城にいるだけだった。そうして2人は屋根裏で抱き合った。何度となく彼と愛を交わすうち彼女は子を宿し、男児を産み落とした。

 「あの子は私と同じ道を選んだ」

 侯爵夫人は呟いた。

 「愛する者と生きる道を。ー身を引くのでなく、身を乗り出す道を…これほど険しい道もないのに」

皇女の夫になるには、自分の血筋を証明するだけでなく実力も示さないといけない。その2つを息子が果たせるかどうかーそれだけがこの人には気がかりなのだった。 

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