第十四章〜多相の男〜③
エルクとフィールは完全に目を覚まし、叫んだ。
ライナスは苦痛に顔を歪めており、腹部からは赤黒い血がじわりと滲み出している。
「すぐに治療を―――!」
オリヴィアが叫びながら駆け寄ろうとしたそのとき―――
―――ヒヒィンッ!!
さらに暴れ出した馬たちが手綱を振り切ってしまい、馬車は完全に制御を失ってしまったのだ。
坂を下る馬車は、重力に引かれるように勢いを増していき、暴走を続ける。
車輪は跳ね、左右に大きく揺られる車体はまるで転がるように下り坂を進んでいった。
「うわああああっ……!」
車内の一同は、揺れに振り回されながら必死に座席や手すりを掴む。
だが、自身の身体を支えることで精いっぱいで、ライナスの腹を貫いた男をどうこうすることができなかった。
「ライナスっ……!」
オリヴィアが必死に手を伸ばし、名を叫んだ次の瞬間―――
―――ガタンッ!!
車輪が大きな岩に乗り上げ、その衝撃で馬車は横倒しになってしまったのだ。
しかも―――運悪く倒れた方向は崖。
馬車はそのまま傾斜に沿って転がり落ちていく。
「きゃああっ!!」
「うわぁぁぁっ!!」
木々を薙ぎ倒し、枝葉を巻き込みながら激しく回転を繰り返す馬車。
揺さぶられた一同は次々に車外へと投げ出されていった。
身体が宙を舞い、熱く積もった落ち葉や柔らかな苔の上へと転がり落ちる。
だが、そのまま斜面を滑り転がって行く者もいれば、木の根にぶつかって止まる者もいた。
誰がどの方向へ飛ばされたのか、判別はつかない。
やがて馬車も完全に転がりきり、大きな音を最後に静止。
―――シン……とした静けさが、森に戻っていた。
「……はぁ、っ……まだ、生きてる……」
運良く苔の上に転がり落ちたライナスは、荒く息を吐きながら身を起こした。
サタンの肉体を持つ彼は、腹を貫かれたものの致命傷を免れていたのだ。
「大丈夫!?すぐに治療するわ!」
すぐ近くに放り出されていたオリヴィアが駆け寄り、契約神フレイヤの力を使ってライナスの傷を治癒していく。
淡い光がライナスの腹部を包み、血の滲んでいた傷がゆっくりと塞がっていった。
「……ふぅ……助かった……」
こうしてライナスが安堵の息を漏らすなか、森の別の場所ではフィールが辺りを見回していた。
「うぅ……みんなどこに行ったんだよぉ……」
薄暗い森で、ひとりになってしまったフィールが不安そうな声を漏らす。
風が枝葉を揺らす音が妙に耳に残り、時折カサリ……と、何かが動く音が背後から聞こえるたびに肩を震わせていた。
「む、無理無理無理無理……!ひとりとか無理!」
緊張と不安が胸を締め付け、声にまで震えが滲む。
どの方向に一歩を踏み出せばいいのかさえわからず、立ち尽くしていたそのとき―――
「フィール、大丈夫?」
背後から聞こえた聞きなれた声に、フィールが振り返る。
するとそこに、『オリヴィア』の姿があったのだ。
「オリヴィアさん!よかったぁー……」
フィールは安堵し、駆け寄ろうと一歩を踏み出した。
だがその瞬間、フィールは動きを止めたのだ。
目の前にいる『オリヴィア』の表情が―――どこかおかしかったのだ。
いつもの優しい微笑ではなく、口元だけが不自然に吊り上がっている『オリヴィア』。
頬の筋肉がひきつっているかのように、硬直している。
「オリヴィア……さん……?」
フィールは無意識のうちに、じわりと後ずさった。
異様ともいえる笑みに、胸の奥が冷たく締め付けられていく。
「どうしたの?フィール。ひとりだったから怖かった?もう大丈夫よ」
『オリヴィア』は、柔らかな声でそう呼びかける。
だが、その声に滲むわずかな違和感が、ますますフィールを警戒させていった。
(―――これ、本当にオリヴィアさんなの?)
頭のなかで、警鐘が鳴り響く。
フィールは警戒を強めながら、そっと身構え始めたのだった。




