狙われた貴婦人
伯爵夫人と話してからフェルディナンドは部屋へと戻った。ユーゼフと大公の間を取り次ぐのが役目だったから、彼の部屋は宮殿でなく別棟の中にあった。それで夜遅く戻ったのだがー妙な男と出くわしてしまった。
「これは失礼」
肩がぶつかったので彼は軽く謝った。だが相手は暗い目で彼を見たきりで、返事は何も言わなかった。それが少しするとー
「見慣れない男がいるぞ」
ほんの数秒前すれ違った男が、侍従に話しているのが聞こえた。ー俺のことか。そう思いながらも、フェルディナンドは黙っていた。
見知らぬ国で揉め事を起こすのは賢明な策と言えない。ただ気になるのは眼光の暗さだ。あれほど暗い眼光を放つ人間に会ったことはなかった。だがいったい何者かー朝になってからユーゼフに聞くことにし、その他は何も考えず寝てしまった。
翌朝。ーフェルディナンドが出仕すると、侍女たちが騒いでいる。
「見慣れないも何も…すれ違ったのはよその国のお方でしょう?」
「嫌ねえ、いくら瞳の色が珍しいからって!」
そう言って彼女たちは笑いさざめいた。
「そんな緑色の瞳は珍しいの?」
「さあ…?生まれた場所によるんでしょうよ」
侍女たちの話は尽きなかった。ー俺はネタにされてしまったな。軽くため息を付きながらフェルディナンドは執務室へ行った。侍従は彼を見ると黙って扉を開けてくれた。執事が部屋を整えていたが、ユーゼフの姿がない。
「おはようございます」
執事に挨拶してさっそく本題を切り出した。
「殿下をまだお見かけしませんが、ひょっとして今日が…?」
執事も彼の姿を認めて手を止めた。
「おお、これは。おはようございます。よくおやすみになれましたかな?」
執事は60代の後半近い、痩せて背の高い老人だった。
「おかげさまで…。少し寝坊しましたが」
フェルディナンドが言うと執事は笑いながらこう答えた。
「大丈夫ですとも。ー昨晩は遅かったと伺いましたので⋯殿下は先ほど婚約式に向かわれました」
執事の話にフェルディナンドも納得した。
「それで、お姿がないのですね」
「ええ」
お召があるまでどこぞで待機なさったらよろしいかと。ー執事は言った。
「そうですね。ー待ち構えているのも⋯」
フェルディナンドは、執事の話を受け少し宮殿を散策することにした。2階は使用人の部屋があるので1階部分だけ。薄墨色の壁や階段脇の肖像画が、いかにも君主の住まいという貫禄を感じさせた。
「これが大公の住む屋敷か…」
息を呑んで鑑賞していると、どこからか女の悲鳴が聞こえた。
「侍医を誰か呼んでくれ。すぐに」
「場所は⋯?」
ユーゼフの声に、フェルディナンドは思わず
反応した。
「婚約式の会場と言えば…」
ユーゼフが言う。
「解りました。すぐに」
そう答えてフェルディナンドは走り出した。
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フェルディナンドは医務室に駆け込んだ。
そこにはイマヌエルが立っていたが、必死の形相をしたフェルディナンドを見て彼は何かあったと感づいた。
「婚約式の会場へ侍医を」
「な…、婚約式ですと!?それは大事だ」
フェルディナンドの説明を聞き2人は会場へ走った。中へ行ってみると、大公妃の足元に侍女が倒れている。
「妃殿下…ご無事でしたか」
侍医は胸をなでおろすが、大公妃は
「私は良いのですが」
と言った。
「匂いがするので飲むのを断ったら、私の代わりに飲んだ侍女がこうして…」
「この盃は今運ばれてきたのですか?」
「…ええ」
大公妃とイマヌエルの会話。中にまだ入っているのを見て、イマヌエルは
「ーしばらくお借りします」
とそれを薬事庫へ持っていった。
侍女は既に事切れてしまい、手当しようがなかった。とにかく原因を解明しようと水を試験管に入れ薬液を注ぐと、しばらくして、水は青く変わった。
「アコイチンですな」
侍医は言った。ーだが、フェルディナンドもイマヌエルもその名はこれまで聞いたことがなかった。
「初めて聞いたが、それは…?」
イマヌエルが尋ねると、侍医はこう答えた。
「お2人には馴染みもないと存じますが、これらを研究なさっている方がいらっしゃるので、ご本人にご説明頂こうかと」
「…今日はいないということですか?」
フェルディナンドの問いに侍医がうなずく。
「喪中だと伺っております」
ー兄貴が研究しているってことか?ーそれを考えただけで彼は気分は悪くなったが、口に出すわけにいかなかった。イマヌエルはただ静かに水の色を眺めている。
「ー成分は濃いほうか?」
毒がどれだけ混ざっていたのかーそれを彼は聞きたかったのだろう。侍医はそれに対して一言だけ言った。
「中量ですな」
「中量…?ということは」
イマヌエルが考え込んだ。
「ー数㎎でも命に関わりますので、本来はこの成分が単独で混ぜ込まれることはございません。ですが、妃殿下がお飲み物から何か匂いを感じ取られ、そのお飲み物を毒見した侍女があのように倒れましたのを見ますと、
…根に近いあたりからこの毒は採られたものと私は推察いたします」
侍医はそう言うのだが…
「そう簡単に採れるものなのか?」
イマヌエルの問いにはいいえ、と即答した。
「湿気の多い土壌を好むので、この近辺に自生してはいないはずです。条件さえ揃えば繁殖しますが」
「その植物の名は?」
フェルディナンドは尋ねた。すると侍医は、ややあってから静かにこう答えた。
「トリカブトです」
ートリカブトだって!?その言葉を聞いて、2人の貴公子は顔を見合わせた。ー何だってそういう恐ろしいものをこういう場所に持ち込んだんだ。
侍医はさらに言った、
「ご職業柄、…弾薬や銃弾の嫡出を見込んでご研究なさっているのであろうと私は考えておりますが、いずれにしましても常人の手が触れてはならぬ毒物と思って頂きたい」
トリカブト。花弁から根に至るまで全草に毒を持つ猛毒植物で、その蜜にさえ毒を含むと言われている。鑑賞にも堪えるほど美しい花を咲かせるが、土に近い部分ほど含む毒は多いい。たった2㎎吸収すると死んでしまうというアコイチンがそれには含まれていた。
「…殿下にご報告を」
フェルディナンドは言った、ただ、それについてイマヌエルは一言彼に注意した。
「何が検出されたかは妃殿下へ伝わらないようにしてください」
と。ーフェルディナンドはそれを聞き入れた上で、ユーゼフに報告しに行った。
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ーフェルディナンドの耳打ちでユーゼフも顔を強張らせた。
「トリカブトの毒が母の飲み物に…?」
「はい。ー侍医が検査した結果それが取り出されました」
「トリカブト…トリカブトか…。この国ではあそこにしかない」
ユーゼフは呟く。ーこういう時期にいないということは、無関係と見ていいんだろうか。
彼がイマヌエルに尋ねると、
「喪中という話でしたから疑うこともないとは思いますがー念のためどう過ごしていたか、お聞きになってはどうかと」
「そうか…」
親友を疑う形になってユーゼフも残念がっている。
「殿下、ー1つ伺っても?」
フェルディナンドは思い切ってユーゼフに尋ねた。何か?とユーゼフが言うので、彼は許可を求めることにした。
「薬事庫の薬品使用記録を見せて頂いてもいいでしょうか。ー署名を見比べたいので」
「使用記録の署名を…?」
ユーゼフは聞き返した。
「兄の実際使用した回数と食い違うということでしたら、その署名を真似た人物がいるのではと私は感じました」
フェルディナンドは言った。ユーゼフはその説明を聞いても回答に迷っている。
「それもあるとは思うが…出入りする人間は他にもいるからね」
「殿下ご自身も中に含まれますか?」
あえてお尋ねしますが。ーフェルディナンドがそう突っ込むとユーゼフもイマヌエルも笑い出した。
「僕は記録を確認するだけだよ。自分では出入りしていない」
ーユーゼフが言うので、フェルディナンドも
失礼しましたと言いながら次の質問をした。
「ーすると、他に出入りしているのは…?」
「あと誰がいたかな…」
言いながらユーゼフは記憶を辿っていった。指を折って1人2人名前を思い浮かべ、彼が辿り着いた答えは、
「…フリードリヒか」
「フリードリヒですか?」
イマヌエルがその答えに目を見開いた。
「でも他に思い浮かばない」
ユーゼフは彼にそう告げた。
「なぜ彼だとお考えに?」
「彼とも兄弟だったはずなんだが…兄と同じ職に就きたいと言ってね」
フリードリヒも植物学を研究しているんだ。ーそうユーゼフは言った。
「ーそれで彼も薬事庫に出入りしている。そういうことなのですね」
「そう。ー解ってもらえたかな?」
「承知いたしました」
フェルディナンドは答えた。
ユーゼフは柔らかな表情になったが、隣でイマヌエルが腕組みしている。
「何か気になるのですか?」
フェルディナンドは聞いてみた。
「何回か参照させて頂きましたが…どこにもフリードリヒの名はありません」
それを聞くと、ユーゼフもそうか、と言ってうなずいた。
「それは管理者に聞くしかないな」
「管理者ーつまり侯爵ご本人ですね」
イマヌエルは確かめた。ユーゼフは
「そう、シュスティンガー侯爵。喪明けに彼が戻ってから聞くしかない」
僕も彼には聞きたいことがあるので、一緒に聞いてみようと思う。ーユーゼフが言った。
「殿下お直々なら…」
言いながらもイマヌエルは考え込んでいる。
「侯爵の服喪はいつまででしょうか」
「もう2、3日で明けるはずだが…正確には出仕記録を見ないと解らない」
ユーゼフはそう答えた。ー今呼ぼうか?そう主君に聞かれて、イマヌエルは、
「執事に話してみます」
と一言。
(喪中なのにそうすぐ来られない)
事情を察したフェルディナンドは含み笑いをイマヌエルに送った、するとイマヌエルも、
(そういうこと)
彼に笑顔を返した。
執事を通じ本人に問い合わせると、公女に相談したいこともあるので服喪を切り上げて登城するとのこと。これでほぼ未確認要素はなくなるかといえばそうではなく、かえってここで疑問が出てしまった。執事に送られてきたゴットフリートからの回答。なぜ公女が彼の話に出てきたのか。ー妹が危険なことに手を付けていそうで、不安を感じるユーゼフだった。
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…本文を再編中です。
まとまるまで少々かかりますが、
どうかご了承くださいませ




