錯綜する思惑
スタンハウゼン公国の中央部にあるスティンベルグ城ールドヴィカたちのいる場所からは1000マイル以上離れている。大公の宮殿に隠れるように建てられた灰色の城だ。ーこの城は、4つある塔を階段、壁、廊下の3つでつないでいるが、どこにも平らな道はなく、行き来に昇り降りしなくてはならない。また使用人たちは毎日門を通って朝晩出入りしている。誰がこの城を設計したのか。ーそれが最近になって出てきた一番の不満だった。
城の主は公子ユーゼフー彼の称号は正確に言うと大公子になるのだがー、大公の唯一の嫡出子で跡継ぎだ。そのユーゼフが結婚するというので、下にいる者は皆静まり返った。感動で言葉が出ないというのではなくて。
「⋯公子様がご結婚ですって?」
「よそからお迎えになるって⋯でもどなたがいらっしゃるの?」
「悪い冗談でなければいいんだけどねえ」
皆が皆、ユーゼフの後ろ姿を見て話し合っていた。
「ーだって、一番近くと言ったら、ランブロジア家しかないじゃないの。でもあちらのお姫様はもうお嫁入りが決まってらっしゃるそうよ」
「それなら余計心配になるわね!」
侍女たちの表情は暗かった。
皆から自分が注視されていることにユーゼフも気づいていたのだが、その内訳が皆と変わらないので、自分では抱えている不安を口にはしなかった。堪えてもいるつもりだった。ーそう、少なくとも彼自身は。だがその不安は表に出ていたようで、その日も部屋を出ようとしたところを部下に呼び止められたのだった。
「殿下」
若い男の声がした。やや張りのある滑らかな高音ーテノールだ。
「どうなさったのですか?先程から歩き回っておられますが」
ー声の主は左目に眼帯を着けている。書類を片手にページをめくりながら、その人物はカップを口へ運んだ。
「別に何でもない」
ユーゼフはそっけなく言ったが、彼は逃げ出したい一心で少しずつ扉の前に進んでいた。
「もしお言葉どおりなのでしたら、先方からご返事が届くのを落ち着いてお待ちになったらよろしいかと」
またテノールの声がした。ーご様子を拝見しておりますと、お言葉の通りに受け止めるわけに参りません。そうも彼は言うのだった。
「⋯ならどうしたらいいんだ」
「落ち着いて、皇女の返事をお待ちください。殿下」
眼帯をした青年はそう言った。そして彼は書類に視線を戻した。
部屋にはユーゼフとこの青年の他にいなかった、執務室なのか、窓も壁もほとんど飾り付けられていない。ただところどころに写真や姿絵が掛かっている。
「落ち着けって、⋯僕のどこが落ち着いていないというんだ」
「ーそのご反応からすると、やはりお気づきではなかったのですね」
眼帯の青年は苦笑した。
「部屋を出たり入ったりというのを繰り返しておいでだったので、よほど大きな不安を抱えていらっしゃったのだと⋯私に感じ取れるのはそういったご様子なのです」
「それは不安にもなるさ。ー自分の婚約者から返事が来ないのだから」
「婚約者ではなく婚約者候補ーではございませんでしたか?」
まだ先方は諮問中のはずですー眼帯をした青年が言うと。
「申し込んで七日は経ったのだからそろそろ決まってくれていいはず」
ユーゼフは呟くように言った。それを聞いて眼帯の青年はまた言ったー
「⋯あまりにお気が早すぎます」
先方の都までこちらから何日で着くとお考えなのですか?
「14日だろう?」
自信満々のユーゼフにため息混じりの声が返ってきた。
「早馬でも6日は要りますし列車を使うのでしたら一月です」
それにこちらが申し込んでそう簡単に承認がもらえるとは限りませんーそうテノールの声は言った。
「イマヌエル⋯」
ユーゼフは言った、
「頼むから、そうやって僕の不安を大きくしないでくれよ」
「ーあくまで事実を事実として私は申し上げておりますが、何か不足でもありますでしょうか?」
これはイマヌエルの言葉。
「最低限、所要日数だけはこちらとしても見込んでおかないと、後々から連絡の行き違いなど起こりかねませんので、それだけは」
ご理解お願いいたします。ー彼はそうユーゼフに言った。
イマヌエル。ーこの人を呼びつけにできる者はそう多くない。それは彼の生まれが有数の名家だからで、公国の中でも外でも家の名は知られていた。
フォン・プレグマイヤー家。建国者の末裔で、西や南の外交官たちと対等に渡り合える敏腕の政治家だった。彼は声だけならず顔立ちも眼帯がなければ
相当な美男子で、一度その笑顔を見た女性は舞い上がってしまうと言われたほどだ。家名が家名だけに、彼の妻になれる女性もそういないがー。
「ユーゼフ様」
ーイマヌエルは言った、
「...少しばかり席を外しますので、私の離席中にご用がございましたら、従者に仰せ付けください」
そして彼は門に通じる階段へと降りて行った。何段か降りたところで、彼は誰かと挨拶を交わした。
「おはよう」
「ああ、…おはよう」
イマヌエルに返ってきたのは彼より少し低いバリトンの声。だがその声は暗めだった。イマヌエルの話しかけた相手は、自分より頭1つほど背の高い男ーその身長は6フィート半ほどだった(1フィートで約30㎝)。
「その様子だとうまくいっていそうだな」
イマヌエルは男に言った、
「...そうだな。今のところは」
男もイマヌエルにそう告げた
「ー『今のところは』?」
「ああ」
二人は階段で立ち話をしている。だが話題は政務と関係がないらしい。
「そういえば、姫との話はあれからどうなった?皇帝から許可はもらえたのか?」
イマヌエルは尋ねた、すると
「後もう少しだ」
とバリトンの声が答えた。
「3日後には摂政大公と面会、その4日後はヴェストーザ公やアステンブリヤ公と面会だ。...自分まで先方の重臣会議に参加するような気分だよ」
それを聞いてイマヌエルも思わず笑い出した。
「いいじゃないか。ーそういう名のある人に混じれるのなら。姫だって、自分の結婚相手が父親に重視されたら悪い気分にはならないだろう」
俺が代わりたいくらいだ。冗談を言うイマヌエルにバリトンの声の男がこう言った、
「ー摂政大公や公爵も、俺と皇女が結婚するのを喜んでくれている。ただ気になるのは皇帝の反応なんだ」
明るい顔つきのイマヌエルに対し男の表情は冴えなかった。
「最後はやはり皇帝か...」
「何と言っても父親だからな...」
そこで二人は少し黙り込んだが、少し経ってイマヌエルは言った。
「あれだけの女性に会ったら、もう他に目が行かなくなりそうだな」
他の女性に目がいきづらくなるーそう彼は言ったのだった。立ち話の相手もそれには同感だったらしく、
「断られたら、結婚はしばらくの間考えないことにする」
と呟くように言った。
「ーそうか」
「...ああ」
初めての恋人が皇女だったからって、誰が自慢したくて恋愛をするものか。
ーバリトンの声が言った。
「そうだよな。それは間違いない」
イマヌエルも力なく言った。
「何とか認めてもらえればいいが...後は運だけか...」
「ー心配するな。お前なら皇帝にも認めてもらえるさ」
「そうか...?」
「もちろん」
ありがとう、ー男は言った、そして
「お前のお墨付きをもらえただけで俺はうれしいよ。後は、まあ...静かに返事を待つとするか」
「...俺は皇帝ではないがな」
「それはそうだ」
そこまで話すと、男二人は互いに顔を見合わせて笑い出した。これだけ突っ込んだ会話ができるのは、二人の間に揺るがない信頼関係がある証だ。もしそうでなければ、当たり障りない話で済ませたに違いない。
「...それはそうと、殿下の方は無事進みそうか?」
バリトンの声の主はそう尋ねた。
「ああ、殿下かー」
イマヌエルは呟くように言った。
「返事を待ちかねておいでらしい。朝からずっと、部屋を出たり入ったりなさっている」
「ー出たり入ったり?」
男は眉を潜めた、
「殿下のお相手といってもその名が1つしか思い付かないがーご婚約まで行き着くほどご交際は進んでいたか?あまり話が急すぎないか?」
「ー問題はそれなんだよな」
イマヌエルも腕組みをしている。
「マルゲリータ皇女なら、お妃にはもちろん申し分ない。しかし殿下とはあまり親密になっていないようだ」
ー男に耳打ちするようにイマヌエルは言った。
「それでも、殿下ご自身は皇女とのご結婚をお望みなのか」
「そういうことだ」
イマヌエルの言葉に男も唸った。
「ー俺が先に申し込んでいるから、殿下のご婚約に皇帝から承認が降りるとは考えにくい」
「そうだろう?」
「まして、...マルゲリータ皇女とはそこまでご交際が進んでいないのに、本当に一緒になりたいと殿下は考えておられるのだろうか...」
「難しい話だよな」
「全くだ」
マルゲリータ皇女ーマルゲリータ・マリアが本当の名前で、ロッセラーナの第一皇女だ。兄の皇太子が既に亡くなっているため、彼女の夫か、双子の妹の夫ーそのどちらかが皇位継承者とみなされる。皇帝夫妻の間には彼らを除き子がいないので、姉妹両方を嫁にくれと言っても皇帝が同意しないのは誰の目にも明らかだった。
その他には禁忌もあった。一度手をとった女の手を解かないこと。同じ家同士で複数の婚姻を結ばないこと。1つでも破った場合は死を以て償わせるという(この掟は女子にも適用された)。ーこの禁忌は皇女二人の先祖、それも皇太子と隣国辺境伯との花嫁争奪劇がもとになり生まれたもので、〈血の掟〉と呼ばれている。ただ何世紀もの間、死を見た者はこれまでいなかった。
「ひょっとしたら、俺は殿下から婚約破棄を命じられるかもしれない」
「なぜそう思うんだ?」
「完全に同じ家同士ではなくても、同じ家の姉妹を二人とも連れて...いやもしかしたら、殿下のほしいのは俺の選んだ人なんじゃないか」
「殿下が?⋯そんなばかなことあるものか」
「舞踏会へお供した後から、殿下のご様子がまるでおかしかったんだ」
「悪い、...お前が何を言いたいのかまるでつかめなかった」
イマヌエルが笑い出したので、男はかいつまんで説明した。普段は雑談で済まそうとする人が、舞踏会で自分が女性と踊っていた様子に珍しく興味を示したこと。相手の女性との関係や、付き合いの長さについて聞こうとして来たこと。声をかけにいくと、なぜか書いていた手紙を自分の目から隠したこと。大公家の嫡子相手ならどの家も喜んで娘を差し出すのに、ユーゼフはなぜか妃選びに消極的だった。文通の相手となったマルゲリータにさえ彼はなかなか時間を割こうとしない。その彼が、自分と婚約者が踊る様子を見て物欲しげな様子を見せたー。
「お前の気にしすぎじゃないのかーいくらなんでも、殿下がそこまで手を出してくるものか」
「気にしすぎならいいんだが...俺が紹介しようといったら、殿下は当日で構わないと」
「当日だって?...お前が式を挙げるその日に紹介してくれろと?」
これにはイマヌエルも目を見開いた。
友達の幸せは互いに祝福できるのではなかったのかー。それが彼には理解できなかった。
「俺なら、知り合いが婚約したら早く紹介してほしいがな」
ーイマヌエルは言い、
「自分の親友が婚約したのを殿下は喜べないのか...」
と眉を少し吊り上げた。
「俺の代わりに怒ってくれたのか」
「それは違う」
男二人はそこで話を終え、それぞれの役目に戻るため互いに敬礼して別れて行った。
スタンハウゼン公国の公子ユーゼフー彼の正確な名はヨーゼフだろうかーの、国内での人物評。〔お顔立ちは確かに天使だが、中身は完全な子供だ。〕ー彼はそう酷評されていた。なぜなら彼は自分の求めているものを解っていないからで、回りが楽しそうにしているのをみると彼はすぐ目移りするのだった。
ルドヴィカの双子の姉マルゲリータは彼と交際していた。ーだが、自分の恋人があちらこちらの美女に目移りしていることに気づき、早いうち彼との交際を終わらせる準備を始めた。返事を書く頻度を減らしたり逢引をわざと直前でとりやめたり、そうして相手の方から手を引いてくれるよう彼女はあれこれ策を練った。かと言って、自分と別れた後にユーゼフが妹に手を出すとは、マルゲリータにも考えつかなかったに違いない。
ー結婚に備え、伯父の城から両親の宮殿に戻ってきていたルドヴィカは、自分のすぐ目の前で手紙を割いていく双子の片割れに驚いてこう言った。
「⋯マルガ、その書面いったいどうするの?」
マルゲリータは笑ってこう答えた、
「これはねー処分するのよ」
「処分するって!⋯でも、あなたの手にあるそれは⋯」
マルゲリータも双子の妹が何を言おうとしているか解った。だが彼女はもう考えを決めていた。
「私ね⋯あの殿下とのお付き合いはもう終わらせようと思っているの」
「⋯どうして?」
「会うたび会うたび他の女性の話をしてくださるのだもの。毎回あれではとてもたまらないわ!」
同じ恋愛でも付き合う相手でここまで違うのか。ー双子の姉に話を聞いて、ルドヴィカは目を丸くした。
マルゲリータとは対照的に、ルドヴィカはもう婚約を決めてしまっていた。だが周囲を見る婚約者の視線が、剣呑になりかけているのが彼女には心配だった。
「最近は考え事が多いのね⋯前ほどお話しできなくなったわ」
ルドヴィカが言うと、
「ああ⋯申し訳ありません。ずっと気になることがあって」
婚約者はそう答えた。自分以上に彼を惹きつける女性が現れたのだろうかー。そういう思いもよぎったが、さすがに彼女もそれは口にしなかった。
「ー気になること?」
ルドヴィカは彼にそっと尋ねたーすると彼は重い口調で言った。
「誰かがあなたのことを見ている」
その視線はルドヴィカに向けるそれとだいぶ質の違うものだった。
ルドヴィカの婚約者は従兄の友人で隣国の貴族だった。年はルドヴィカの二つ上。隣国と言っても国交がないため婚約者の国がどの位置にあるか、ルドヴィカには判別できない。彼女に解っているのは、自国より北にあるということだけだった。従兄とは名前で呼び合っていたが、ルドヴィカ自身は紹介されるまで名前すら知らなかったので、彼女は婚約直前まで相手を彼の称号で呼んでいた。シュスティンガー侯爵ともハプルシコーフェン伯爵とも言うがールドヴィカは彼を侯爵としか呼んでいなかった。
ー実は、誰が婚約者を見ているか、侯爵には既に解っていた。それがごく近くにいる人物なので口にしなかっただけだ。ールドヴィカは婚約してから言語や経営理論の習得に努めている。それがある意味では幸運だった。暇を持て余さずに済むということで。
「ルイーザ⋯一つお願いしても?」
ある日侯爵は言った、
「言ってみてくださる?」
「はい」
ルドヴィカが言うので、侯爵は軽く息を呑みこんでから彼女にこう持ちかけた。
「私があなたに会いに行くので、それ以外はお父上のもとにいて頂きたいのです」
「えっ⋯」
これにはルドヴィカも驚いた、それで彼女はしばらく黙り込んだ。
「どうやら、ー私の大切な人に目をつけた人がいたようで」
侯爵は言ったーだがルドヴィカも彼の話をすぐには飲み込めなかった。
「何とか、手を触れさせないようにしておきたいのです」
「〈手を触れさせない〉⋯?それはどういう意味なのかしら」
婚約者の言い方に不穏なものを感じ、ルドヴィカはそう言った。
「私に目隠ししておいて、他の方に乗り換えようと言うのではないでしょょうね」
彼女は少しくぐもった声で言ったが、侯爵はそれを否定した。
「...私が?誓ってそれはありません」
一方、舞踏会の終わった後からユーゼフは気がそぞろになっていた、親友と踊っていた美女、彼女がどこの令嬢かユーゼフはそれを知りたくてならなかったのだ。だが、二人が既に婚約を交わした仲とはユーゼフにも知る由がなかった。
「あの晩君と踊っていたのはどこの令嬢か教えてもらえないか。僕も一度彼女と話してみたい」
親友にユーゼフは言った、
「ー先日の舞踏会で私が一緒に踊った相手のことですか?あの方はランブロジア家の皇女です」
侯爵は彼にそう答えた。すると、
「...ランブロジア家の?あの大国の姫と君は知り合いだったのか!」
ユーゼフは一気に目を回したーそれもそのはず、彼はこれまでその家名しか聞くことがなかったのだから。どの国でも所在の知れない人物には、自国の皇族や王族を配偶者として渡すことはしない。作法が備わっていれば、身分に差はあっても姉妹や従姉妹を紹介してもらう機会は十分あったのだが、ユーゼフがその機会に恵まれなかったのは、彼の風評が本人が思うほど良くなかったためだろう。
皆が天使の化身と呼んだほど、彼の風貌は無邪気そのものだった。それもあってか、彼の妃になりたいと憧れる女子は数多かった。だが、その反面、悪い評判も少なからずあった。それは
「殿下はずいぶんお気が早いー」
「〈お手が早い〉の間違いではなくて?」
と宮廷で囁かれるほどだった。つまり男女の仲になった後で捨てられた者が何人もいたのだ。だが、彼に抱かれた女が実際に何人いたのかは、宮廷でも知る者がいなかった。
「あれで女癖がなければ...」
そうやって嘆く者も多かったが、その声が本人に届いていたかどうかはまた別の話だ。
さて、そうしているうちに、侯爵とルドヴィカとの結婚が近づいてきた。皇女をつれてきてほしいとユーゼフが話すと、侯爵は彼に言った。
「あの皇女は私の婚約者で、誰より大切な方なので...彼女のことはそっとしておいてください」
ユーゼフはその答えに少し腹を立てて、彼にこう告げた。
「すると話をするのでも君に許可を得ないとならないのか」
侯爵は彼に
「違います」
と言い、その次にこう話した。
「当日、私からご紹介しようと申し上げたではありませんか。殿下はあの晩『挙式する当日でいい』と答えてはおられませんでしたか?」
ー紹介しようと言うのを断られたので会わせなかった、今からでは会わせるわけにいかないというのだった。
「これまでも私の交際相手に殿下はご興味をお示しでしたが...、ご自身のお相手をお望みならそのように最初にお話しください」
ごく当然な感覚だったが、付き合っている相手をつまみ食いのようにとっていくのはやめろということだ。
「君には少し荷が重いだろうと僕は思ったんだが、...どうだろう」
侯爵は何か不快に感じたが、それは表に出さなかった。そしてユーゼフにこう答えた。
「そう思ったら交際すら申し込んでいません」
「ーずいぶん自信があるんだね」
ユーゼフは意外そうだった。
ユーゼフはどうしてもルドヴィカを手入れたかったので、何度も侯爵に交渉に行った。だが、さすがに侯爵も婚約者を譲る気になれなかった。だが切り札があったのでユーゼフはそれを使うことにした。父である大公からは無闇に使うなと言われていたのだが、ユーゼフはその他に手段がないことを悟ってしまっていた。それが最後は皆の運命を狂わせるもとになった。
ルドヴィカの婚約者には称号が2つあった。1つは上位貴族の2番目で、シュスティンガー侯爵。もう1つは、下位貴族に属するもので、男爵の位になっていた。ハルシュバウアー男爵。これを弟の成人まで彼が預かることになっていたらしい。彼は1つを自分で管理し他を妹と共同経営していた。
ユーゼフは公爵なので、彼より広い領地を預かっていた。だが、親友とは言え父親の不明な人物が複数の領地を預かっていることもユーゼフにとって不満の種だった。面積は広くないが、加算すると結構な収穫になる。それが目障りだったのだ。
「軍人だから相当の給料はもらっているのだろう?少しは領地を削っても問題ないはずだ」
ーユーゼフは言った、
「領地を取るか婚約者を取るか⋯。見物だねえ」
自分に婚約者を譲ってくれたらそれで十分だと彼は言うが、親友が承知するはずのないことは彼にも解っていた。だから、
「婚約者の代わりに領地をもらう」
ーと。ユーゼフはその気でいた。
「…なぜそこまでご執心に?」
他人の恋人がどうして気になるのかと侍従は尋ねたのだが、ユーゼフはただこう言った。
「解らない。ただ欲しくなっただけだ」
その答えに侍従たちはまたこれか、とため息をついた。ーこのお方は欲しくなったら人の恋人にも手を出すのか!
「ご自身がこのご様子ではさすがにお妃も決まるまい」
「閣下のただお一人のお子がこうとあっては…」
またすぐに放り出す気だろうと彼らは想像がついてしまった。
「侯爵のご婚約者…あの方は殿下のご親友ではありませんか」
「解っているさ。ーとにかく彼には譲ってもらう」
ユーゼフはそう言い切った。親友とはいえ、侯爵から来る小言や注意の回数が多いことにユーゼフは耐えきれなかった。ユーゼフからすれば迷惑料とでもいうようなものか。
侯爵は根っからの軍人だったから、世辞や社交辞令よりも規律や調和を重視していた。兵営でも訓練はあるから、理由もなく式典に遅れることは君主でも許されない。そのためユーゼフは何かあるたび侯爵に注意されていた。
「それは当然のご判断です」
侯爵に非はないという侍従たち。だがユーゼフは彼を追い落とすか、彼から宝物を奪い取るかしなかったら自分の気が済まないというのだ。
侯爵とは何度も話したが取り合おうとしない、それでユーゼフもいい案がないかずっと考えていた。考え抜いてやっと浮かんだのが政略結婚をだしに婚約者か領地を彼からとりあげる策。それも国益を損なうという名目でだ。ーユーゼフがその話をすると、その場にいた者が皆震え上がった。
「あの侯爵にまでそれを…」
〈あの〉侯爵ーそう呼ばれていることから、この人物へ寄せられた人望がどれだけ厚いか解る。
「次は誰にお向けになるやら…」
一回限りで使うのだったが、それからは皆がユーゼフを遠巻きにし始めた。
自分が疎まれ始めているのも侯爵は知っていた。だが、なぜ自分の婚約者に親友が目をつけたのか彼には解らなかった。ーあの方が大国の皇女だからか?それはそうに違いないが…。考えれば考えるほど、侯爵の心は重くなった。ー俺から取り上げてどうしようというんだ。いっそ平民にでもなろうかー家は妹に継いでもらえばいい。彼はそう考えるように
なっていたが父親に反対された。
「まあ、やっとその気になったの?ずいぶん長くかかったこと」
「これで我々も安心して暮らせる」
息子が妃候補を決めたと聞き、喜ぶ大公夫妻。
「政略結婚ではあるが…あの国なら信義を破ることもあるまい」
ー大公は言ったが、ランブロジア家に皇女が二人しかいない上、息子が下の皇女に決めたと聞き目を見張った。
「あの姫には婚約者がおる」
まさか奪う気ではあるまい?ー父親の懸念を振り切るようにユーゼフは濃い答えた。
「大丈夫、必ず来てもらえます」
間違いなく妃にしてみせると彼は言い切るのだった。その強気なのが、逆に大公を不安にさせた。ー婚約者のいる姫を息子はどう振り向かせようというのであろう。
ユーゼフには秘策があった。本人に直接頼んで無理なら父親を揺さぶればいい。父親を脅して婚約者を差し出すよう息子に言わせるのだ。彼の養父がどれだけ爵位にしがみついているか、自分はよく知っている。ーそして彼はその通り実行した。
老侯爵ー位は継がせても実権は手に持ったままなのでこう書く。隠居した白髪頭の男性だが、この人は家族より何より由緒を大事にしていて、貴族に属しているということが彼にとっての一番の誇りだった。それをユーゼフは利用した。
大公の名で送られてきた書簡、その文面には皇女の名がはっきり書かれている。この人を息子の妃にしたいから婚約を破棄せよーもちろん大公自身の命令ではない。大公の名前になってはいるが、命令書を送りつけてきたのは大公の息子、つまりユーゼフだ。だが老侯爵はその命令書に書かれた文面を見て顔色を失った。
「そなた…そなたは、閣下のお子と恋敵になっておったのか」
老侯爵は息子に詰め寄った、だが
「もともと私が先に紹介してもらったので、殿下とご面識はありません」
「文面には妃となる皇女を差し出せと書かれておる」
「殿下と会われた時には皇女も私と婚約していましたから。ご心配なく」
ー親子の会話は平行線をたどり、何日も膠着状態が続いた。そうするうちに、返書を提出する日がやって来た。
婚礼まで一月を切ったので、公子に断りの返事を書いていると。
「その文面は何なのだ」
父親が見つけて問い質した。
「皇帝から承認を頂けたので、婚約の破棄はお断りしたいと」
あの皇女は約束通り私の妻にお迎えします。ー侯爵はそう父親に言った。
「入れ違いで婚約破棄などしたら、どういうことになるか」
「…結婚しようというのか。殿下のお見初めになった方と」
それはならぬ。ー息子を止めようと老侯爵は必死になっていた。
「そのために、我が家は家も領地も取り上げられるのだ。勘弁してくれ」
「…閣下も思慮深いお方ですから、そういう無碍なことはなさいません」
侯爵は言うのだった。
「頼むから、家を潰すようなことはしないでくれ。息子よ」
黙って殿下に差し出してくれ。ーだがそれを聞いて、家は妹に継がせて自分は出奔させてほしいと侯爵は訴えた。
「爵位は功績次第で取り戻せますし入り用になったら呼び戻されるはず」
「とにかく結婚はやめてくれ。他にまだ縁談は来るだろうに」
「…君主と縁続きになるのを蹴って彼らより格下の家から選べと?⋯不貞を働かれたならそうしますが」
始めから選り好みでは、どの家柄にも失礼でしょう。ー侯爵は言った。
老侯爵には、家を継いでもらうのが一番の望みだった。彼は大公の子を預かり、彼らの分と自分への報酬とを合わせてもらっていたのだから、本妻の息子が何と言おうと下賜は取り消されないことは彼にも解っているはずだった。だが命令書や辞令を受け取ると彼は冷静でいられなかった。
「ゴットフリート…、」
ー老侯爵は息子の名を呼んだ。
「どうして貴族からでなく、君主の娘を妻にするのだ。そなたに釣り合う令嬢はたくさんいよう」
そう訴えたのだが、ゴットフリートは聞こうとしなかった。
「私はあの方がいいのです」
「それはいったいなぜだ」
老侯爵は問い詰めた。すると、
「おそばにいるととても心が安らぐのです。他の女性方は皆殿下のもとへ奔ってしまったし」
ゴットフリートは答えた。
「それに、あの方だけは、何があっても私と
いてくださるという確信があります」
それを聞いて老侯爵は肩を落とした。
「お前はそれだけで嫁を選ぶのか」
「それだけではありませんが、そういう要素も私はほしかったのです」
「嵐が来るぞ」
ー老公爵は言った、
「嵐だ。今まで見たことのない、巨大なものが」
「大丈夫でしょう」
ゴットフリートは父親をなだめた。
「軽い気持ちで君主の娘を婚約者にしたわけではありません。結婚前から不安をあおらないでください」
だが老侯爵にはまだ息子の結婚を祝福できずにいた。
ゴットフリートが出立の準備をしているのを老侯爵は見咎めた。
「今からどこに行くのだ」
「皇帝府です」
父親に聞かれ彼はそう答えた。
「結婚の承認を頂いたので、皇帝にご挨拶に」
「だめだ。ー殿下に返事を申し上げ婚約は辞退しろ」
「挙式まで一月を切ったので今から辞退できません」
「皇女は殿下に差し上げよと申したのがそなたにはまだ解らんのか。妻はわしが決めてやるから、殿下に承諾の返事を書け。…皇帝府には辞退を書き送れば済むではないか」
父親がそう話すのを聞いて、ああ、とゴットフリートは呟いた。ー俺には自分の結婚相手を選ぶ権利もなかったのか。やっと皇帝の承認がもらえたと思ったのに。ー机を見ると、途中まで書けていた手紙はその上になかった。
「…どうしても皇女と結婚するのはお認め頂けないのですね」
「これが国のためなのだ」
「もともと殿下のご交際相手ではなくても父上はそうおっしゃるのですか?」
「殿下が心変わりなどなさるはずがないではないか」
ゴットフリートはため息をついた。
ここまで結婚に反対されるとは、彼も考えていなかった。何より大公の一人息子を彼の養父はよく知らないのだ。ーこれで本当に嵐が来る。彼にはもう自分の運命が見えてしまっていた。
「⋯そこまでおっしゃるからには、私や妹の身に何があっても父上は引き受けてくださるのでしょうね」
ゴットフリートは言った。
「むろんだ。わしはそなたたち二人の親なのだから」
老侯爵が請け合った。ゴットフリートもそう言われて仕方なく別れの手紙を書いた。その気がないのに別れさせられ、彼はもう結婚は諦め領地に専念しようと考え始めた。
「ヴェストーザへ行ってきます」
ーそう言って、ゴットフリートは出かける支度を始めた。ルドヴィカのいとこに当たる公爵が取りまとめている土地だ。事情を話し皇帝に取り次いでもらわないといけない。
「ー皇女の従兄に話をしないと」
ー婚約者を紹介してくれた人でもあるから、彼と会うのも余計に気が重かった。それでもなんとか自分に言い聞かせゴットフリートは出て行った。
和平交渉と縁談はもともと別の枠で勧められていて、縁談の方はあくまで当事者同士が乗り気ならという前提があった。だが、和平交渉とは逆に、縁談は5年6年経っても話が進まず、ここへきてやっと公子が相手を決めたという。後から娘をくれと頼み込んで他の人が良かったと言ったら?ー簡単に心変わりする相手と気持ちよく付き合おうとする人間はまずいない。ましてや国と国の話し合いでそれが通じるだろうかー。それを考えると、ゴットフリートは暗い気持ちになってしまった。
ルドヴィカを手に入れることだけにユーゼフは集中していたようで、彼は何とか親友に手放させようと彼なりに必死なのだった。それで、老侯爵から息子を説得できましたと報告を聞くとユーゼフは満面の笑みを浮かべた。
「これで僕としても御子息の領地を取り上げずに済む」
「やはり、…お召し上げというのはご本心でございましたか」
ユーゼフの言葉に身震いする老侯爵。
「ーあの姫はとても綺麗だったから、そばに置きたくてね」
天使の化身とさえ言われたその笑顔でユーゼフは続けたのだが、その様子に侍従や衛兵たちが青ざめたことに彼は気づかなかった。
…本文を再編中です。
まとまるまで少々かかりますが、
どうかご了承くださいませ