『季節外れの北風』
『季節外れの北風』
東京の春は、いつも以上に騒がしい。新宿の雑踏を抜け、カフェの一角に腰掛けている智子の耳に、スマートフォンの着信音が響いた。
「あら、主人…」
智子は眉根を寄せながら画面を見つめた。いつもなら週に三日だけ嘱託職員として出勤している正雄は、今日が休みのはずだった。友人の香織との久しぶりのランチタイムだった。
「出ないの?」香織が尋ねる。
「ちょっと待って」
スマホを手に取り、通話ボタンをタップする。
「もしもし」
「あー、智子か。今日の夕ご飯、何にするんだ?」夫・正雄の声が耳に飛び込んでくる。
智子は小さく息を吐いた。正雄がJRを退職して嘱託職員になってから、こういった電話が増えた。以前なら仕事の同僚と飲みに行くと言って、夕食の心配などしなかったのに。
「まだ決めてないわ。冷蔵庫に昨日の煮物が残ってるから、それとお刺身でも買って帰るわ」
「ああ、わかった。じゃあな」
電話が切れると、智子はスマホをテーブルに置いた。
「ごめんなさいね」
「いいのよ、うちなんて連絡すらないわよ」香織が笑いながら言う。「正雄さん、最近家にいる時間が長いんでしょ?」
「そうなのよ。定年後、あの北海道旅行から帰ってきてから、嘱託の仕事がない日はずっと家にいるの。たまに友人と麻雀に行くくらいで…」
智子は香織の前に置かれたケーキフォークを見つめながら言った。
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六十三歳になる前川智子の人生は、周囲から見れば平凡そのものだった。二十三歳で結婚し、姑との同居生活を経て、二人の子どもを育て上げた。長男の太郎は今や四十歳、会社員として地方都市で家庭を持ち、三十七歳になる娘の美香も結婚して二人の子どもがいる。
夫の正雄はJRに勤め、定年の六十五歳まで真面目に働き通した。退職金と年金で老後は何不自由なく暮らせる経済状況。それに加えて週三日の嘱託職員の仕事もある。傍から見れば、ごく普通の幸せな人生を送ってきた家庭だった。
智子が手帳を開くと、かつて恋愛時代に書き込んだ丸印を思い出す。デートした日には大きな◎、電話で話した日には〇。あの頃は手帳のスケジュール欄を全て埋めることが生きがいだった。今では正雄が週三日の勤務日にxマークをつけるのを見ている。人生の彩りが、いつの間にか単調な色合いに変わっていた。
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「ただいま」
智子が家に帰ると、正雄はテレビを見ながらソファでくつろいでいた。
「おかえり。お刺身買ってきたのか?」
「ええ、マグロとブリ。あと、サラダ用の野菜も」
智子は買い物袋を持ったまま台所に向かった。四十年以上共に過ごした夫だというのに、最近は何を話せばいいのか分からなくなっていた。
「今日、香織さんと会ったのか?」
「ええ、久しぶりに会ったわ」
エプロンを身につけながら、智子は淡々と答えた。
「何を話してたんだ?」
「別に…普通の話よ。子どものこととか、最近のドラマとか」
智子は冷蔵庫から昨日の煮物を取り出した。きちんと保存された料理を見ると、家事をきっちりこなしてきた自分の人生に、ふと誇りを感じる。でも同時に、これだけだったのか、という虚しさも込み上げてくる。
「香織さんとこの旦那さんは元気なのか?」
「ええ、まあね…」
智子は包丁を手に取り、きゅうりを刻み始めた。正雄のこうした質問が、なぜか煩わしく感じる。
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夕食が終わり、食器を洗っている時だった。
「智子、来週の日曜日、俺の鉄道仲間と一緒に箱根に行かないか?日帰りだけど」
智子は手を止め、振り返った。
「箱根?」
「ああ。俺の旧友の中村夫妻も来るし、楽しいと思うぞ」
「ごめんなさい、その日は美香が子ども連れてくる約束してるの」
「そうか…」
正雄の表情が少し曇った。智子は罪悪感を覚えたが、実は美香との約束は先週の時点で来月に延期されていた。ただ、正雄の友人たちとの旅行に行く気が起きなかっただけだ。
「じゃあ、次の機会にしよう」
「ええ…そうね」
智子は再び食器洗いに集中した。背中で正雄のため息が聞こえた気がした。
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土曜日の朝、智子は早起きして掃除機をかけていた。正雄はまだ寝室で眠っている。四十五年前、二人が出会ったのは職場の同僚の結婚式だった。智子は友人の付き添いで出席し、正雄は新郎の鉄道学校時代の同級生だった。
初めて会った日から、正雄の誠実な人柄に智子は惹かれた。当時の智子は二十一歳。商社の事務員として働いていた。正雄は二十四歳で、国鉄(現JR)に入社したばかりだった。
「朝から掃除か?」
正雄が寝ぼけ眼でリビングに現れた。
「起こしちゃった?ごめんなさい」
「いや、いいんだ。朝から元気だな」
正雄はソファに腰掛け、新聞を手に取った。智子はその姿を見て、ふと昔を思い出した。デートの約束をした日には手帳に大きな◎印をつけて、眠れないほど胸が高鳴った日々。電話で話せただけでも嬉しくて、小さな〇印を手帳いっぱいに書き込んだあの頃。
「何か飲む?コーヒー入れるわ」
「ああ、頼む」
何気ない会話。当たり前の日常。それが退屈に感じるようになったのは、いつからだろう。
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木曜日、正雄は嘱託の仕事が休みだった。智子は午後から友人とランチの約束があり、出かける支度をしていた。
「行ってくるわね。夕方には戻るから」
「ああ、行ってらっしゃい。気をつけて」
玄関のドアが閉まり、智子の足音が遠ざかっていくのを聞いて、正雄は深呼吸した。最近の智子の様子を見ていると、自分が家にいることで彼女の自由が奪われているような気がしていた。そこで彼は思いついた。智子の機嫌を取るために、彼女の留守中に家事をしてみようと。
「さて、何をしようか…」
正雄は家の中を見回した。食器は朝のうちに洗われていた。掃除機もすでにかけられている。そうだ、洗濯だ。洗濯かごには、二人の使用済みの衣類が溜まっていた。
「洗濯くらいできるだろう」
正雄は洗濯かごを手に取り、洗濯機のある脱衣所に向かった。洗剤を手に取り、説明書きを確認する。
「こんなに入れるのか?まあいいか」
衣類を洗濯機に投入していく途中、正雄は自分のシャツや靴下と一緒に、智子の下着も入れていることに気づいた。なぜか妙な感覚に襲われる。四十五年も連れ添った妻の下着なのに、同じ洗濯機に自分の下着と一緒に入れることに、もやもやとした気持ちになった。
「変なことを考えるな」と自分に言い聞かせながらも、何か昔ながらの価値観が心の中で囁いていた。
洗濯機のボタンを押し、作動させる。ぶんぶんと回り始めた洗濯槽を見ながら、正雄は台所に向かった。コーヒーを入れ、新聞を広げた。
一時間後、洗濯機のブザーが鳴った。正雄は乾燥機に衣類を移し、再びボタンを押した。
乾燥が終わり、正雄は温かい衣類を取り出した。シャツやタオルはたたみ、ハンガーにかける物はかけていった。そして最後に残ったのは、二人の下着だった。
智子の下着を手に取り、たたもうとした瞬間、正雄は手を止めた。「なぜだろう?」自分でも理由がわからなかった。四十五年連れ添った妻の下着なのに、たたむことができない。
「男子厨房に入らず」
どこからともなく聞こえてきたような古い言葉が頭をよぎる。両親の世代の言葉だ。正雄は結局、しわくちゃのままの下着をタンスの前に置いた。
「やはり苦手なものは苦手か」
自嘲気味に笑いながら、正雄はリビングに戻った。家事に挑戦した達成感と、どこか昔ながらの価値観に縛られている自分への歯がゆさが入り混じる複雑な気持ちだった。
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「正雄さん、今日も嘱託の仕事ですか?」
近所の井上さんに聞かれて、正雄は小さく頷いた。
「ああ、週に三日だけだがな。火曜日、水曜日、金曜日だけだ」
「いいですね。完全に引退するより、程よく働く方が健康にもいいでしょう」
「そうかもしれんな。ただ、家にいる時間が増えて、智子がどう思ってるか…」
正雄は言いよどんだ。最近、妻が少し冷たいような気がしていた。
「定年の後にすぐ北海道旅行に行かれたそうですね」
「ああ、人生の節目だと思ってな。一人でドライブしながら一周してきた」
「一人で?奥さんは?」
「智子には『自分の時間が欲しい』と伝えてな。実は…四十五年も一緒にいると、少し息が詰まることもあるんだよ」
正雄は手帳を開き、今週の勤務日にxマークをつけた。火曜日、水曜日、金曜日。残りの日は空白。定年前は仕事一色だった生活が、今はこんなに寂しい。
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「もう、いい加減にして!」
その日の夕方、突然智子は怒鳴っていた。正雄が智子の携帯電話を勝手に見ていたのだ。
「なんだよ、別に怪しいものでも見てないだろ」
「それが問題なのよ!私のプライバシーでしょ!」
「夫婦にプライバシーなんてあるのか?」
「あるわよ!四十五年も一緒にいても、私は私、あなたはあなた!」
智子は自分でも驚くほど感情的になっていた。正雄は困惑した表情で立ちすくんでいる。
「何を怒ってるんだ?最近おかしいぞ、お前」
「おかしいのはあなたよ!退職して嘱託になってから、私の行動をいちいちチェックして。友達と会うたび電話してきて、スマホまで見て…」
智子は震える手で自分のスマホを取り上げた。
「お前が最近冷たいから心配になっただけだ」
「冷たいんじゃない。窮屈なのよ。あなたが家にいる時間が増えてから、私の自由がなくなった」
智子の目から涙がこぼれた。正雄は黙ってキッチンを出て行った。
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夜、智子は一人で寝室のベッドに横たわっていた。正雄はリビングのソファで寝ると言った。こんな喧嘩は初めてではない。最近は些細なことでぶつかることが増えていた。
スマホに着信があった。美香からだ。
「もしもし、ママ?」
「あら、美香。どうしたの?」
智子は明るく振る舞おうとした。
「ちょっと子どもの相談があって…あれ?ママ、泣いてた?」
「ううん、大丈夫よ」
「嘘ついても分かるよ。パパとなんかあったの?」
智子は深いため息をついた。
「ちょっとね…最近、お父さんが退職して嘱託になってから、なんだか上手くいかなくて」
「熟年離婚とか考えてる?」
美香の直球の質問に、智子は言葉を失った。離婚?考えたことはあるだろうか。
「そんな…まさか」
「最近そういうの増えてるって聞くよ。定年後に離婚する夫婦」
「わたしたちは違うわ。ただ、少し慣れない生活で…」
本当にそうだろうか?智子は自問した。
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翌朝、智子が目を覚ますと、枕元にコーヒーが置かれていた。まだ温かい。リビングに行くと、正雄がテーブルで新聞を読んでいた。手帳も開いている。今日は嘱託の出勤日だった。
「おはよう」智子が言った。
「ああ、おはよう。コーヒー入れておいたぞ」
「ありがとう」
気まずい空気が流れる。
「昨日は…ごめん」正雄が口を開いた。「お前の気持ちを考えずに、自分勝手だった」
「私もごめんなさい。あんなに怒鳴るつもりじゃなかったの」
二人は向かい合って座った。
「実は…俺、北海道に行ってから考えていたんだ」正雄が真剣な表情で言った。
「何を?」
「俺たちの関係のことだよ。お前が最近冷たいのは、俺が家にいて煩わしいからだろ?」
「そうじゃないわ…」
智子は言葉を濁した。本当は、その通りだったから。
「正直に言ってくれ。四十五年も一緒にいれば分かるさ」
「…少し、息が詰まることはあるわね」
智子はようやく本音を口にした。
「やっぱりな」正雄は小さく笑った。「俺も北海道で一人になって、初めて気づいたんだ。お前にも一人の時間が必要だって」
智子は驚いて正雄を見た。
「智子、お前は四十年以上、俺のため、子どものため、姑のために生きてきた。自分のために生きる時間があっただろうか?」
智子は答えられなかった。確かに、自分のことを後回しにして生きてきた。
「だから提案がある」正雄が続けた。「俺は週に三日は嘱託で働くし、それ以外の日も友達と出かける日を作る。お前も好きなことをしてくれ。お互いの時間を大切にしよう」
智子は涙ぐんだ。
「本当にそれでいいの?」
「ああ。離れている時間があるからこそ、一緒にいる時間が大切になるんだと思う」
正雄は手帳を開き、勤務日のxマークを指さした。
「ほら、手帳を見ろ。俺が出勤する日は、お前の自由な日だ」
正雄の言葉に、智子は何十年ぶりかの感動を覚えた。
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一ヶ月後、智子は正雄の手帳を眺めながら微笑んでいた。火曜日、水曜日、金曜日には仕事のxマーク。月曜日には正雄の麻雀の日、木曜日には智子のヨガ教室。そして土曜日には◎印。二人の久しぶりのデート日だ。
「何を見てるんだ?」正雄がコーヒーを持ってきた。
「あなたの手帳。昔みたいに、予定がいっぱいね」
智子は手帳を見せた。正雄はそれを見て、懐かしそうに笑った。
「俺たちが出会った頃、お前はいつもその手帳に印をつけてたな」
「覚えてるの?」
「当たり前だよ。俺と話した日に〇をつけてるって自慢してたじゃないか」
二人は笑い合った。
「正雄、ありがとう」
「何が?」
「私の時間を認めてくれて」
「お互い様さ。俺も自分の好きなことをやらせてもらってる」
最近、正雄は地域の鉄道模型クラブに入会し、嘱託の仕事がない日には出かけるようになった。智子も水彩画を習い始め、新しい友人もできた。
「でも、やっぱり家に帰ってくるのが一番ほっとするよ」正雄が言った。
「それは同感ね」
智子は正雄の手を取った。熟年離婚なんて言葉が世間で流行っていても、自分たちはまだまだ一緒にいる価値がある。四十五年の歳月が築いた信頼と愛情は、些細な葛藤で揺らぐものではなかった。
「明日の夕食は何がいい?」智子が尋ねた。
「お前の好きなものでいいよ」
「じゃあ、すき焼きにしましょうか」
「いいね」
二人は窓の外を見た。季節外れの北風が吹いていたが、部屋の中は温かかった。人生の冬を迎えているはずなのに、二人の間には新しい春の訪れを感じていた。
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「どうだった?智子さんの最近の生活は」
友人の香織が尋ねた。カフェでのランチ会だ。智子は笑顔で答えた。
「信じられないかもしれないけど、四十五年経って、今が一番いい時かもしれないわ」
「え?正雄さんとの問題は解決したの?」
「解決というか…お互いを尊重することを学んだのよ。自由な時間も必要だけど、一緒にいる時間も大切にするようになったの」
智子はスマホを見た。正雄からのメッセージが届いていた。「今日は嘱託の仕事が早く終わった。焼き鳥を買って帰るよ。七時に合流しよう」
「昔は手帳に◎や〇をつけてたけど、今はLINEで連絡するのね」香織が笑った。
「時代は変わるものね」智子も笑った。
人生は思いがけない形で続いていく。熟年離婚という選択肢もあったかもしれないが、智子と正雄は別の道を選んだ。お互いの距離感を尊重しながら、共に歩む道を。四十五年の結婚生活を経て、彼らは新たな関係性を築き始めていた。それは決して完璧ではないが、二人だけの、かけがえのない物語だった。
智子はメッセージに返信した。「楽しみにしてるわ。また◎の日ね」