部屋違い
「皇女が見えられました」
「閣下と両殿下がお待ちです」
女官や侍女が城のあちこちからやって来て指示を請う。衣装係はドレスを見つけ出せず苦心しているが、周りはそれに構う暇もないらしい。
「奥方様、どうかお急ぎください!」
朝の食事に女官長が遅れてはー女官が悲痛な声で訴える。今朝は皇女もご同席ですから、必ず出てほしいと殿下がーそう女官は言う。
「侯爵夫人?ーお出迎えの時間ですが」
どうなさったのですか?ー侍従の声もする。
「女官長。どうかお急ぎを」
「シュスティンガー侯爵夫人」
次々に声が来て女性を急かした。だがいつも迎えに来るはずの息子の声がない。
「解っているわよ」
奥から少し掠れた声。シュスティンガー侯爵夫人ー公子の親友である現侯爵の母親、また大公の住まいであるこの宮殿の女官長だ。
「来ていくはずの衣装がないのよーここへ来て探しておくれ」
そう言われて侍女は中へ入ったのだがー
「まあ。ーお品物が違いますわ」
「どういうこと、それは」
「別の貴婦人のお部屋のような気が」
私の気のせいでしょうか。ーそう侍女は言いもう一度衣装室を改めたのだがー
「ああ、ここではいけませんわ。先日までお召しだったものをご用意いたします」
そう言って修繕室へ急いで取りに行った。
「もう直しは済んだの?」
「済みました」
夫人の言葉に別の侍女がうなずく。そうしてもう一度ドレスを着せ、侯爵夫人も出られる状態になった。
「待たせてしまったわね」
言いながら彼女は侍従に手を預けた。
ーこういう時に限って息子がいないとは。本当になんて言う日だろう!侯爵夫人は一人ため息をついた。ー昨日に限って帰る部屋を間違えた?そうでなければ自分の衣装がないなどと、ばかなことがあるはずがない。私はどうしてしまったのだろう。この体の感覚も何もかもー昨夜私は誰かと寝ていたのかー。
あれこれと思い巡らしながらも侯爵夫人は部屋を出た。すぐそばで明るい声がする。
「皇女殿下が見えたのですって?」
金髪に薄い青の瞳。濃いめの青に銀と鼠色のドレス。
「お義姉様とお呼びしていいかしら」
「ロッテ…」
隣にいる青年は苦笑いした。ーまだ僕たちは結婚していないよ?ー青年はそう答えた。
「半年以内にはご結婚なさるのでしょう?なら、今からそうお呼びしても」
「君はいつも気が早いんだね」
大公の2人の子どもたちが侯爵夫人の前に立っていた。嫡男で一人息子のユーゼフと、彼の腹違いの妹シャルロッテ。
「あら、そこにいらしたの?気づかなくてごめんなさいー考え事してしまっていて」
シャルロッテは言った、だがそれは本心ではないようだった。彼女の瞳が侯爵夫人の心を見透かすように細められている。
「お気になさらないでくださいまし、殿下ーところで私の方を窺っておられるようですけれど、ご不都合でもありましたでしょうか」
夫人は尋ねてみた。すると、シャルロッテは
こう言ったのだ。
「ー母が使っていた部屋なの」
侯爵夫人は胸を突かれた。
「あなたの出てきたお部屋、そのお部屋は母が若い頃に住んでいたお部屋なの。ー
なぜあなたがそこにいたかと思って」
またも侯爵夫人ははっとしたー自分の部屋でないところで寝てしまったとは!私もうかつだった。でもなぜここで寝ていたのだろう。ーそこまで考えて彼女は急に思い当たった。ーあの男、あの男だ。他に考えられない。
侯爵夫人には長年の情夫がいた。だが彼と夫人の間に恋愛関係はないーなのでこの男を愛人と呼ぶ気すら夫人は持っていなかった。
知り合ったのは何年も前だ。夫が会議中で何日も城を空け彼女が留守を守っていると、
不意に若い男が寝室に現れた。
『誰!?』
彼女は声を挙げた。ーだがその男は答える代わりに薄ら笑みを浮かべてこう言った。
『名乗るほどの者ではありません』
そして大胆にも彼は彼女のー主君の妻の隣に座ったのだ。
『ご退屈でしょうから、私がお相手をしてさしあげます』
『言った覚えはないわ』
そう、彼女は反論したのだが。
『…これだけお体がうずいていてもあなたはそうおっしゃるのですか?』
男は彼女の膝を指さし、その上に自分の手を軽く載せた。ー体が反応してしまった。罪の予感に震えながら、彼女は男の手を避ける。すると男は
『私をお嫌いなのですか?』
と恨めしそうに一言言った。
『こういうことをする限りはね』
と答えると、ご主人を気にしていらっしゃるのですね、と男はまた笑った。
『あなたはご主人のことをよくご存じないのです』
そして、
『あの方は私を信頼しているから、会議がどこそこであると私が話すと、黙っていても動いてくださるのです』
と言ったのだ。ここまで聞いて彼女はやっと解った。この男は初めから自分を抱く機会を待っていたのだということに。それも自分の夫を押しのけ、彼の目が届かないようにしておいて忍び込んだのだと。
『あなた…あなたはなんていうことを…』
恐ろしさに彼女は震えだした。ーだが男は
もはや彼女を離そうとせず、力ずくで彼女を自分のものにした。
『これであなたは私のものだ』
そう言って男は彼女の大腿をなぞった、その指の感触に反応してしまう自分が、彼女にはまた恨めしかった。ー自分がいけないのだ。
夫の部下に視線を送るなどして。そう解っていたのだが、並外れた美貌と体型の持ち主であり、夫の片腕というのもあり、彼女はこの男を信用しきっていた。
ーシャルロッテと話しているとユーゼフが止めに入って来た。
「もうその辺で終わりにしなさいロッテーそれは朝から聞いていて気持ちいい話題じゃない」
ユーゼフは言った、だがシャルロッテは
「本当のことお話ししてなぜ悪いの?」
「どうしてもというなら続きは食べた後にしてくれ。皆思い出してしまうだろう」
君の母上のことを。ーそこまで兄から言われさすがにシャルロッテも口を閉ざした。
「解ったわ。ーお兄様がそうおっしゃるのなら」
「ー頼んだよ」
ユーゼフはまだ不安そうだーだが妹が発話を止めたところで彼は侯爵夫人に目を向けた。
「シュスティンガー侯夫人ー」
ユーゼフは言った。
「朝から嫌な思いをさせてすまない。妹は最近感傷気味で」
「まあ!とんでもない。私の方こそ殿下にお気を遣わせてしまい申し訳ございません」
それから侯爵夫人はやっと2人に挨拶した。
「おはようございます、ユーゼフ様そしてシャルロッテ様。本日もご機嫌麗しゅう」
「おはよう」
ユーゼフは普段どおりだったが、彼の妹は
「ご機嫌よう」
と言い、立ち去ってしまった。その行く先にいたのは左目を眼帯で覆った美青年。彼女の婚約者でユーゼフの腹心だった。
「グランシェンツ伯」
侯爵夫人は呼びかけた。
「皇女殿下はいつ頃こちらに?」
「今しがた見えました」
そう言うと、イマヌエルは後ろを見遣った。
薄茶色の髪と青い瞳の青年、黒髪と琥珀色の瞳を持つ女性に彼が付き添っている。
「ご紹介しましょう」
ーイマヌエルは言った。
「昨晩ロッセラーナからこちらにご到着のルドヴィカ・レオノーラ殿下、殿下のお従兄ヴェストーザ公爵ことエンリコ・エマヌエーレ閣下です。お2人が本日一番の上客です」
婚約者の紹介で、未来の義姉のすぐそばへシャルロッテは歩き出した。金髪を縦巻きにし、サファイヤをあしらった耳飾りをつけー
ルドヴィカの手前まで来ると、ルドヴィカもそれに気づき静かに膝をかがめ挨拶した。
「ルドヴィカ・レオノーラですわ。お会いできてとても幸せです。シャルロッテ殿下でいらっしゃいますの?」
それにシャルロッテも笑顔で答えた、
「シャルロッテにございます。お義姉様と呼ばせてくださいませ」
「まあ!光栄でございますわ。私のような者でよろしかったらぜひ」
「ありがとうございます。ーお義姉様」
侯爵夫人は2人の様子をしばらく見ていたが、胸の奥で何やら冷めた感情が湧いてくるのに気づいた。ー私を抜きにしてあのように楽しげに…。彼女たちのほうが身分は上だから満足してよかったはずだが、侯爵夫人にしてみると、これほど面白くないこともそうそうなかった。今までシャルロッテも夫人にまず挨拶していたのだったが、兄が妻を迎えると知ると、シャルロッテは兄の婚約者に関心を移してしまっていた。他の女官にはともかく侯爵夫人には気に障ってならない。
「ー準備が整いました」
給仕長の言葉で皆は食堂へ入った。従兄に付き添われていたルドヴィカも婚約者の手を取り彼と順番を待っていた。侯爵夫人の耳に2人の会話が入ってきた。
「妹を気に入ってくれたみたいだね」
「ええ、仲良くなれそうですわ」
和やかでとても良い光景なのだが侯爵夫人はそれを見て穏やかでいられなかった。ー私の息子を捨てて公子と結婚するとは!格下だと思って乗り換えたのか!ーふと見てみると、ユーゼフは彼女に口づけしている。婚約者にしているのだから礼儀上も問題はない。だがこの光景は侯爵夫人の心を逆撫でした。目をそらしながら彼女は考えた。ーまだいいわ。だがそのうち一矢報いてやろう。そうやって侯爵夫人は食事会を乗り切った。




