第2話 最強の魔王、異世界に降り立つ。
「うっ……」
タケシが長い眠りから目覚める。
彼が周囲を見回すと、そこは草木も生えない大地が何処までも続く荒野だった。時折カラカラと渇いた風が吹き抜ける。上を見ると晴れやかな青空が広がっていたが、目の前に広がる閑散とした風景に、世界の美しさを感じる事は出来ない。『世紀末』という言葉が似合うような、過酷な環境だ。
彼は異世界に飛ばされた後、この広大な大地で寝ていたらしい。
タケシの足元に、これを使えと言わんばかりに手鏡が落ちていた。ゼウスがよこしたものだろうか。
タケシは手鏡を拾って自分の姿を映し出す。
「……これが俺か」
思わずそんな言葉が口から漏れ出す。
そこに映っていたのは齢二十七歳くらいの、目鼻立ちが整った美形の男性だった。肌は東洋人のような肌色だが、銀色に染まったサラサラの髪は胸元まで伸びており、頭の左右には悪魔の角が生えている。
瞳は青色に染まっていて、目付きは獲物を狙う狼のように鋭い。
彫りが深い顔は男性的なたくましさに溢れて、ワイルドな肉食系の印象を与える。元の世界にいたらハリウッド映画のスターになれそうな容姿だ。
ファンタジーの魔術師が着るような裾の長い衣をダークブルーに染めたものを纏っており、更にその上に純黒のマントを羽織る。右手の中指には魔力を帯びたらしき金色の指輪を嵌めている。
一見して只者でないと分かる異様な姿は、上級悪魔と呼ぶに相応しかった。
変わったのは姿だけではない。精神年齢も肉体に合わせて成長したような、そんな感覚が彼の中にあった。タケシが元いた世界のありとあらゆる膨大な知識が頭の中に詰め込まれており、悟りを開いた賢者のような達観した気持ちになる。十四年しか生きていないはずなのに、まるで五百年生きたような経験を得た。
自分が自分でなくなったような錯覚に陥る。
「最強の上級悪魔、魔王ザガート……か」
神に言われた言葉を思い出して復唱する。
彼はこれより人間の男子中学生、宮野タケシとしてでなく、異世界に降臨した魔王ザガートとして生きていく事となった。
「さて、これからどうしたものか」
ザガートが今後の方針について考えていると……。
「いやぁぁぁぁああああああーーーーーーーっ!!」
何処からか、とても大きな悲鳴が発せられた。
声の聞こえた方角にザガートが振り返ると、一人の少女が彼の方へと走ってくる。モゾモゾした小さな物体が十匹ほどいて、ギィギィと不気味な声で鳴きながら少女の後を追う。
その少女、フリルのレースが付いた赤いエプロンドレスを着て、茶色の髪を後ろで三つ編みに結んでいる。縁の無い丸メガネを顔に掛けていて、鼻の左右にそばかすがある。歳は十七歳くらいに見え、『素朴な村娘』という印象を与える。
だが何よりも特筆すべきは、胸が非常に大きかった事だ。走るたびにゆっさゆさと激しく揺れるそれは、たわわに実った乙女の果実と呼ぶに相応しい。
少女を追うのは人間の子供くらいの背丈で、暗めの濃い緑色の肌をした、小悪魔のような怪物……この世界においてゴブリンと呼ばれる下級のモンスターだ。絵本に出てくる小人のような服を着ており、手には鋭いナイフが握られている。
「ああ、旅のお方っ! どうか……どうかお助けをっ!」
村娘が慌てて助けを求めながら、ザガートの元へと駆け寄る。すがるような目で相手の顔を見ながら、衣の裾を強く掴む。よほどパニックに陥っていたのか、男の頭に角が生えている事に全く気が付いていない。
「ギギギッ……ナンダオ前、俺達ノ仲間カ? マァ敵デモ味方デモ、ドチラデモ良イ……ソノ女ヲ、サッサト コチラニ寄越セッ! 散々オモチャニシテ弄ンダ後デ、肉ヲ喰ッテヤル! ギィーーーーッギッギッギィッ!!」
集団の先頭にいたゴブリンが、不気味に笑いながら娘を渡すように要求する。口からはだらしなく涎を垂らし、娘を獲物を見るような目で見ながら、ペロリといやらしく舌なめずりした。
「いやぁ……」
醜悪な怪物に睨まれて、少女の表情がみるみる絶望の色に染まる。あまりの恐ろしさに体の震えが止まらなくなる。足に力が入らず、まともに歩けなくなり、その場にへたり込む。目にはうっすらと涙が浮かび、今にも泣きそうになる。
(フーム……)
そんな少女を前に、ザガートが顎に手を当ててどうするべきか思案する。
ゼウスに世界を救えと言われた彼であったが、この世界に関する情報を何も持ち合わせていない。まずは人の住む村に案内されて、情報を集めるのが先決だと考えた。その為にも、ここで少女に死なれては困るという結論に行き着く。
「オイ、何ヲ モタモタシテイル!? 早ク女ヲ渡サナイカッ! サモナイト、貴様モ殺シテヤルゾッ!!」
物思いに耽る男を見て、ゴブリンが痺れを切らす。もし要求に従わなければ命を奪うと脅しを掛けた。
「……ほう」
小鬼の言葉を聞いた途端、ザガートがニタァッと歯を見せて不気味に笑う。明らかに相手を見下した傲慢さと、揺るぎない殺意に満ちた悪魔の表情になる。
「分を弁えぬ愚かな雑魚どもが……己が無知、その身を以て贖えッ!」
死を宣告する言葉を発すると、正面に右手をかざす。直後男の指先に魔力と思しき赤い炎が集まっていく。
「我が力よ……炎の龍となりて全てを焼き尽くせ! 火炎龍嵐ッ!!」
魔法の言葉を唱えると、男の指先に集まった炎が巨大な龍へと変化する。炎の龍は蛇のように畝ねりながらゴブリンの群れめがけて飛んでいき、先頭にいた一体に絡み付く。
「ウギャァァァァァァアアアアアアアアーーーーーーーーッッ!!」
龍に触れられた途端、ゴブリンの全身が炎で焼かれる。マグマに匹敵する超高熱の火炎は小鬼を一瞬で焼き殺し、黒焦げの焼死体にする。鼻をつく不快な臭いとともに、ブスブスと白煙を立ち上らせた。
炎の龍は間髪入れずに他のゴブリンへと襲いかかる。
「ギャアアアアアアッ!」
「ウギャァァァァアアアアアアーーーーーーッ!!」
「ドバァァァアアアアアアアッ!!」
小鬼の群れが次々に焼かれて、阿鼻叫喚の地獄と化した。十匹ほどいたゴブリンは一分と経たないうちに皆殺しにされて、役目を終えた炎の龍は蜃気楼のようにうっすらと薄れて消えてゆく。後には黒い肉塊だけが残る。
「フンッ……異世界の魔物とやらも、しょせんこの程度か」
ザガートが小馬鹿にするように鼻息を吹かせながら、ゴブリンの死体を足で踏む。人を襲う異世界の怪物が思ったほど大した強さでは無かった事と、自分が確かに最強の生物となった満足感に浸る。
「あああっ……あっ……」
男の残虐な行いに、少女が顔を引きつらせた。表情は一気に青ざめて、歯をガタガタと震わせる。本来命を救われた事に感謝すべき所だが、もはやそれ所ではない。下手をすれば自分が殺されるかもしれないのだ。
男の頭にモンスターらしき角がある事に気付いたのも、恐れを抱くのに拍車を掛けた。
「こっ……殺さないでぇ……」
思わずそんな言葉が口から飛び出す。ゴブリンより遥かに強い悪魔を前にして、命乞いするしか選択肢が無い。
(しまった……やり過ぎたか)
男は内心迂闊な事をしたと思った。彼は姿と能力こそ魔王のそれだが、人々に恐怖と絶望を与えるのが目的ではない。あくまで目的は世界を救う事なのだ。にも関わらずいきなり相手を怖がらせては、人々の協力が得られないかもしれない。力ずくで従わせる事は彼の本意ではない。
村に案内させるためにも、ここはひとまず少女の恐怖心を取り除かなければならないと考えた。
「あーー……ゴホン」
一旦気持ちを落ち着かせるために咳払いをする。
「小娘……何も恐れる必要は無い。俺の名はザガート……頭に角が生えているが、ヤツらの仲間ではない。むしろ逆だ。俺は人類を救うために異世界からやって来た。だがこの世界について何も知らない。君の住む村へと案内して欲しい。そこでいろいろと聞きたい」
自分が魔物の仲間ではないと伝えて、村に案内するよう頼む。極力少女を怖がらせないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「……いきなり怖がらせて、すまなかった」
最後に頭を手でボリボリ掻きながら申し訳なさそうに謝る。弱者への配慮が足りなかった事を深く詫びる。
「……」
少女が地べたに座り込んだまま黙り込む。男の予想外の態度に困惑したあまり思考が追い付かず、何とも言えない表情になる。どう反応すべきかすぐには考えがまとまらない。
男の言葉全てを信用した訳ではない。もしかしたら嘘をついていたかもしれない。
だが男のしおらしい態度は、敵ではないと思わせるものがあった。そんなに警戒しなくていいかもしれないと感じさせた。何より彼に命を救われた事は、厳然たる事実だ。
「……村に案内すれば良いんですね」
少女はそう口にしてゆっくりと立ち上がる。手足の震えは止まっており、本能的な恐怖心は無くなっていた。村があると思われる方向を向いて、とぼとぼと歩き出す。
「ああ……そうしてくれると助かる」
魔王は感謝の言葉を述べてニッコリ笑う。少女が警戒心を解いてくれた事に深く安堵しながら、彼女の後に付いていく。
彼女が走って逃げたりしなくて本当に良かった……心の底からそう思えた。
◇ ◇ ◇
少女は自分の住む村に向かってひたすら歩く。完全に心を開いた訳ではないのか、自分からは一言も話さない。居心地が悪そうに下を向いたまま黙り込む。
ザガートはそんな少女の後に大人しく付いていく。相手の機嫌を損ねたくない思いから、迂闊に声を掛けられない。
閑散とした荒野を、二人の男女が黙々と歩き続けたが……。
「……このまま、ただ歩き続けるのも退屈だ。俺から名乗ったのだから、君の名前も聞かせてくれないか」
やがて重苦しい空気に耐え切れず、魔王が口を開く。少しでも友好関係を築くために相手の名前を聞こうとする。
「ルシル……ルシル・ガーネットと言います」
少女が下を向いたままボソッと小声で呟く。あまり男との会話に気乗りしなさそうに表情が暗い。
「ルシルか……良い名前だ。これから長い付き合いになるかもしれない。よろしく頼む」
少女の名前を聞いて魔王がニッコリと笑う。相手の名前を褒めてフレンドリーに接する。
「……」
ルシルと名乗った少女は尚も無言のまま歩く。男の言葉に一切返答しない。ただ背中を向けて歩き続けるだけだ。
少女は魔王の事を変な男だと思った。ゴブリンを一瞬で殺せる力があるのに、自分のようなかよわい女性には低姿勢で接する。その考えが理解できない。
やろうと思えば力ずくで従わせられるのに、それをしようとはしない。少女には男の思考が全く読み取れない。
反面、男の好意を受け入れようとしない自分の頑固さに対する苛立ちも、心の何処かにはあった。