第82話 ギースの過去
――――十年前。
時計の針が十二時を過ぎた真夜中……草木も生えない渇いた大地が無限に広がる荒野。肌を刺すような寒い風がビュウビュウと吹き抜けて、風に飛ばされた砂埃が空に舞う。近くに人の住む村や町は見えない。地平の彼方まで枯れた地面が続いているだけだ。
寒々とした夜の荒野に、一人の男が立つ。三十代半ばに見える中年の男性だ。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
男が上半身を屈めたまま激しく息を切らす。表情には疲労の色が浮かび、額からは滝のように汗が流れて、手足の震えが止まらない。
左目を鋭い爪で抉られたようにザックリ切り裂かれて、そこからおびただしい量の血が流れだす。他に深手は負っていないが、身の危険を感じるにはそれだけで十分だ。
男は十年前のギースに他ならない。顔付きは少しだけ若いが、服装に大きな変化は見られない。ボサボサの黒髪、濃い緑のバンダナ、黒のタンクトップに紺色のジーンズ、両足に金属製のブーツ、両腕にガントレットを嵌めている。鍛えられた褐色肌も今と変わらない。強いて違いを挙げるとすれば、全身の古傷が今より少ない事だ。
「グルルルルゥ……」
男の前に『何か』がいる。猛獣の如き唸り声を発しながら、暗闇の中に赤く光る瞳で相手を睨む。
動物のチーターより一回り大きな、ドーベルマンのような黒い犬の魔獣……ヘルハウンドという名で知られた怪物だ。合体してケルベロスになるのとは別の個体らしく、一匹しかいない。
ヘルハウンドの周囲に、かつて人であったものが無数に転がる。喉笛を噛み千切られたり、腹を割かれたりして、致命傷を負っている。数にしておよそ七人ほどになる。鎧は砕け、衣服は無惨に破られて、血痕が付着した剣と弓矢が大地に散らばっている。
恐らくはヘルハウンドを討伐する為に編成されたパーティであろうと思われた。それがギースを除いて全滅したのだ。
今この場に生きて立っているのは、犬の魔獣と一人の男だけだ。だが男は左目をやられており、いつ殺されてもおかしくない状況に置かれている。
「クククッ……」
不利な立場に立たされた傭兵を見て、魔獣が小さな声で笑う。ニタァッと口元を歪ませて、侮蔑を含んだいやらしい笑顔になる。
一歩、また一歩と近付いて、相手を心理的に追い込もうとする。完全に敵を舐めきった態度を取っており、既に勝者になったつもりでいる。
相手に距離を詰められて、ギースがジリジリと後ずさる。背後に崖など無いが、それでも焦りが募りだす。額の汗が止まらない。
このままだと死を待つだけと分かっていてもどうにもならない。この場を切り抜ける方法を見つけようとしたが、良い考えが思い付かない。
(クソッタレ!! こんな所で……こんな所で死んでたまるかッ! まだ俺は何も成し遂げちゃいねえ! ここで死んだら、ケチで臆病なまま終わっちまう! それだけは絶対ゴメンだ! 片目なんざくれてやるッ! いっそ腕の一本や二本持ってかれようと、ヤツをブチ殺して生き延びてやる!!)
胸の内に怒りが沸き立つ。自身に迫り来る死を直感した時、何としてもそれに屈するまいとする不屈の闘志が燃え上がり、男に闘争本能を取り戻させた。脳内麻薬が分泌されて恐怖心が薄れていき、痛みを恐れる感情が無くなる。たとえ犠牲を払ってでも敵の命を奪おうという発想が、冷静な思考として働く。
ギースがふと足元に目をやると、二振りの剣が落ちている。他の仲間が使っていたもののようだが、刃こぼれしておらず、まだ使えそうだ。
(イチかバチか……試してみるか)
男が心の中でそう呟いてニヤリと笑う。地面に落ちた剣を拾い上げると、それぞれの手に一振りずつ握って二刀流になる。何らかの方法を思い付いたのか、敵に向かってジリジリと接近しだす。
「ウーーッ……」
ヘルハウンドが憎々しげな瞳で相手を睨む。敵を威嚇するように低い声で唸る。表情がみるみる殺意に染まっていく。
魔獣は内心腹を立てていた。精神的に追い込まれたはずの男が闘志を取り戻した事に、思い通りに事が運ばない苛立ちを覚える。貴様如きがやる気を取り戻した所で、我に勝てるものかっ! ……もし人語を発したならば、彼はそう言っただろう。
「グルルァァァァアアアアアアーーーーーーッ!」
やがて天にも届かんばかりの咆哮を発すると、痺れを切らしたように敵に向かって駆け出す。一気に間合いを詰めて、相手の喉笛に噛み付こうとした。
「フンッ!」
ギースは喝を入れるように一声発すると、左手に握った剣を横薙ぎに振って魔獣に斬りかかる。
ヘルハウンドは大きく口を開けると、鋭い牙で刃をガブッと受け止める。そのまま顎に力を入れて剣を噛み砕こうとする。
「……そう来ると思ったぜ!」
ギースが勝ち誇った台詞を吐いてニタァッと不気味な笑みを浮かべた。男が悪魔のような表情をした事に、ヘルハウンドは咄嗟の判断が間違っていたと気付かされる。男の態度は、今の状況が彼の望んだものであったと知るに十分だった。
「これでも……喰らいやがれぇぇぇぇええええええーーーーーーーーッッ!!」
男は腹の底から絞り出したように大きな声で叫ぶと、右手に握った剣を逆手に持ち替えて、剣先を魔獣の横っ首めがけて振り下ろす。ドシュウッと鈍い音が鳴り、ロングソードの刃が魔獣の喉を貫通する。傷口からボタッボタッと血が流れだし、地面に血溜りが出来る。
「……ッ!!」
ヘルハウンドは一瞬全身をビクッと震わせると、目がぐるんと裏返って白目を剥く。反射的に手足をバタつかせて暴れようとしたが、数秒と経たないうちに動きが止まる。断末魔の悲鳴を上げる間もなく、崩れ落ちるように地面に倒れて、ドスゥゥーーーンッと音を立てて全身を横たわらせた。
男はまだ敵が生きているかもしれないと思い、注意深く観察する。だが魔獣はだらんと口を開けて寝転がったままピクリとも動かない。剣で何箇所か刺しても反応しない。傷口からはとめどなく血が溢れており、それは致死量に達するものだ。
目をグワッと見開いて男を憎々しげに睨み付けた表情のまま固まる。呼吸もしていない。
一連の状況は魔獣が死んだ事を悟らせるには十分だった。
「ヒャッホーーーーイ!!」
ヘルハウンドを仕留めた事を確信して、ギースが歓喜の言葉を漏らす。危機的状況を乗り越えられた嬉しさのあまり、片目を抉られた事も忘れてウサギのようにピョンピョン跳ね回る。鼻歌を唄いながら踊りたい気分にすらなる。
生存は絶望的だった。一度は観念して死を受け入れかけた。そこから敵を倒して生き延びられた事に、大きな満足感が得られた。
ケチで臆病でうだつが上がらなかったこれまでの人生と決別し、生まれ変わったような開放感が胸の内に広がる。失敗続きの自分とはオサラバするのだと、男は確信を抱く。
「ざまあみやがれ、このクソ犬がッ! 人間サマの力、舐めんじゃねぇぇぇぇええええええーーーーーーーーッッ!!」
男が犬の死体を見下ろしながら大きな声で叫ぶ。ウサ晴らしをするように、魔獣の顔面を足でガッガッと踏み付ける。
傭兵の咆哮は荒野に響き渡った後、シーーンと静まり返る。言葉を返す者はいない。冷たい風がビュウビュウと吹き抜けるだけだ。
……だが誰も聞いていなかったとしても、男にとってはその言葉が吐けただけで満足だった。




