9 それを私に譲ってくれないか
特別クラスの授業は全てが選択制であり、その課程は領地経営関連から政治経済、ダンスにテーブルマナーと実に幅広い。
「そのハンカチを譲ってくれないか?」
実は不器用で刺繍が苦手なクラレットに付き添い、キャナリィが刺繍の授業に臨んだ後、その作品を見たロベリーがそう言った。
ロベリーが留学してきてから何度目かの問題発言にようやく慣れたのか、今日は動きを止める者も、物を取り落とす者もいなかった。
この頃になると、語学の苦手な令嬢やロベリーの様子を見てこの国で婚約者を探す気はないのであろうと察した令嬢は、共にお茶を楽しむことはあっても以前のようにキャナリィを敵視することもなくなっていた。
やっと血統の良い自分こそがロベリーに相応しいと皆が認めたのだと思い込んでいるローズを除いては。
令嬢が一針一針刺した刺繍を異性に渡すのは家族や婚約者、恋人と言うのが暗黙の了解である。
流石にこんな人目のあるところで・・・ローズはそう思ったが、キャナリィは「どうぞ」と悩みもせずにハンカチを差し出したのだ。
キャナリィにとっては授業の課題で仕上げただけの、なんの思い入れもないハンカチである。傍目から見るとそれは十分に美しい仕上がりでキャナリィの練度の高さが窺われるのだが、キャナリィはこの程度の物をシアンにプレゼントをしたくはないし、持ち帰っても使用人にプレゼントするくらいなのでその行き先がロベリーになることに何の抵抗もなかった。軽い気持ちで渡しただけなのだが──。
ローズは震える手で、同じく授業の課題でロベリーのためだけに刺した刺繍入りのハンカチを握りしめた。
キャナリィのハンカチを笑顔で受けとるロベリーを見たローズは、居たたまれなくなって席を立ちそのまま戻ってはこなかった。
「お祖父様っ!」
オーキッド前公爵は先触れもなく突然やって来た孫娘に、ただ事ではない何かを感じていた。
幼い頃から学ぶことに貪欲で必ず結果を出してきたローズが、望む教育を受ける事が出来るように後押しをし、マナーなど貴族令嬢としての一般教養も優秀な講師に学べるように取り計らいもした。
努力の甲斐があり、ローズは学園では実力で特別クラス入りを果たし、どこに出しても恥ずかしくない令嬢へと成長した──そう、前公爵はこの時まで思っていた。
別邸とはいえ、伯爵令嬢の公爵家への先触れのない訪問。
しかも今の時間は学園で講義を受けている時間帯ではないのか。
前公爵がローズに会うことにしたのは、親族のよしみと何か有事かと思ったからだ。
しかし、らしからぬ剣幕の孫娘を前に前公爵は唖然とした。
ローズはシアンに「一般クラスに噂を流した人物への注意喚起」を頼まれたため、これ以上噂を流すことでキャナリィの非常識な行動を間接的に咎めることが出来ずにいた。
新たな噂が流れると、ローズの力が及ばなかったとシアンに思われてしまうからだ。
だからローズは別の方法で攻めるため、祖父のところにやってきたのだ。
「──と言うわけで、婚約者以外の方とそのようなことを平気で行い、自分に冤罪をかけた平民に適切な処分も出来ないウィスタリア侯爵令嬢は公爵夫人に相応しいとは思えませんの。お祖父様!何とかしてください!!」
何とかとは、他家の縁談に口を出せと言っているのだろうか。
しかもフロスティ公爵家の後継問題は一部の高位貴族の間では有名な話である。
例のパーティーの顛末も。
「ローズは例の祝賀パーティーには出席していたのだろう?」
なのに何故そのようなことが言えるのか。
「私、気分が優れず途中退席致しましたの」
前公爵はそれを聞いてなる程と思った。しかし、新たな疑問が生まれた。
「ローズは他家の令嬢とのお茶会で情報交換などは行わないのか?」
例え目にしていなくとも、お茶会であの日パーティーで何があったのか聞くことが出来ていれば、彼らの貴族らしい企みに振り回されたエボニーと噂を鵜呑みにして就職先を失った下位貴族の子女の末路を知ることが出来たであろう。
「最近のお茶会ではロベリー様と共にテーブルを囲むことが多くて、情報交換というよりロベリー様の留学中のお話を聞くことがほとんどでしたので──」
お祖父様は何を言っているのだろう。そんな話がしたくて来たわけではないのに。
ローズはそう思ったが、オーキッド前公爵の見当違いの質問に答えているうちに、少し冷静になった。
キャナリィは既に不貞ととられてもおかしくない行為を公衆の面前でいくつも重ねている。
ローズはここに愚痴を言いに来たわけではないのだ。
使える力を使い──公爵家の力で侯爵家経由でキャナリィに制裁を加えるためだ。
「そんなことより、お祖父様からウィスタリア侯爵家に抗議をして頂きたいのですわ」