第十九章〜終刻〜①
エルクの目に飛び込んできたのは、大理石の床に倒れ伏すオリヴィアとイーネ、リン、ムジカの姿だった。
意識を奪われたように動かない彼女たちの周りには、鮮血が滲んでいる。
「なっ……!?」
その姿にエルクが駆け寄ろうとした瞬間、エルクの視線は異様な二つの影を捉えた。
その影は『何か』を片手で高く持ち上げており、吊り下げられたもうひとつの影はもがくような動きを見せている。
次第にその輪郭が明瞭になり、エルクの目に飛び込んできたのは―――
マリアだったのだ。
マリアは首を掴まれ、宙に吊るされていた。
白い法衣は引き裂かれ、苦しげにもがきながら抗っている。
「なっ……!?」
エルクは、マリアの首を掴んでいる『何か』に目を凝らした。
その『何か』は―――エルクの知っている人物の顔をしていた。
「く、クロス……?」
思わず名を呼んだその瞬間、それはぴくりと反応し、ゆっくりとこちらを振り向いた。
だが―――それはエルクの知っている『クロス』ではなかったのだ。
天使を思わせるような光輪の気配を持ちつつ、背にあるのは漆黒の羽。
上半身は人間のような形をしているものの、下半身は獣のようにけむくじゃらだったのだ。
しかし、顔は間違いなくクロスの顔をしている。
「お前は……クロスなのか……?」
エルクが再び問うた、そのとき―――
その異形の存在はマリアを掴んだまま、呟くように言った。
「……私は―――『堕天使ルシファー』。またの名を『憤怒のサタン』」
その声は低く、重く、空気を裂くように大聖堂に響いた。
「何を言って……」
エルクが動こうとした瞬間、サタンはマリアを持ち上げたまま淡々と告げる。
「この女が、私の完全な復活の『鍵』となる。ゆえに、ここで始末させてもらう」
「やめろッ!!マリアを離せ!!」
エルクは叫び、グングニルを構える。
だが次の瞬間、サタンは空いていた手をひらりと翳したのだ。
目に見えない力がエルクを壁へと吹き飛ばしてしまう。
「がっ……!」
重い音とともに崩れ落ちたエルクに、フィールとライナスが駆け寄る。
「エルク!!」
「しっかりしろ!!」
その様子を見ていたバールが、血の滲む口元で呟いた。
「いったいどうなってる……?クロスがルシファーで、サタンなのか……?そんな馬鹿な……」
だが、その疑問に応えるように、サタンは口を開いた。
「知りたいのなら―――死ぬ前に教えてやろう」
不気味は余韻を残す声に、誰もが息を呑む。
「この『依り代』―――クロスという名の青年は、もとは天使の子だ。何があったかは知らぬが、天界を追放され、記憶を失って人間界に落ちてきた。それを拾ったのが、ベルゼブブだ」
その言葉に、エルクの顔が驚愕に歪む。
「クロスが……天使の子……?」
「そうだ。この依り代は純粋な人間ではない。天使の血、人間の心、悪魔の呪い―――すべてを孕んだ『奇跡の器』なのだ。だからこそ、ルシファーの魂も私の怒りも、この身に宿らせることができたのだ」
ひとつずつ知る真実に、大聖堂の空気が一層重くなる。
「我らは、もともとひとつの存在だった。堕天とともに分かたれ、今、再び統合された。そして―――暴食、色欲、怠惰、嫉妬、強欲、傲慢……最後は―――」
サタンは、マリアを掴んだ手に、ぐっと力を込めた。
「この女を殺し、天使の『慈愛』をも踏みにじれば我は完成する。混沌が訪れ、地上は地獄と化すだろう。悪魔が支配し、人間の時代が終わる」
サタンの低く響く声は、まるで預言のように大聖堂の空気に染み渡った。
「クロスという器が特別であるがゆえに、我々は完全なる再誕を果たす。そして、その力は神にすら届く。―――これは、我らにとって堕天の復讐劇……その始まりにすぎないのだ」
マリアの喉を締めあげるその手に、さらに力がこもる。
マリアは苦悶の表情を浮かべるが、『天使アズラエル』の能力『硬化』を使い、耐えていたのだ。
「ベルゼブブめ……人間や天使なんぞに長い期間、追いやられよって……やっとここまで―――」
その瞬間だった。
パァンッ!!と、銃声が大聖堂に鋭く響き渡ったのだ。
空気を裂くようなその一撃は、サタンの腕―――マリアを掴んでいた腕を根元から吹き飛ばした。
「……ッ!?」
漆黒の血が宙に舞い、マリアの身体が落下する。
崩れ落ちるように床へ倒れ込むなか、一同の視線はひとりの少年に集まった。
そこには、目に涙をいっぱいためたヴァンがいる。
「……自分たちの都合のために……悪魔を使って父さんと母さんを……!」
その声は、怒りと悲しみで震えていた。
だが、その手に握られた銃口は揺れておらず、戦う者としての決意がその瞳に宿っている。
「悪魔なんか……殺してやる…!!」




