第108話 鬼姫は酒を飲んで酔っ払う
魔王がギルボロスを倒した日の晩、村を挙げての宴会が開かれた。
大人達は酒と肉をかっ食らいながら楽しそうに笑い、歌を唄って踊りだす。子供達は広場を駆け回って追いかけっこしたり、『ザガートごっこ』をして遊ぶ。
皆が英雄の活躍ぶりを口にして、救世主に思いを馳せた。ようやく村に訪れた『真の平和』を噛み締めて、生きる喜びに満ちた一時を味わう。
宴が終わり、皆が疲れたように寝静まった真夜中……時計の針が十二を指した頃。
ザガートがふと目を覚ますと、隣のベッドで寝ていた鬼姫がいない。トイレに用を足しに行ったのか、もぬけのカラになっている。
一行は酒場がある宿屋の二階に二部屋を借りていた。一方の部屋にはルシル、レジーナ、なずみの三人が、もう一方にはザガートと鬼姫が泊まる形となっている。いくら同室とはいえ一つのベッドで寝たりはせず、二台のベッドで離れて別々に寝る。その隣で寝ていた女がいなくなったのだ。
魔王は女がいなくなったのが気がかりになり、ベッドから起き上がって普段着に着替えると部屋の外に出る。ドアを閉めて廊下を歩き、ゆっくりと音を立てないように階段を下りる。下の階に来ると、酒場の方から何やら物音が聞こえる。
音が聞こえた方角に向かって歩き、酒場の側まで来ると、ランプの明かりが点いているのが見えた。
ザガートが酒場に入ると、端っこのテーブルの前に置かれた椅子に一人の女が座る。その女は言うまでもなく、部屋を抜け出した鬼姫だ。
彼女は一升瓶に入った日本酒のような酒をガラスのコップに注いで、ゴクゴク飲み干す。既にかなりの量を飲んだのか、空の瓶が数本床に転がっている。顔を真っ赤にしてヒックヒックとしゃっくりをする。
魔王はしばらく離れた場所から様子を見ていたが、やがて女の方が男の存在に気付く。
「何ひゃあ……魔王……おぬひも起きよったか。どうひゃ……いっひょに飲まぬか? たのひいぞ……ウヒャヒャヒャヒャ!!」
鬼姫が魔王を見ながら楽しそうに笑う。完全に酔いが回っており、呂律が回らない。テンションが上がっており、意味もなく笑い出す。
女の口からプゥーーンと酒のニオイがする。あまりの強烈さに男は思わず鼻を塞いだ。
「いっひょに……飲もうや」
鬼姫がそう言いながら椅子から立ち上がる。男を飲みに誘おうと、正面へと歩き出す。けれども足元はふらついており、おぼつかない。案の定、数歩進んだ所で足がもつれてコケそうになる。
「危ないっ!」
男が咄嗟に前に出て、女を抱き止める。女は男の胸に寄りかかったまま抱き締められた状態になる。
「……うっ!」
次の瞬間、鬼姫の顔が真っ青になる。慌てて男から離れると、床に四つん這いになり下を向く。
「おええええええええっ」
そのままゲロを吐いてしまう。体がぐらついた事で胃が刺激されて、吐き気を催したようだ。
(何をやってるんだ、全く……これじゃ仕事帰りにヤケ酒をかっ食らうアラサーのOLじゃないか)
ザガートは思わず頭を抱え込んだ。酒を飲んで酔い潰れた挙句に嘔吐する醜態を曝け出した女を見て、心の底から呆れる。元いた世界の働く女を引き合いに出す。
それでも彼女を放っておけず、側まで来てしゃがむ。
「しっかりしろ……体の具合は大丈夫か」
優しく言葉を掛けながら、女の背中を手でゆっくりと摩る。
床にぶちまけられた内容物は魔王が人差し指を向けて魔法の言葉を唱えると、何事も無かったかのようにサッと消える。
「ああ……もう大丈夫じゃ。心配かけてすまんのう」
鬼姫が背中を摩られたまま申し訳なさそうに謝る。思いっきり吐いてスッキリしたのか酔いが覚めており、普段の落ち着きを取り戻す。
「急にどうしたんだ……酒に溺れるなんて、お前らしくもない」
女が落ち着きを取り戻したのを見て魔王が問いかける。彼女がヤケ酒を呷るほど深い悩みを抱えたなら、相談に乗って力になろうと考えた。
「我は……我はもうダメなんじゃ」
鬼姫が下を向いたまましゅんっとなる。親に叱られた子供のように肩を縮こませて小さくなる。普段の強気な態度は鳴りを潜めて、すっかりしおらしくなる。
「……昼間の事を気にしているのか」
ザガートが心当たりを口にする。昼間の事というのはもちろん鬼姫がギルボロスに勝てなかった事を指す。彼女が魔神に力が及ばなかった事を気にかけているのではないかと、男はそのように考えた。
魔王の指摘に鬼姫がコクンと頷く。
「……嫌になったのじゃ」
ボソッと小声で呟く。表情は暗く、口調は重い。深刻な悩みを抱えていたのが一目で分かる。
「我は自分では強い方だと思っておった……少なくともニッポンにおいては敵なしじゃった」
自らの実力に自信を持っていた事、東の国においては最強だった事実を誇らしげに語る。
「……じゃが、こっちの国に来てからはどうじゃ? お主に負けただけならまだ良い。相手が最強なら諦めも付く。じゃがそれだけに留まらず、事もあろうに大魔王の手下風情の悪魔に負けてしまいおった! 何が東の妖怪の王じゃッ! 何が鬼族の誇りじゃッ! これでは……これではまるで、ただの非力な女子ではないか!!」
悲しげな表情になりながら顔を上げると、自分が井の中の蛙に過ぎなかった思いを口にする。魔王軍の幹部でしかないギルボロスに負けた事、それにより自信を喪失した事を長々と喋る。声が震えており、今にも泣きそうな涙声になる。
「我は恥ずかしい……散々イキリ散らしておきながら、その実ただのかよわい女でしかなかった自分が、みっとものうてたまらぬ……ウッウッ」
瞼を閉じて下を向いたまま話を終わらせた。目にうっすらと浮かんだ大粒の涙が、雫となって零れ落ちる。ボタッボタッと数滴ほど涙の粒が落ちて床が濡れる。最後は嗚咽を漏らして泣き出す。
「そう自分を卑下するな……お前は十分強い。今回ばかりは相手が悪かっただけだ」
声を押し殺して泣く鬼姫の頭を、ザガートが優しく撫でる。彼女の実力を評価している事を伝えて、少しでも気持ちを和らげようとした。
(そうだ……彼女は決して弱くなどない。むしろ強い。そもそもアスタロトほどの強さがあれば、一地方を牛耳って魔王を名乗るくらいの事は出来る。そのアスタロトを上回る実力を持った悪魔がゴロゴロいる魔王軍が異常なんだ)
彼女を落ち込ませる原因となった魔神の強さに思いを馳せた。かつて男と戦った大悪魔の名を引き合いに出して、魔王軍の層の厚さに戦々恐々となる。
「じゃが……」
魔王に慰めの言葉を掛けられても、鬼姫の表情は晴れやかではない。相変わらず目に涙を浮かべた泣き顔のままだ。
「それでも我は許せぬ……許せぬのじゃ! 散々大口を叩いておきながら、村の一つも守れなかった自分を……」
自身の非力さを心の底から嘆く。大切なものを守りたいと一心に願いながら、それが果たせなかった不甲斐なさに苛立った様子が窺える。思い通りに成果が出なかった自分の弱さを相当歯痒く感じたようだ。
「もういい……もういいんだッ!」
ザガートは大声で叫ぶと、話を遮るように彼女を強く抱き締めた。腕に力を込めて、そのままじっと離さない。
「……ッ!!」
突然の出来事に鬼姫が思わず黙り込む。男の腕に抱かれたまま、思考停止したマネキンのように固まる。一瞬何が起こったのか脳に思考が追い付かず、頭の中が真っ白になる。
女が抵抗しない様子を見て、男が彼女を抱いたまま口を開く。
「いくら頑張ったって、力が及ばない事もある……報われない事だってある。でもそれは仕方のない事だ。それが現実なんだ。お前は何も悪くない。必死に頑張って成果が出なかったとしても、誰もお前を責めたりしない。だからもうこれ以上、自分を傷付けようとするな……ッ!!」
この世には力の届かない限界がある現実を教えて、自分を責める行為の不毛さを説く。彼女を非難する者など一人もおらず、それ故に責任を感じる必要は無い旨を告げる。
「お前にやれない事があったら、全て俺に任せろ。秒速で駆け付けて、一瞬で解決してやる。何だってやってやる! 俺がお前の力になって、全ての困難を背負ってやる!!」
仲間の弱さを全力で受け止める覚悟を強い口調で伝える。彼女が自分の存在を重荷に感じないよう、全てを任せろと訴える。言葉の一つ一つに相手を気遣う優しさが篭っており、何とも頼もしい。
「魔王……」
男の説得に心を動かされたのか、鬼姫の表情が明るくなる。これまで胸に抱えたモヤモヤが消えてスッキリしたような、晴れやかな顔になる。胸の奥底から急激に熱いものがこみ上げて、今にも泣きそうになる。
「うっうっ……うわぁぁぁぁぁぁああああああああんっ……」
感激のあまり瞳を涙で潤ませると、大声で叫んで泣き出す。男の胸に顔をうずめたまま、わんわんと声に出して泣く。父親に甘える子供のようになる。
自分の弱さがもどかしかった。妖怪の王を名乗りながら敵を倒せなかった事に恥ずかしさを覚えた。穴があったら入りたい気持ちにすらなった。いっそこの世から消えてしまいたかった。
自分の存在を否定するほど追い詰められた彼女にとって、魔王の言葉がどれほど嬉しかったか……彼女はもう他に何もいらなかった。
赤子のように泣き続ける彼女を、魔王が両腕で受け止めるように抱く。
木の枝に留まるフクロウは、そんな二人の光景を窓の外からじっと眺めていた。




