第二章 〜港町の略奪者〜④
呻くように名前をつぶやいたその瞬間、エルクたちの前に姿を現したのは人間の頭部を持ちながらも獅子の姿を模している異形の存在。
濁った赤い瞳がギラギラと輝き、口の端が歪んでいた。
「やあやあ、名を呼ばれるとは光栄だねぇ…契約者を追い詰めるとは、さすが教会の犬といったところか?」
あざけ笑う姿に、エルクの全身にびりびりと静電気のような振動が走る。
それは、地を這うように低い声のせいではなく、存在そのものが身体の奥底を震わせていた。
「出やがったな、バケモノ……!」
エルクはすでに持っていた大剣を、地に滑らせるように動かす。
そして、間合いを取るように地面を蹴った。
フィールもすかさず鉤爪に風を纏わせ、身構えた。
「ヴァレファール…お前とベルの契約、今すぐ解け!!」
「おー、なんて怖い顔だ。契約とは甘く…そして厳しいものだ。お前たちのその正しさとやらがこちらに通じるかな?」
ぞっとするような笑みを浮かべ、ヴァレファールが地を這うように動いた。
その身体は不気味な滑らかさで揺れ、まるで重力を無視しているかのように―――その場から一瞬で消えた。
「来るぞ!!」
「うわっ―――!?」
エルクの声と同時に、風が巻き起こった。
ギリっ…と、空気が切り裂かれる音と共に、黒い爪がフィールの肩をかすめる。
「ぐっ……!」
シャツが破け、白い肌に赤い筋が走る。
だが、その傷は深くはなかった。
「危なっ…!もうちょいで腕を持ってかれるとこだった…!」
「チッ……!」
フィールは片手で肩を押さえながら、体勢を立て直す。
その目には、いつものおっとりとした様子はなく、研ぎ澄まされた鋭さが宿っていた。
「このスピード…ベルの逃げ足が早かったのはヴァレファールの力みたいだね」
「とんでもねぇバケモノってわけか…厄介だな」
エルクが唸ると同時に、ヴァレファールは建物の壁を蹴り、次々と跳ねるようにして空間を撹乱しながら襲いかかってくる。
それにくわえ、移動のたびに黒い瘴気を残すため、視界が遮られて仕方ない。
「くそっ…!このままじゃ街の人まで巻き込まれるぞ!!」
エルクは周りを見回した。
突然のヴァレファールの出現に、逃げ惑う人の姿が視界に入る。
「どこか街の人を巻き込まない場所を――――」
フィールがそう叫んだ瞬間、ヴァレファールがその大きな体で跳ねるようにして突進してきた。
轟音と唸る風に獣の爪が空を裂き、真っすぐにフィールを狙う。
「フィール!下がれ―――ッ!」
「くっ……!」
後退しながらも鉤爪で応戦するフィール。
しかし、分厚い毛皮にくわえて邪悪な瘴気も纏っており、斬撃の通りは悪い。
「斬っても弾かれる…っ!まずい…!」
一方で、エルクも攻撃を仕掛けるが、獣の俊敏性と巨体の重さを併せ持つ相手に一撃を入れるのは至難の業だった。
そんな二人の様子を見て、ヴァレファールは薄気味の悪い笑みを浮かべる。
「そんな剣じゃ捕まえることなんてできないぞォ?」
「黙れっ…!」
剣を振るうも、また交わされる。
街の石畳に大剣がめり込み、瓦礫が飛び散る。
その瓦礫は近くの建物に跳んでいき、その建物を破壊する。
「―――っ…ダメだ!こんな場所じゃ思いっきり戦えない!」
呻いたエルクの口元が歪む。
街や人を守りながらでは、この悪魔―――ヴァレファールを倒すことができないのだ。
「チッ……」
エルクは空を見上げ、低く…それでいて力強く呼んだ。
「ロキ……来い」
その叫びと共に、エルクの背後の空間がひび割れる。
そこから黒い稲妻が奔り、いつものように気だるげな声が響いた。
「はいはい、呼ばれましたよっと…また厄介な奴を相手にしてるのかい?やれやれ…」
ローブ姿の紳士がひらりと空間から現れ、ひらりと宙に浮かびあがった。
そして、彼が指先をくるりと回すと、指先から広がるように空間がねじれていく。
広がる重力の渦に、ヴァレファールが身体がびくっ…と反応した。
「ここから先は通行止めだよ?悪いね、獅子くん?」
「―――グッ…!!?」
その瞬間、ヴァレファールの動きが鈍った。
「ほら、さっさと行っといで、おチビちゃん」
「だれがチビだ!!黙って押さえつけとけ!!」
エルクは地を蹴り、重力の渦に囚われたヴァレファールに向かって跳ぶ。
間合いに入れると同時に大剣を振り下ろし、ズバァァン!!と、凄まじい衝撃音を街に響かせた。
「ぐあぁぁぁっ……!!」
「もう一丁…!!」
剣に闇が纏い、稲妻のように一直線に漆黒の剣閃が走る。
次の瞬間、ヴァレファールの胸元に深い裂け目が生まれた。
「がっ…!ま、待て…!我が主のために…!俺はまだ…っ!」
ヴァレファールは獅子の身体を引き裂かれ、苦悶の声をあげながら崩れ落ちていく。
そして、その叫びも虚しく、ヴァレファールはその身体を黒い霧に変え風に散っていった。
街には静寂が戻り、エルクは呼吸を整えるように肩で息を吐く。
剣を一振りし、黒い残光を空に返した。
そのとき…
「すみません…!南支部から応援に駆けつけたんですけど…っ!」
その声に二人が振り返ると、教会支部の教会員の姿があった。
なかにはジンの姿もあり、エルクとフィールは一瞬身構える。
「…お前ら、何を勝手なことをしている!!」
街に響き渡る怒声に、空気が緊張に包まれた。
「命令を無視して未成年の身で…取り返しのつかないことになっていたらどうする気だ!!」
怒鳴り声に、フィールは縮こまるように背をすくめる。
だが、エルクは眉ひとつ動かさず、ジンを正面から見返したのだ。
「…悪魔は消えた。被害も最小限…のはずだ。それで十分だろ?」
「―――っ!お前というやつは…!」
苛立ちを滲ませながらも、ジンはそれ以上強くは言わなかった。
ただ、盛大なため息をもらし、伝わらぬ圧をかける。
「…で?あそこにいるお嬢さんは?」
ジンが視線だけで二人に問うと、フィールが一歩前に出て説明を始めた。
その事実を聞き、ジンは考え込むように手を口元にあてる。
「ふむ…」
考え込むジンの目には、泣きじゃくるベルの姿があった。
両膝をぺたんと地面につけ、まるで子どものように大泣きしている姿だ。
「うわぁぁぁん…!ぜんぶ…全部私のせいだ…街も、父さんも……」
フィールはそんな彼女をなだめようと手を差し出すが、どう声をかけていいのかわからない。
そのとき、ベルの背後から―――
「…まだ終わっちゃいねーよ」
その声に振り返ったベル。
背後にはエルクが立っていたのだ。
「お前が何を失って、何を信じられなくなったとしても―――今ならまだ間に合う。やり直せ」
その言葉に、ベルはぼろぼろと新たな涙を流す。
そして―――
「…ありがとう。あんたは変な奴だけど…来てくれてよかったよ」
フィールはそっとベルの肩に手を置き、いつもの笑顔を見せた。
そして―――
「じゃあ、今度は僕たちが約束するよ。…必ず、神器を取り返してくる。そして…もう一度この街に『本当の雨』を降らせてみせる」
「!!…あ…ありがとう…」
フィールは空を見上げ、手を掲げる。
すると風が集い始め、雲を引き連れてくるように空が動き始めた。
その雲はやがて色を濃くしていき、やがてぽつ、ぽつと…冷たい雨が石畳を叩いていく。
街にとっては久方ぶりの―――雨だ。
その雨に打たれるようにして空を見るベルは、そっと目を閉じた。
「少し…あったかい気がする」
こうして幕を下ろしたルーンでの騒動。
ベルはこのあと、教会で一時保護されることになった。
その理由は二つある。
ひとつは、彼女が悪魔と契約していたため経過観察と資質検査が必要とのこと。
そしてもうひとつは、彼女が手渡してしまった『神器』の行方を辿らなければならないことにある。
「お前ら!このあと南支部に戻れ!たっぷりの説教のあと、話がある!」
こうしてエルクとフィールはまた支部に戻ることになったのだった。
しかし…
「…バックレる?」
「いやいや、だめでしょう。観念して行こうよ、エルク」
「…」