第239話 こんな世界、知りたくなかった。
「……こうして町を離れてる間に二人が付き合ってた事を知らされた俺は、長年の恋心を打ち明けられないまま、無様な負け犬となって町を去ったのさ」
アランが失恋した経緯を語り終える。自分の過去を振り返って滑稽だとあざ笑うように「ハハハッ……」と渇いた半笑いの表情になる。
傷心に浸ってヤケクソになりながら自分を罵る男の姿は見るからに惨めだ。これが本当に世界を救った英雄の姿なのか、とザガートは嘆息を漏らさずにいられない。
「それで……それでお前は町を出て、そのまま魔竜王の討伐に向かったのかッ! たとえ世界を救ったとしても、彼女と結ばれる事など叶わないのだと知りながら!!」
悲しい過去を知らされて魔王が声を震わせた。望みが叶わないと知って尚、過酷な戦いに身を投じたのかと問わずにいられない。
「ああ、行ったさ……魔竜王を討伐して、世界を救った。恋を失った俺には、もうそれしか残ってなかったから……」
アランが魔王の問いに答える。もう自分には勇者の使命しか残されていなかった事、それを果たす為に魔竜王を討伐した事実を語る。
「でも、駄目だった。魔竜王を倒しても、隕石が落下して結局世界は滅んだ。お前との戦いに敗れて世界を再生させる夢も頓挫した。世界を救う事も叶わず、惚れた女と結ばれる事も出来なかった俺は只の負け犬……勇者失格だ!! 何も成し遂げられなかった……俺は……俺は勇者なんかじゃない!! ウウッ……ウッ……ウワァァァァァアアアアアアアアアッ!!」
最後は両方の夢を果たせなかった自分を負け犬だと罵り、大きな声で泣きだす。
瞳から大粒の涙がボロボロと零れだし、わんわんと声に出して泣く。誰に見られていようとなりふり構わず泣き続ける。いつまでも涙が枯れる事なく、生まれたての赤子のように泣く。
(………)
勇者がいつまでも泣く姿を見て、魔王は胸が痛んだ。彼を不幸な境遇へと追いやった運命に深い憤りを覚えた。何故彼がこのような目に遭わねばならぬのだと心の中で何度も叫ぶ。彼の心を傷付けた者達を激しく呪う。
それと同時に、何としても勇者の悲しみを取り除いてやらねばならない使命感に駆られた。どうすればそれが叶うのかすぐには思い付かなかったが、ひとまずポケットからハンカチを取り出して、涙を拭いてやる事にした。
「……お前がどれだけ自分を卑下しようと、俺にとってお前は最高の勇者だ!!」
勇者の頬を濡らす涙をハンカチで拭いながら、慰めの言葉をかけた。
(………)
魔王の言葉が胸に刺さったのか、勇者の涙が止まる。それまでわんわんと声に出して泣いていたのが、次第に声量が小さくなっていって、最後は声を出すのをやめて泣き止む。
勇者はしばらく魔王に慰めの言葉を掛けられた事に驚いたような放心状態になったが、やがて気持ちが落ち着くと、魔王に言われた言葉を何度も心の中で反芻する。
魔王が発した言葉はただの気休めだったかもしれない。
だがどんな気休めの言葉だったとしても、それが相手を思いやって吐き出された言葉だという事が、勇者には分かっていた。
それもそのはず、さっきの台詞を口にした時、魔王は全身をわなわなと震わせて声を震わせた涙声になっていたのだ。涙を流しこそしなかったものの、泣くのを必死に堪えようとしたようにウッウッと嗚咽が漏れていた。涙が瞳から零れ落ちずとも、心で泣いているのが相手に十二分に伝わったほどだ。
「ありがとうザガート……こんな俺なんかの為に泣いてくれて。誰かに泣かれるのが、こんなに嬉しい事だとは知らなかった。不思議だな……戦場で殺し合っただけの仲なのに、今は唯一無二の友のように感じている」
魔王が自分の境遇を深く悲しんた事実に、勇者が感激の言葉を漏らす。これまで胸の内に抱えていたモヤモヤが晴れてスッキリしたような、晴れやかな笑顔になる。
自分の境遇を分かってくれる人がいた。その人が自分の為に泣いてくれた……彼にはそれだけで十分だった。他に何もいらなかった。
最後は魔王に友のような感情が湧いた気持ちを素直に打ち明ける。
「お前が望むなら、今からだって友達になってやる」
ザガートが勇者の友になってもいい意思を伝える。その表情は真剣で、口調には一切迷いが無い。
「ありがとう……こんな俺なんかの友達になってくれ……て……ゴホッゴホッ!!」
アランがザガートの言葉に感謝しかけた瞬間、ゴホゴホと咳き込んで口から真っ赤な血がトマトジュースのように溢れだす。今まで流れた血は既に致死量に近い。
魔王に過去を語る為にこれまでどうにか持たせてきたが、勇者の命が尽きようとしている事が、その場にいる者に容易に感じ取れた。
アランがふと空を見上げると、頭上に雲一つない青々とした空が広がっていた。太陽が燦々と照り付けていて、日光が顔に当たって眩しい。
顔を真横に向けると、二羽の鳩が何処かに飛んでいく姿が目に入る。バサバサバサと翼を羽ばたかせた音が耳に残る。
「ああ、なんて綺麗な空だ……死ぬ前にもう一度、こんな景色が見られるなんて……」
再び空を見上げると、視界に映り込んだ空の美しさに感慨を漏らす。
空の青さも、照り付ける太陽も、飛んでいく鳩も、日常で見かける何て事ない風景だ。だがこれから死にゆく彼にとって、それらの景色はかけがえの無い、美しいもののように思えた。
「後悔ばかりの人生だったが、悪い最期じゃなかっ……た……」
今にも消え入りそうにか細い声で呟くと、ガクッと力尽きて息絶えた。
……ハンカチで拭いてもなお頬は涙に濡れて真っ赤だったが、その表情は心から満たされて満足したように穏やかだった。
「……!!」
勇者の死を目の当たりにして、魔王は思わず絶句した。
うまく言葉で言い表せない感情が胸の内に湧き上がり、手足の震えが止まらなくなる。全身にドッと冷や汗のようなものが噴き出し、胸がきゅうっと締め付けられて息が詰まりそうになる。動悸と目眩がして吐き気を催す。
自分が彼を殺したのだ。その自分が殺したはずの相手の死に、誰よりも自分がショックを受けていた。
「うっ……うぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおーーーーーーーッ!!」
魔王は空を見上げると、胸の内に湧き上がる感情を天に向かってブチ撒けたように大きな声で叫ぶ。最愛の子を失ったライオンのような咆哮を上げる。「ウオーーーッ、オーーーッ、オーーッ」という叫び声が残響音となって荒野に響き渡る。喉が枯れんばかりに叫び続ける。
ひとしきり叫び終わると、勇者の亡骸の前に膝を抱えて体育座りする。その姿勢のまま一歩も動こうとはしない。悲嘆に暮れたように地べたに座りながら、男の死に顔をただじっと眺める。
勇者の死に顔は憑き物が取れてスッキリしたように安らかだ。これまで胸の内に抱えていた心の傷が癒されて天国に行けた事は、誰の目にも明らかだ。
だが勇者のその満足そうな死に顔が、かえって魔王の胸を強く痛め付けた。
魔王の心象が強く影響したのか、それまで青く晴れていた空が瞬く間にどんよりした雲に覆われる。ゴロゴロと音が鳴って今にも雷が落ちそうになる。ひんやりと冷たい風が吹き抜けた瞬間、雨がザーザーと激しく降りだす。
勇者の頬を雨の雫がビチビチと打ち付ける。頬を伝って地面に零れ落ちた水滴が、大地を水浸しにする。まるで泣く事が出来ない魔王の代わりに、天が泣いているかのようだ。
魔王はどれだけ激しい雨が降ろうと、雨が止むまで数時間、その場から一歩も動こうとしなかった。服が雨でビチャビチャに濡れようと、大地が泥だらけになろうと、勇者の前にある地べたに座り続けた。
……まるで冷たい雨に打たれ続ける事で、勇者を救えなかった自分を責めているかのように。




