九三話 大丈夫?おっぱい吸う?
例の邪教徒の『洗脳返し』が成功したかどうかは、様々な方法で時間をかけて確認されることになった。
単純な質疑応答、それに併せて行われる脳の異常挙動の確認。この二つを基軸として、虱潰しに思考チェックを行うのだ。どれくらいの時間が掛かるかは現段階で不明なため、結果が出るまでオクリーは地上で待機しているように言われていた。
「……さて、夜になったな」
「さ、サレンしゃん、ほんとにこんなことしていいんですか~」
「ジアターよ、私が許可しているから良いのだ。気にすることはない」
「ひぃん……」
そして、そんなオクリーを監視するのは、ケネス正教幹部序列五位ジアター・コーモッド。五感を共有する召喚獣を操作可能な彼女は、隠密に特化した召喚獣『闇に住まう亡霊』を呼び出し、オクリーのいる部屋に潜入させていた。
『闇に住まう亡霊』の特性は、夜の間はほとんど不可視であり、かつ物理攻撃を一切受け付けないこと。攻撃性能は一般人を呪い殺すことが可能な程度であり、太陽が昇ると消滅するという制約がある。主に夜間諜報や監視で活躍する召喚獣である。
召喚獣の操り手ジアターは、オクリー・マーキュリーという大物が正教に味方してくれそうなのは知っていたが、幼気な少女を使って寝技を仕掛け、その動向を監視しようとする自分達に対して罪悪感に近い感情を感じていた。
(う、うぅ……マリエッタちゃんを使ってまでオクリーさんを突き上げる必要があるんでしょうか~……? だって、クレスさんの『洗脳返し』はオクリーさんのお陰でほとんど完成したって言うじゃないですか。これ以上彼を捏ねる必要があるんでしょうか……? オクリーさんもマリエッタちゃんも可愛そうですぅ~……)
身長一七三センチのサレンの隣、一八〇センチの一回り大きな体躯を縮こまらせて、せっせと召喚獣を操るジアター。
彼女の後頭部――艶やかな黒髪を掻き分けた先には植物の根っこが繋がれており、ノウン・ティルティの補助が加わることで聖遺物『揺れる水面』に接続されていた。
『揺れる水面』は、特殊な工程を踏むことで、召喚獣の視界を水面に映し出すことのできる聖遺物だ。
簡単に言えば、ジアター専用の映写機である。ノウンの植物を通じて水面に映し出される映像は、オクリーの部屋に潜入した召喚獣『闇に住まう亡霊』が目撃していることそのもので、リアルタイムに彼の一挙手一投足が伝わってきていた。
「あまり気は進まないな……」
マリエッタと最も親交のある女幹部ポーメットが席に着く。
彼女はセレスティアからマリエッタを譲り受け、部下や彼女自身が鍛錬をつけることで手塩にかけて育ててきた。あの少女が最近暴走気味なのは知っていたが、こうして見せつけられるのは初めてになる。
もしかすると、自分の指導が間違っていたのだろうか。彼女へのケアや真摯に向き合う心が足りていなかったから、マリエッタはこうなってしまったのではないか。ポーメットは胸が詰まるような懺悔に襲われた。
ポーメットの他にも、ジアターの後頭部に根を回しているノウン、クレスも観戦している。合計五人の幹部が召喚獣の映像に釘付けであった。
「これジアター、あまり動くでない。わらわの管が抜けてしまうじゃろが」
「でっでも、くすぐったいんですよぉ~」
およそ三〇センチ小さいノウンにつつかれるジアター。二人は同じ一九歳ということもあって仲が良く、両者共に前線に出て戦えるタイプではないのも手伝って、二人で一緒にいる場面が多い。
そんな二人が少し戯れの雰囲気を醸し出す中、映像中のオクリーに動きがあった。
『…………』
やっとのことでケネス正教の一角・クレスに認められ、上機嫌に見える青年だったが、扉をノックする者が現れて微かに腰を浮かせる。真夜中の来訪者に顔が引き攣っていた。
『誰だ』
『あたしです、マリエッタです』
『何だ、マリエッタか。……驚かせるなよ』
腑抜けた言葉とは裏腹に、ひょっとしたら今一番来てほしくない奴が現れたんじゃという様子のオクリー。彼はそっと窓に手を掛けるが、外側から固められているせいでびくりともしない。
「済まないなオクリー。そこは施錠済みだ」
オクリーの絶望顔にズームアップする映像。彼の内心はどんなだろう。無慈悲にノックは続いた。
『どうしたんですか、オクリーさん。早く開けてください』
「可哀そうに……」
クレスの口から漏れる本音。事情が事情なので、彼の言葉を批判する者は誰もいなかった。
場面は変わって、オクリーの部屋にて。
(仕組まれたのか……!? マリエッタの地雷処理班に!)
今後、食人衝動とどう付き合っていこうかと考えていた時にコレだ。
用意された角部屋、隣の部屋にいたらしいマリエッタ、誰もが寝静まったタイミング。何もかもが仕組まれているではないか。
「マリエッタ、こんな真夜中に何故……」
『少しお話がしたくて』
「今、お腹が痛いんだ」
『……だめ、ですか……?』
「…………」
か細い声に抗うだけの真っ当な理由もなく、オクリーは躊躇いながらもドアノブに手をかけた。
そして、内鍵を解錠した瞬間、その音を聞いたマリエッタがドアノブを捻り、肩を押しつけるようにして全力で扉をこじ開けてくる。そして、オクリーが反射的に扉を閉じようとしたその間隙に爪先を捩じ込ませ、閉まる扉を強引に引き止めた。
「お邪魔しま〜す」
舌なめずりと共に扉の隙間をすり抜けるマリエッタ。オクリーは迷わず拳を振りかぶったが、一週間近く飯を抜かれていたために貧弱な一撃に終わる。返す一撃で床に押し倒され、オクリーは後頭部を強打した。
北東支部で理不尽なまでに厳しい訓練を耐え抜いたオクリー。記憶を取り戻した上で全力全開だったなら、今のマリエッタなんて相手にならないだろう。
しかし、森での出来事も含めて、彼は最善の状態で戦えたことがほとんどなかった。オクリーは浅い呼吸を繰り返しながら、強く打った頭部を庇うように背筋を丸めた。
――この執着心、パワー、不気味な薄ら寒さ。そうだ、何か既視感があると思ったら、スティーラ・ベルモンドに執着されていた時に感じた不快感と似ている。
北東支部で嫌というほど味わったあの恐怖が再燃しているかのようだ。オクリーは狂犬と化したマリエッタの熱に魘された瞳を睨みつけた。
「オクリーさん……オクリーさんっ」
「お、落ち着けよマリエッタ……。何のつもりだ……?」
「もう……我慢できないんですっ! あなたと話したくて……触れ合いたくて……ぶん殴りたくて……堪らないんです!!」
かつて、オクリーの隣には、捻じ曲がった性欲と殺人欲に支配された老爺がいた。オクリーは、その男が心底楽しそうにしていたことを、何故かこのタイミングで思い出していた。
「そ、そうか。なら一旦水でも飲んで、落ち着いてから話を――」
「できませぇぇん!!」
上体を大きく反らすマリエッタ。同時、パァンという破裂音。何故かは分からないが、少女の寝巻きの胸ボタンが弾け飛んでいた。
あまりの出来事に抵抗することを忘れてしまったオクリーは、絡みついてきた少女に背後から羽交い締めにされる。首を強く締め上げられ、瞬く間に酸欠状態に陥っていく。
「ごほっ!? ほっ、ほんとに落ち着け……!! 今のお前、マジでおかしいって……!!」
「何であたしがおかしくなったのか分かりますか……!?」
「も、元々……!」
「違うっ!! あなたのせいですよ!! ダスケルの街を滅ぼしたあなたが今更味方面してるのが気に食わなくて――でも、自分自身それを嬉しく思っているのが許せなくて――イライラしてるからですっ!!」
マリエッタはオクリーを取り巻く状況について、情報を整理する時間を与えられなかった。そればかりか、命の恩人が実は敵だった→しかも女幹部と深い仲だった→本当は味方だった……という驚愕のスパンを短い期間で味わっている。
一時は会って感謝したいという恋情に似たものを抱き、それが一転して困惑と殺意に転じ、最終的に頭の中をぐちゃぐちゃにされる――そんな感情のジェットコースターに揺さぶられたら、激しく混乱し暴れ出したくなるのも頷けた。
全てを知ったマリエッタとオクリーが二人きりになれる状況は、今宵が初めてである。溜めに溜め込んだ気持ちを爆散させるにはうってつけの夜だった。
しかして、マリエッタ暴走の理由を完璧に理解しているのは、この世界においてオクリーしかいない。また、少女の激情を鎮静するには時間を置くか発散させるしか方法がないとも理解していたオクリーは、抵抗虚しくベッドの上に転がされた。
割と本気で抵抗していたものの、弱体化した今の身体では、この少女に筋力や体幹で圧倒されてしまうことに気づいて抵抗をやめたのである。
少女の暴走を受け入れようという自省の気持ちもあった。深入りしたせいで彼女が暴走したとも言えるのだから。
ただ、彼女の暴走はあまりにも暴力的すぎた。
「あぁ、本当に、イライラします。……頭では理解できても、感情が納得してくれない……」
酸欠になったオクリーの腰の上に跨る茶髪の少女。想い人の寝巻きの胸ボタンをぷちぷちと一つずつ脱がせていき、傷だらけの上半身を露わにする。
自分で脱がせたというのに、マリエッタは少しだけ頬を赤らめて逡巡する。軋むベッド。何度か目を逸らしつつ、彼の逞しい上裸を横目で捉える。意を決した少女は、その肋骨の上に手を這わせ、軽く肌と肌を触れ合わせた。
そして、唐突に、オクリーの顔面を殴る。腰の捻りが加えられた一撃は、青年の意識を飛ばしかけた。
果たして少女は性行為に及びたいのか、暴力的行為によって憂さ晴らしをしたいのか。拳骨の痛みを噛み締める少女は、相反する二つの感情に揺れていた。
(今しかない。サレン様やポーメット様が来る前に殺すしかない。こんなチャンス、二度とないよ。……でも、オクリーさんと一つになれるチャンスも……今夜だけなんだ……)
結局、マリエッタは狭間で揺れていたが、性欲を優先した。
ギリギリのところで気絶せずに済んだオクリーは、突然優しくされて困惑する。そんな彼をよそに、少女は脳内で思い描いていた独り善がりな愛撫を平然と再開した。
冷えた少女の肌が、オクリーの体温と溶け合う。冷たいナイフのように、彼の肌へと食い込んでいく。
――ドクン。オクリーの心臓が高鳴る。いや、悲鳴を上げる。ヨアンヌから届く怒りと、スティーラによる食人衝動と、単純な恐怖によって、心臓が締め上げられるかのよう。
(こ、こんな、時に――スティーラの食人衝動が――……!! 苦しい――っ)
そんなオクリーとシンクロしてか、マリエッタは彼の胸に頬を擦り付けた。シーツを掴み、オクリーは爆発しそうな肉欲を嚥下する。舌を噛み切りそうな勢いで歯を食い縛り、目の前の少女を傷つけまいと拳を握り固めた。
暴れ狂う心臓の音を聞きながら、マリエッタはぽつりぽつりと続ける。
「……オクリーさんの行為が、遠い未来に評価されることは分かってるんです。教団を滅ぼすのに、あなたの存在はあまりにも有効すぎるから……」
「…………」
「――けど、ヨアンヌ・サガミクスと恋仲になる必要はあったんですかっ!!? それだけは絶対に必要なかった……!! 許せない!! チャンスを掴み取るのはあたしだったはずなのにっ!!」
あまりにも身勝手な暴走。文句をぶつけるべきはヨアンヌの方だというのに、マリエッタはオクリーに対して想いをぶつけていた。
ほとんど脱げていて、両腕を通しているだけのオクリーの服の襟首を掴んだマリエッタは、衣服ごと彼の身体を思いっ切り引き寄せた。
がつん、という音がして、二人の前歯が激突する。それが愛による行為なのか、怒りに任せた自暴自棄なのかは分からない。しかして、二人の唇は重なった。
「――っ!?」
キスの心地良さよりも先に鋭い痛みを感じたオクリーは、声にならない悲鳴を上げて上半身を仰け反らせる。ただ、少女の強引な愛撫は止まらない。
マリエッタの細く白い人差し指が、オクリーの正中線の傷痕をなぞる。蚯蚓脹れのようになったその部位はやけに敏感で、少女の繊細な動きを詳細に脳神経へ伝えていく。
次に、彼女の手持ち無沙汰な片手は、己の衣服のボタンへ。先程弾け飛んだボタンの残りを解き放って、己の双丘を隠す可憐な下着を曝け出した。
「……や、やった。あたし、オクリーさんと初めてのキスを……、……あれ……? ……あたし、何で……キスしたのに、やっとできたのに、こんなに満たされないの……?」
マリエッタが深紅の双眸を潤ませる中、オクリーの脳内にはヨアンヌの嫉妬と激怒が伝わっていた。今まで感じたことのない激情だ。きっと、次に会った時は激詰めされるんだろう。
そんな彼の内心を露知らず、マリエッタは揺れる自分の心に乱されている。目尻に溜まった透明な雫がゆっくりと膨らんで、つつ、と滑り落ちるようにして少女の頬を伝い――どうしようもない自分自身と非常な現実に対して、遂にその感情が決壊した。
「う、う……――うわああぁぁんっ、うあぁぁああ――……!!」
しとどに頬を濡らし、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくるマリエッタ。手首を押し付けるようにして何度も目元を拭い、呼吸を乱してしゃくり上げる。
泣きたいのはオクリーの方だ。いや、彼も半分泣いていた。
「……あたしの……あたしのオクリーさんが……ヨアンヌにぃぃ……うぅぅ、ひぐっ、許せない、意味が分からない、あたしの方が先だったのに、何で、どうしてぇぇ……キスしても満たされないの、わがんないよぉぉ……!!」
もはやその言葉が意味を成しているのかどうかも、オクリーには分からない。彼女が吐露する言葉も感情も、ひとつひとつを紐解けば理解はできるはずなのに、暴力と一緒に全てをぶつけられるから意味が分からない。
ヨアンヌやスティーラとはまた別の、明確に関わりたくないタイプの人間。己の与り知らぬところで感情を溜め込み、暴走気味に怒り狂い感情を発散しようとする。相手のことなんて知ったこっちゃなし。勝手に盛り上がって爆発するタイプの最上位系がマリエッタという少女だった。
どうして俺ばっかりこんな人間に取り囲まれるんだ。そんな涙を呑んだオクリーは、相変わらず歯を食い縛りながらマリエッタを宥めた。
これ以上盛り上がられると、本当に食欲が止まらなくなる。薄着のマリエッタの柔肌に歯を立てて、噛みちぎりたくなってしまう。
柔肌。そう、柔肉。男の身体のつくりと違って、基礎からして柔らかいつくりの、人の肉。愛おしい体温の塊。
ピンク色の筋肉と、白い脂肪と、黄色い組織液。早く食べたいなぁ。噛めば広がる香ばしい血の味。想像するだけで、じゅくじゅくと腹の底が熱くなってくる。
くぅ、誰かの腹が鳴った。
刹那、視界の端に、マリエッタの大きすぎず、かといって小さすぎない確かな存在感のある双丘が飛び込んできた。
オクリーは内なる怪物に唆されて一瞬だけ正気を失い、牙を剥いた。
「ぐすっ……、……っ!? きゃっ!」
スティーラが言うところの『果実を収穫』するため、オクリーは白目を剥きながら少女の下着をひん剥いた。
そして、たわわに実った柔な部位に向かって大口を開ける。
しかし、栄養失調状態にある今のオクリーは――マリエッタにとって赤子同然だった。
「――良いですよ」
そう言ったマリエッタに軽々と腰を持ち上げられ、体勢を転換させられる。
少女の胸を中心にして半回転したオクリーの身体は、最終的にマリエッタの膝を目掛けて着地して、横抱きのような姿勢になって制止した。
「しゃぶってください。そうすれば、何か分かるかもしれません……」
目の前にゆっくりと、まるで地球に接近する隕石の如く差し出される乳。
――猛烈な食人欲求を超える困惑がオクリーを襲った。
「……しゃぶる……?」
「ええ、しゃぶるんです」
「? ……いや、確かに……」
思考能力が低下したまま、結局胸をしゃぶらされる。
とてつもない甘味、美味が口の中いっぱいに広がった。甘い香りと、癖になりそうな女の子の汗の匂い。更にこれから歯を立ててしまえば、血と組織液の味が追加されると来た。そうなったら絶頂してしまうかもしれない。
女の乳を口に含んだだけで、脳内麻薬が弾ける。火花が散る。食欲。ヨアンヌの激怒。マリエッタを拒絶する気持ち。守りたい気持ち。覚悟による全力の抑制。全てが混ざり合って、心臓に全方位からの圧力が掛けられる。
人を食べてはいけない。一度女の子の味を知ったら、性欲と溶け合って止められない怪物に堕ちてしまう。己の本能を押し潰して、全身の末端に向かって全力の抑制信号を放つ。
舐めたい。味わいたい。舌の上で転がしたい。歯で磨り潰したい。壊したい。空前絶後の激痛と傷痕を彼女の身体に刻みつけて、永久に忘れられないようにしたい。泣き叫ぶ大切な人の姿を見て、罪悪感と官能に溺れたい。高層ビルの窓ガラス越しに地上を見下ろして、ここから飛び降りたらどうなってしまうのだろう――そう思ってしまう強迫観念じみた思考が止められない。そう、その侵入思考の行き着く先が、倒錯した性癖『食人欲求』なのだ。そんなことは分かっている。だが、極限の興味が止められない。
友人と言える関係性の少女を食べ尽くしてしまったら、次は誰にしよう、誰でこの倒錯感を味わおうかと考えてしまうに違いない。
この食人欲求は、単に味を楽しむだけのものではなく、その人と築いてきた関係性の破壊をも味わうものなのだ。
人は、してはいけないことほど、どうしてもやりたくなる。
その極致に、スティーラの影が立っていた。
少女に感情移入する。
汚染によってではなく、本心から彼女が理解できてくる。
スティーラ・ベルモンド。
彼女の混沌とした精神が解き明かされる。
――オクリーの脳内に流れ込んできたのは、猛吹雪の如き砂嵐に掻き消されそうな少女の過去だった。
極寒の冬に訪れた惨劇の記憶の欠片を、主観視点で追憶させられる。
権力者の家に生まれたスティーラは、一〇歳の頃、人生を激変させる出来事を味わった。一族が支配する街と地域に前代未聞の厳冬期が襲ってきたのである。
例年より遥かに前倒しで訪れた雪と氷の季節は、街に死を運んできだ。外部への連絡や通行が遮断され、食糧庫は春を待たずに底を尽きた。
数少ない動物や虫を食い尽くした後は、植物に白羽の矢が向けられた。まずは果実。その次は、木の根や樹木の皮、新芽。とにかく食べられそうな物は何でも食べた。
飢餓による危機感と怒りを募らせた人々は、権力者であるスティーラの一族にやり場のない憎悪を向けた。というのも、彼女達は城の中に引きこもり、以前とほぼ変わりない食生活を続けていたからだ。
こうなると両者の溝を埋めることはできず、やがて武器を取って立ち上がった民衆は、スティーラの一族を皆殺しにした。殺し合いは内輪すら巻き込んで拡大していき、スティーラの故郷は白い雪に埋もれていった。
殺し合いは生存者の激減によって、いつの間にか無くなっていた。冬季はまだ終わらない。
スティーラの視界に入り込んだオクリーは、彼女の家族の姿を見た。
空虚な城の中、痩せこけた女が語りかけてくる。
『私の可愛い妹よ、この冬を生き延びなさい。どんなことをしても良い。人の肉を食らってでも、生きるのです』
スティーラの姉だった。既に死んでいた母の遺体を前にして、スティーラは首を振る。
食べること自体への拒絶ではない。亡骸を食べてしまったら、食べるために焼いてしまったら、お母様が本当にいなくなってしまう、煙と一緒に昇っていってしまう――そんな形容しがたい恐れからだった。
『死んだら何になると言うの。生きなさい。生きるために喰らいなさい、スティーラ』
尊敬する姉に言われて、少女は人の肉に手をつけた。人以外の食料が無くなってしまったその日――人を食べることでしか生を繋げられなくなったその時――少女の心は硝子細工の如く、密かに、しかし確かに壊れてしまったのだ。
意を決したその瞬間の激情がオクリーの中枢に流れ込む。遥かなる絶望から始まり、己の精神を守るために喜びを感じさせられるまでを追体験させられる。
人を食べることによって、その者の人となりを理解できるようになった。それが耐え難い快楽であると信じ込まなければ、一〇歳の少女はその冬を生き残れなかった。
演技や思い込みによって作られた仮面の人格は、いつの間にか自我を侵食して本物に成り代わってしまう。生き残るために食人の道を選んだ少女は、本物の食人鬼になった。
家族の死肉を貪った。尊敬する姉の亡骸も喰らい尽くした。生き残るためとはいえ、己の手で血の繋がった親類を食べなければいけなかった。この絶望が誰に分かるのだろう。
生きるためには仕方ないという自己正当化、同じ人間を食べることへの拒絶感、良心の呵責――その末に、スティーラの感情は破壊されたのだ。
そして、破壊されても尚、無意識下にある正気が苦しみの声を上げていた。
罪悪感と正当化の複雑な混合。一瞬の快楽と、その後に訪れる夜の海のような暗闇。人を喰らうことが精神に猛毒だと知っていても、摂取を抑えられない。徹底的な矛盾と哀しさを孕んだ少女の精神こそが、スティーラの異常性の根源であった。
「――っ!!」
そのままオクリーは現実に戻ってくる。
嘔気。胃の中がひっくり返る。
少女の胸から離れた唇から、銀の橋が掛かっていた。
「っあ、……っ! はあっ、はあっ――……!!?」
全身に激痛のようなものが走って、オクリーは正気に戻ってきた。彼の脳が発令した最後の警告だったのかもしれない。
とにかく、おしゃぶりをやめたオクリーは、口端を拭いながらマリエッタの両肩を掴んだ。
おしゃぶり、否、胸の愛撫の後は、もう一度キスだろうか。
良いですよ。あたし、おかしくなったみたいです。あなたに全てを捧げます。
そんなマリエッタの幻想を打ち砕く言葉が彼の口から飛び出した。
「こっ――これだ! 無敵の要塞スティーラ・ベルモンドを攻略するきっかけはここにあったんだっ!!」
「――はぇ?」
少女は素っ頓狂な声を上げる。青年はそんな彼女を差し置いて、両の拳を握り固めた。
――スティーラに極限まで感情移入し、刹那的に一体化することで、オクリーは混沌たる怪物の精神を解き明かした。
その結論が、スティーラ・ベルモンドの攻略に繋がった。
(あの子は『収穫』の時……人を食う時に必ず恍惚として隙を晒していた。それは単に食事を楽しんでいるからじゃなく、彼女を食人に走らせた過去のせいだったんだ……)
日常生活で押し殺している感情を食人の際に解き放たなければ、少女の精神は崩壊していたのだ。
形容するならば、それは放熱のようなもの。
あの少女が人を食べた後に心の底から悦びに打ち震えるのは、そうしなければ生きていけないからだ。彼女の壊れかかった精神が無意識下で捌け口を求めていて、その放熱行為が『食人』だった。最低最悪の過去を思い出し、超絶的な快楽を齎したあの冬を振り返り、己の手で親類を食べ尽くしたという原罪で己に鞭を振るわなければ、少女の精神は崩壊してしまう。
それ故に、少女は歪な形で食人に拘るようになったのだ。純粋な美食家ではなく、過去に取り残された一人の子供として。
そして、そんな精神を持っているが故に――魔法の性質も少女の魂に応えたのだろう。
吸収と放射。
無意識下に溜め込んだ混沌と、精神安定のための放熱。
少女を攻略する鍵は、彼女の生き様そのものに在った。
「スティーラ……」
何故か、涙が込み上げた。
食人鬼という記号だったスティーラが、人間としての温もりを帯びる。
悲しい、哀れ、そんな陳腐な言葉では到底形容できぬ脱力感と申し訳なさがオクリーの全身を襲った。
――あの少女もまた、ヨアンヌと同じように、本気で知ろうとしていれば、分かり合えたかもしれなかったのだ。
それが失敗に終わり、新たな怪物を生み出したとしても。
相互理解の片鱗は感じられたはずなのだ。
様々な理論をこじつけながら、スティーラがオクリーを食することを躊躇っていたこと。
後で『収穫』すると言いながら、オクリーを守護していたこと。
決定的なラインをギリギリのところで超えなかったこと。
精神汚染によって弾けた食人衝動が、意気消沈して死を待つだけだったオクリーを突き動かし、ドルドン神父の指を食い千切るに至らせ――結果的にオクリーを救ったこと。
そんなスティーラの歪な思いやりこそ、少女と分かり合えたかもしれない希望の証左だったのだ。
だが、もう遅い。彼女と歩む未来は閉ざされてしまっている。
(スティーラは精神の不安定さに付け入る隙がある。……あの子を理解した俺だからこそ、やれることがある……)
スティーラ・ベルモンドの食人習性と惨劇の過去を利用すれば、身に纏った防御結界を突破して彼女を殺害することができるはずだ。スティーラの心を掌握しているのは、彼女自身と、アーロス・ホークアイと、彼女の食人衝動と共感できるオクリーだけなのだから。
かつてヨアンヌが提案してくれた『スティーラ攻略作戦』が現実味を帯びてくる。少女の習性を深く理解できたからこその歓喜である。
(でも、ひとつ分からないことがある。スティーラがアーロスに感化された理由だ)
この少女がアーロスに傾倒した理由は何だろう? 単にアーロスに救われたから、という理由付けでは弱い気がした。
そもそも、少女は何をしたい?
本当にアーロスによる『国盗り』で理想の世界を創造したいのか?
過去から現在に至るまで、何かが足りなかった。
スティーラ自身が、核となる記憶を封じ込めてしまったのだろう。オクリーは冬を超えた後の映像を一切見ていない。
だから、分からない。あと一歩のところで、何かが掴めなかった。
(――くそっ! ……――こんな時に、ドルドン神父が生きてくれていたら……スティーラに金玉がついてたら……或いは……!)
オクリーはドルドン神父が持つ奇蹟の内容に薄々気づいていた。恐らくは相手の過去や心象風景を覗き見る能力だ。ただし、対象の睾丸に触れた時限定。そこまで看破していたからこそ、彼の死を悔やんだ。
――そして、その感情を汲み取ったヨアンヌが、突如として湧き上がった『スティーラ攻略』の糸口を勝手に手繰り寄せた。
(おいおい、面白いことになってきたなオクリー! ――だが、ドルドンは金玉に触れないと記憶を読み取ることができないはずだ)
さっきまでは小娘にいい様に扱われていたオクリーに激怒していたのに、スティーラ殺害の希望が見えた瞬間にこれである。
というのも、ヨアンヌの計画で最大級の壁となるのは、どう考えてもスティーラ・ベルモンドの突出した戦闘能力だったからだ。
正教の最高指導者サレンや邪教の教祖アーロスも無敵に近い能力をしているが、スティーラの『物理反射』の防御結界をヨアンヌが突破するのはほとんど不可能。
それこそ、サレンやアーロスに勝利する以上に難しい――少なくともヨアンヌがそう思ってしまう程度には、スティーラを邪魔者だと思っていたのだ。
ヨアンヌは四角く折り畳まれたドルドンに語りかける。
「おいドルドン。オマエ、女の記憶を読み取ることはできるのか?」
「試したこともない」
「……やっぱり金玉がトリガーなのか?」
「うむ。指を挿入しても無駄に終わるだろうて」
「そうか……」
「……? 何じゃ? ワシに股間をまさぐって欲しかったのか?」
「黙れ」
「素直に言えば黙ってしてやったものを……」
「死ね」
アレックスは「これどういう会話っすか?」と弱々しい声で呟いた。
結局、ヨアンヌ一行はアーロスの金玉に拘り続ける必要がありそうだ。
一方、『闇に住まう亡霊』でオクリーとマリエッタを監視していた正教幹部は、二人のカオスっぷりに置いていかれていた。
「さ、サレンしゃん、この人達は何をしてるんですかぁ?」
「私に聞くな」
「オレにも聞くなよ?」
「ひぃん……」
見事に寝技を決めたマリエッタと、突然苦しげに呻き出したオクリー。殴って言うことを聞かせる屑な男のように激情をチラつかせ、結局マリエッタは己の乳房をオクリーに吸わせてしまった。そんな一部始終を見て正教幹部達は暴走したマリエッタの恐ろしさを知ったわけだが、何故かオクリーの評価も下がりつつある。
「女の乳房を吸った後に言うセリフか? これが……」
「わらわ達の尺度では測れぬ男なのだろうな、良くも悪くも」
「マリエッタちゃんもオクリーさんも何か怖いですぅ……」
議論が巻き起こる。ポーメットは絶句していた。
思っていたのと全く違う方向へ向かっていった映像は、血走った目で肩を揺さぶるオクリーと、上裸で放心するマリエッタを映して途切れた。
深夜零時からマリエッタの乳首を四時間吸い続けた男は、夜明けを目の当たりにして満面の笑みを零すのだった。
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