第124.1話 忍び寄る影
※124話と125話の間にあった物語です。最終話の続きではありません。
とある辺境の村に建つ木造の一軒屋……その台所にて。
「お母さんのバカっ! どうしていつもいつもカレーにたまねぎ入れちゃうの! 僕がたまねぎ嫌いだって知ってる癖に!!」
一人の少年が母親に向かって大きな声で怒鳴り、カレーライスに嫌いなおかずが入っていた事に文句を垂れていた。
部屋の中にいるのは母と子の二人だけだ。父親の姿は見えない。
少年は背格好と目鼻立ちからして七歳くらいに見える。
「サトル……好き嫌いばかりしてると、体の大きな大人になれませんよ」
三十代半ばくらいに見える母親が、息子のわがままをやんわりと叱る。
母親はおっとりした口調と性格をしていて、気が強いタイプでは無さそうだ。容姿は美人だが、常に疲れた表情をしていて何処か儚げでもある。
「体が大きくなったって、意味ないやい! あれだけ強かった父さんだって、熊に食べられちゃったんだ!!」
サトルと呼ばれた少年が母親の言い分に反論する。父親が猛獣に襲われて命を落とした事実を述べて、好き嫌いを無くす事の無意味さを説く。
「お母さんなんて大嫌いだっ! いなくなっちゃえ!!」
大きな声で叫ぶと、食事に手を付けずに台所から出ていく。そのまま自分の部屋に駆け込んでドアを閉めて鍵をかける。
「サトル……」
台所に一人ポツンと佇んだ母親が悲しみに満ちた顔をする。
息子に言う事を聞かせられない自分の無力感に打ちのめされた。
◇ ◇ ◇
「………」
サトルは自分の部屋に駆け込むと、うつ伏せにベッドに寝転んで枕に顔をうずめる。そのまま数分間何もせずにじっとする。
「母さんなんて……」
ボソッと小声で呟く。自分は悪くない、悪いのは相手だと言いたげに、言い争った原因を一方的に相手のせいにする。苛立ちをぶつける八つ当たりに等しい。
「母さんなんて……いなくなっちゃえばいいんだ」
そんな言葉が口を衝いて出た。
その瞬間、部屋の中が一面真っ暗な闇で覆われた。
明かりを点けてあったはずなのに、光が全く存在しないのだ。まるで黒い鉄の箱に閉じ込められてしまったかのように……。
「母親がいなくなればいい……そう言ったな?」
この異様な状況に少年が戸惑っていると、暗闇の中から声が発せられた。
「誰っ!?」
話しかけられた事に驚いて、少年が慌てて声がした方角を振り返る。けれども視界は完全な闇に覆われていて、声の主の姿を見る事は出来ない。
サトルに話しかけた声は大人の男性のものであったが、ねっとりした喋り方をしていて独特のいやらしさがある。子供を騙す詐欺師のような雰囲気を漂わせていて、声だけでも邪悪な存在だと分かる。
「お前の望み、叶えてやろう……母親をこの世から消してやる。もう二度とこっちの世界に戻ってくる事は無い。お前がそれを望んだのだからな……フハハハハッ」
声の主が尚も語りかける。少年の願いを叶える事を口にして、大きな声で不気味に笑う。
話を終えると部屋を覆っていた闇が消えて、室内が急に明るくなる。壁に打ち付けられた時計が何事も無かったようにカチッカチッと音を鳴らし、ランプの灯りが部屋の中を明るく照らす。怪しい者の声はもう聞こえてこない。
「今のは一体……」
怪しい男の気配が消えて、独り部屋に取り残されたサトルがポカーーンと大きく口を開ける。あまりにおかしな出来事だったため脳の計算が追い付かず、頭が真っ白になる。
自分は夢でも見たんじゃないか。そんな考えが頭をよぎった時……。
「キャーーーーーッ!!」
台所から母親の悲鳴が聞こえて、皿がガシャーーーン! と割れた音が鳴る。
「母さん!?」
母親の身に危険が迫ったと感じて、サトルが血相を変える。慌ててベッドから起き上がり、台所に向かって全速力で駆け出す。母親とケンカした事実は一瞬で頭から吹き飛んだ。
「……!!」
サトルが台所に着くと、母親の姿は影も形も無くなっていた。
母親が驚いた拍子にひっくり返したのか、カレーライスを乗せた皿が床に落ちて割れていたが、本人の姿は何処にも見当たらない。まるで煙になって消えてしまったかのようだ。
室内を荒らされた形跡は無い。サトルは悲鳴を聞いた時泥棒が入ったかもと考えたが、それにしては台所の様子は随分落ち着いている。異変を感じさせるのは床にぶちまけられたカレー皿だけだ。
何より驚くべきは、建物のドアも窓も施錠されたままであり、泥棒が入ってきた形跡も、母親が出ていった形跡も全く無い事だ。つまり誰も出入りしていないのに、母親が忽然と姿を消した事になる。
「母さん……どこ」
独り台所に取り残されたサトルが寂しそうに呟く。人ごみの中で母親とはぐれて迷子になった心境になり、急に心細い気持ちになる。孤独の感情が津波のように押し寄せてきて胸がいっぱいになる。
このまま永遠に彼女と会えないかもしれない……そう思った瞬間、目にうっすらと涙が浮かんだ。
……台所の隅に置かれた鏡が「クククッ」とネズミの吐息程度の小さな声で笑った事に、少年は気付く筈もない。




