九〇話 裏返った希望の戦士
聖都サスフェクト、その中心部に佇む最大最古の教会にて。
ケネス正教が誇る五人の幹部に加え、組織の上層部が一堂に会していた。
「……序列二位さんは相変わらず留守か」
ポーメットが苛立ちの籠った表情で零す。オクリーの生殺与奪を判断するためには最高指導者のサレン・デピュティさえ出席していれば問題はなかったが……最近の序列二位はいくら何でも欠席が続きすぎである。
メタシムやダスケルを襲撃された時、セレスティアが行方不明になった時、そして聖都サスフェクトが危機に陥ろうかという今でさえ欠席。ポーメットが公然と愚痴を言うのも無理ないことだった。
「奴が欠席にしているのも理由がある」
「……そうですね」
「では会議を始めよう。ポーメット、ノウン、経緯を話してくれ」
ポーメットとノウンが顔を合わせる。基本的にはポーメットが中心となって、幹部や上層部をほぼ総動員で集めた理由を話した。
オクリー・マーキュリーという邪教徒の存在。セレスティアの行方。聖遺物『天の心鏡』の情報漏洩と、それを利用したアーロスの野望……。
「以上が概要です。今回はオクリー・マーキュリーを生かすか殺すかの判断を皆に仰ぎたく思い、招集をかけた次第です」
ポーメットが着席する。円卓に集った十数名の要人達は、互いに顔を見合せながら、最終的には最高指導者サレンの顔色を窺うことに至った。
前代未聞の出来事ゆえ、明瞭な判断に倦ねた彼らだったが――それに対するサレンの回答は、あまりにも短時間で打ち出された。
「殺せば良いではないか」
その決断はあまりにも早かった。彼女の声を受けて教会には喧騒が流れ、侃侃諤諤の議論が巻き起こった。
若干オクリーの側に立って証言したポーメットに同調した者達は、判断を早まるなと慎重な構えを取って反論する。
「お待ちくださいサレン様。ポーメット様の話が真実であれば、まだまだ彼は情報を持っているはず。利用価値はあるかと」
「そうですよ! もし本当に内通者となってくれるのであれば、これほど有難いことはない! これまでに送り込んだ諜報員と違って邪教幹部からの信頼も厚く、上手く立ち回らせれば敵を撹乱できること間違いなしでしょう!」
オクリー存命派の幹部は、ポーメット、ノウン、ジアターの三名。それに加えて、ゲルイド神聖国における魔法研究の責任者エクセル、聖遺物研究の責任者イャング、ローウェイ神父の合計六名だ。
言ってしまえば新情報に対してやや安直すぎるというべきか、オクリーの発言を信じすぎとも言うべきか――そんな存命派に反対し、サレンの意見に追随する者も当然多くいた。
「いいや、彼を生かす必要なんてない。拠点に案内してやるなどという発言も、我が身可愛さに飛び出た戯言だ。我々を騙そうとしているに違いない」
処刑派の幹部は、サレンとクレスの二名。正規軍大隊長のアギラオと、副長のオーフェルス。対邪教徒部隊隊長のルツイン、防衛開発の責任者ケニャハ。合計六名が即刻処刑すべしとの考えである。
語気を強めて発言するのは、ゲルイド神聖国正規軍大隊長のアラギオ。彼は過去の事例を持ち出して存命派に喝を入れた。
「奴らはあの手この手で我らを煙に巻いてきた。金銭による買収、夜伽による取り入り、諜報員の暗躍。嘘が奴らの武器なのです。まさか、邪教徒のことを話の通じる人間と思っているわけではありますまいな」
最前線で邪教徒の悪趣味さや狡猾さを体験してきた彼は、震えんばかりの感情を込めて静かに言い放つ。オクリー処刑に反対していた者達も、そう言われてしまっては立つ瀬がない。存命派の皆は静まり返った。
だが、会議場に訪れた沈黙を悟って、ルツインは己の言葉を改めた。冷静ではなかった、と。
「……いえ、今の話は前提でしたな。誰もが邪教徒のことを快く思っていない……その上で、オクリーを生かすべきか殺すべきか、ポーメット様やノウン様の情報をもとに冷静に判断しよう――それがこの円卓会議の意味でございました。大変失礼、冷静さを欠いてしまったようです」
耳の横を指で引っ掻きながら、素直に己の非を認めるルツイン。謝罪後も彼の意見は変わらず処刑派であったが、彼の言葉によって全員に一体感が生まれることとなる。
それは、この会議が己の意見を押し通すためのものではなく、国が正しい選択をするための話し合いだと改めて理解できたからだ。感情のぶつけ合いではなく建設的な会話があちこちで起こり、一二人の間に心地よい議論が巻き起こった。
「私は処刑派ですが、たんに殺せと申しているわけではない」と防衛開発の責任者ケニャハ。
「と言うと?」
「防衛兵器の実験体として有効に扱うのです。私の部下も『邪教徒の身体はいくつあっても足らないくらいですよ』と声を上げております。エクセルさんのところもそうでしょう?」
防衛開発責任者のケニャハは、彼の処刑方法を実験チームに一任してほしいということだった。すかさず、話を振られた魔法研究の責任者エクセルが返す。
「内々に行われる処理では、民の溜飲を下げることはできんでしょう。オクリーという大罪人を公然の場で処刑することに意味があるのです」
正規軍大隊長のアギラオと副長のオーフェルスが更に付け加える。
「貴重な実験体だが、エクセルさんの言う通り公然の場で処刑する方が良いだろう。そうなったらの話だが」
「これは例え話なんですけど、オクリーが腹の中に邪教幹部の肉片を隠し持っていて、召喚のタイミングを窺っている可能性すらありますよね。指の欠損はフェイクって感じで。オクリーの過去を思えば、その危険性を一番に考えるべきでは?」
処刑派の意見は頑強で筋が通っていて、崩しどころがない。
何故か処刑派のケニャハが「そうですかぁ……貴重な実験体が……でも納得ですねぇ……」と大層残念そうに萎れていたが、ペースは終始オクリー処刑の風向きである。
改めて多数決を行ったところ、存命派はポーメットとノウンとローウェイの三名を残すのみとなった。
ポーメットとノウンは、皆の冷静かつ一般的な意見を聞いて歯がゆい思いをしていた。下手に賭けに出ることはせず、粛々とオクリーを処刑するのが正解のように思えてしまう。
(皆の意見は全くもって正しい。大それたことを言うでもなく、感情で押し切ろうとするわけでもなく。純然たる事実と、彼らの行動特性から見られる危険性を議論してくれている)
――だが、それではダメなのだ。ポーメットは皆を説得する言葉を捻り出そうと思考を高速回転させる。
彼の邪教に対する情報には、何かこう『芯』があった。ただ単に見聞きしてきた情報などではなく、もっと包括的で俯瞰的に捉えたような感じがしたのである。まるで、見知った領域から有力な情報だけを抽出してきたような……そんな澱みない語り口調だった。
彼の濁流の如き情報の中に、重要な言葉はなかったか。全てが鮮烈で重要な機密情報だった故、逆に目当てのモノが埋もれている。そんな気がした。
しかし、この場は九対三。もはや話は決着したかとサレンに注目が集まる。彼女は小さく息を吐いた後、軽く議論の内容を引用しつつ纏めを始めた。
「持ちうる情報は全て話し終えたと彼は言った。街の魔法防衛機能を無視して幹部を召喚される危険性もある。以上の理由から生かしておく必要もないと思うが、皆はどうだね?」
誰もが顔を見合わせる。処刑反対派の顔色は難色を示していたが、納得はできる結末であろうとサレンは判断する。
「彼の情報は速やかに書類ベースで格納し、今後の諜報活動と合わせて精査すれば問題もないだろう。オクリーが真に邪教の破壊を目論んでいたかは、未来で知ることになるが――」
「サレン様、お待ちください!」
「ローウェイ神父、まだ何か」
「このような背景を持つ邪教徒の話は滅多に聞かれません。オクリーは幹部の右腕なのでしょう? 彼奴の行く末は全会一致での決定にしたいと思っているのですが、いかかがです?」
「……今になって言い出すのは卑怯かと思うが、一理ある」
「サレン様、それは」
「良いのだアギラオ。この場に集まった者達は軍事部門や魔法部門の責任者達……聖職者たる神父は意見しづらかったことだろう。貴重な意見だ。私も全会一致は悪くない意見と思うが、皆は?」
この場に集いし者達は、究極的に言えばオクリーの生死はどうでも良いのだ。国を良き方向へ導けるのなら、どちらでも良い。それならば徹底的に議論を交わし、全会一致で後腐れない結果を導こうではないか。
サレンやローウェイはそう思い決断にクッションを設けたのだ。そして神父はこう付け加えた。
「どのような結果になるとしても、儂としては邪教徒オクリーをひと目見ないことにはどうにも納得できませんな。これは民と話してきた職業柄やもしれませぬが……」
「なるほど。殺すにしても、確かに顔は見てみたい」
ローウェイ神父の一言によって話の流れが変わる。
こうして会議は一時中断となり、彼らは地下空間に閉じ込められたオクリーと話をしに行くことになった。
彼の拘束場所は聖都サスフェクトの地下奥深く。例えば捕縛した邪教徒が幹部の肉を所持していた時、『転送』されても被害が軽微で済むように――と地盤を掘り抜いて地下深層に造られた施設の中にある。
閉所故に防衛兵器が数多設置されており、迷い込んだが最後、最強の盾を持つスティーラさえ食らい尽くす堅牢なトラップが待ち構える。オクリーの居場所はその最深部。新設されてから未だに使用されたことのない特等席だった。
「こんな空間が街の地下に。初めて入りましたぞ」
「神父の方はそうでしょうね。ここに立ち入れる者はほんのひと握りです」
昇降機によって地下へと降りていく一二人。ノウンの植物や防衛兵器の横を抜けて、しばらく歩いた先にその部屋はあった。
植物と鋼鉄が入り交じった特殊な扉。何重もの施錠を解き、扉を押し開く。先陣を切ったサレンは、初めてオクリーという青年を目の当たりにした。
「…………」
目隠しをされ、猿轡を嵌められ、耳栓をつけられ、四肢に拘束を施され、ミイラの如き状態になった人影。
素肌は全くと言っていいほど見えず、一瞥しただけでは性別すら分からない。
そんな窮屈な緊縛をされているのに、彼はじっと呼吸を繰り返して、暴れることもなく眠っていた。
いや、眠っているように見えて、扉の開閉による空気の変化を肌で感じて微かに反応したのが分かった。
サレンは長い両腕に不死鳥の炎を宿らせて警戒する。彼は起きている。もし変な動きをしたら、治癒すら許さぬ業火の炎で消し炭にしてやる。サレンは命じた。
「目と耳と口だけを自由にしてやれ。話がしたい」
「分かりました」
対邪教徒部隊隊長のルツインはゆっくりと拘束を解いていく。正教幹部を除けばゲルイド神聖国内でも最高クラスの対人戦闘能力と経験があるルツインですら、彼の拘束を解いていくのは非常に緊張するようであった。
オクリーの周囲を取り囲む五人の幹部。各々が魔法の片鱗を覗かせる。そんな一触即発の状況で、彼は顔の拘束具を剥がされた。
「っ……」
天井の照明に目を細めるオクリー。次の瞬間、彼は己を取り囲むように集結した五人の幹部と正教上層部を見て、あっと声を上げた。
「さ、サレン……デピュティか?」
「どうも。貴様の上司が世話になっている」
「……何の用だ」
「話をしに来た。貴様を殺すか否か、ここで判断する」
「! ……そうか。そんな気はしてたが、凄い面子が集まってるな」
軽い調子で話すオクリーとサレン。ポーメットは搾り出すようにして言った。
「オクリー、以前ワタシとノウンに話したことを、もう一度皆に話してほしい」
「それは構わないが」
オクリーと話して味わった感覚。邪教の機密情報に対する見識の深さから受ける違和感を、この場にいる者達にも直接的に知ってほしいのだ。
あの時は的確な質問をできなかったが、今は多くの知識人がいる。それで彼を生かしておくことの重要性を理解してもらえたなら、運命が変わるかもしれない。
語られるオクリーの過去。以前語った時とはまた違う言葉も付け加えられて、その詳細が明かされる。これにはサレンや軍事部門の責任者達も違和感を覚えたらしく、やや表情に変化が見られた。
普通、全ての情報を語った敵兵の末路なんて言うまでもない。最前線に送られて戦死するか、実験台にされて死ぬか、すぐに殺されるか。とにかく生きて帰ることは絶対に不可能だ。
だが、そんな常識を根底からひっくり返すような魅力が彼にはあった。
サレンやその他の者の質問に澱みなく答えた上、それどころか質問の先のことまで教えてくれたのである。
例えば、正教が欲してやまない情報――七人の邪教幹部の能力詳細。具体的な射程や攻撃力、真に迫った攻略方法の提案までしてくれた。
しかも、サレンの圧倒的火力と特性で轢き殺すと言った力押しの手段ではなく、正教幹部一人ひとりの能力を考慮した上での攻略方を伝授してくれるほど。その方法も限定的状況が多いとはいえ、思いもよらぬ光明には変わりなかった。
短期的な情報源としての使い道だけではない。手元に置いておくことで、情報戦の優位を取れてしまうのではないか――そう思わされてしまうほど、オクリーの持つ知識量はこの場の誰よりも圧倒的だった。
幹部以外の者達も、彼の異様さをいよいよ肌で感じ始める。この男は危険だ。むしろ、彼のことを良く知れば知るほど、殺さなければならないのではないかとさえ思えてくる。
「ポーメット、ノウン。君達の言いたかったことはこれか」
「そうじゃ。やはり実際に目にせんと分からぬこともあるゆえ……ローウェイ神父の鶴の一声が無ければ納得して貰えぬところじゃった」
「皆、私は意見を変えるぞ。この男の処刑は保留としたい。……他の者はどうする?」
サレンはあっさりと意見を転換させる。邪教徒をかなり敵対的に見ていた他の者達もすっかり感化され、意見を転じさせた。
これでオクリー処刑派は一人もいなくなり、彼の存命がひとまずは確定したのであった。
☆
聖都サスフェクトに連れてこられたオクリーの対応が決まるまで、マリエッタは彼の周辺から隔絶されていた。
ポーメット曰く、マリエッタはオクリーのことになると冷静さを失いすぎる、とのこと。それ自体は自覚していたのだが、やはり彼の生存をかけた会議に関われないのは身を切られるような思いだった。
鬱屈とした彼女の精神は限界寸前である。それ故に、心の支えとなっているオクリーの存在は重要であった。
マリエッタはずっと、自分は生きてちゃいけない人間なんだと仄かに思っていた。
自身を必要としてくれる人間がいて、たまに生きていて楽しかったり嬉しかったりすることがあっても、心の最深部に広がる深い海は、ずっと暗くて後ろめたい絶望で満たされていた。
メタシムやダスケルで体験した生き地獄が網膜に焼き付いている。夜が来て、孤独になると、もうダメだった。明確な姿のない明日が本当に怖くて、嫌で。物理的な痛みを伴うのは怖くてできないから、無意味に夜更かしをして自分を精神的に傷つけた。言いようもなく胸が苦しくなって、きゅっと締めつけられて、呼吸が浅くなった。
死ぬのは怖いけれど、あの日死んだ方が良かったんじゃないかと。そう考えてから、命を賭して護ってくれたアルフィーのことを頭に思い浮かべて、心の底から後悔する。
自分を逃がそうとした両親。近所のおじさんや友達。アルフィー。みんな死んでしまった。目の前で炎に巻かれ、或いは生きたまま貪り食われ、鼓膜が張り裂けんばかりの絶叫を振り絞って、もがき苦しみながら死んでいった。
そう。みんな死んでしまった。生き残ったのは自分だけ。
ごめんなさい。あたしは生き残るべきじゃなかった。アルフィー、あなたがいてくれたら。
我らの主よ、どうかこの苦しみを拭ってください。死にたいけれど、死にたくはないのです。
たまに辛そうな顔をしていると、同僚がこう言うのです。辛くなったら逃げれば良いよ、と。
でも、そんなのはまやかしです。役目から逃げられるわけがありません。命を賭して繋いでくれたこの命を、無駄に使うことなどできないのです。
それを、逃げろだなんて……簡単に言ってくれるものです。
逃げられないから苦しんでいると言うのに。
「……………………」
夜は眠れない。誰かの死に顔が見える。恨み言が聞こえる。孤独になる自室はむしろ、一番の絶望を叩きつけられる場所だった。
マリエッタには好きな人がいる。それは世話になっているポーメットであったり、行方不明になっているセレスティアであったり、苦楽を共にする同僚であったり、命の恩人であるオクリーであったり……彼女は周囲の人々のことを心から愛していた。
そこに向けられる気持ちは本当だ。たまの『楽しい』『嬉しい』も、心の底からそう思っていた。それに関しては、本当に生きていてよかったと思えていた。
しかし、大切な人の一人であるオクリーを奪われてしまったら、微かな元気なんて根こそぎ持っていかれてしまう。もう立ち上がれなくなる。たとえ彼の正体が邪教徒であっても、だ。
彼はどん底の日々の中で輝く英雄だった。自分も彼のようになれたら――とマリエッタ自身を鼓舞する精神安定剤でもあった。
セレスティアが行方不明になった――つまり邪教徒に何らかの方法で拘束された――と知らされた時、マリエッタは初めて自死について考えた。あの時の衝撃が再び襲ってくるとしたら、耐えられる気がしない。
彼は心の支えのひとつに過ぎなかったが、彼への想いはどうしようもなく依存は加速していた。
オクリーの処遇が決まったわけでもないのに、突如として死にたくなる。本当に死にたいわけではないが、ベッドから飛び跳ねるようにして起き上がって、鏡の前に立つ。そして、鏡の中の自分に「殺してやる」と呟いた。
自分が考えるよりも遥かに悲壮で、哀れで、疲れ切った小さな少女がそこにいた。
(死にたくない……)
自室の壁や天井がいつの間にか狭まってくるような、最後の砦だった心の中がめちゃくちゃに荒らされてしまうような、どうしようもない絶望は、全ての問題を解決するか死ぬことでしか解消されない。
でも、その問題を解決することは不可能なのだ。希望的観測による「できる」なんてまやかしの言葉は通用しない、膨大すぎる時間と奇跡が積み重ならないと……この苦しみは拭えない。
生きることの苦痛に耐えかねて自殺した同僚がいる。死に顔は浮腫じみて変形し、現場は悪臭と汚物で塗れて凄惨を極めたと言う。そんなになってまで、死にたかったらしい。
「――普通の幸せ……誰も苦しむことのない……温かな光に満ちた陽だまりのような……子供の頃の思い出のような日常が欲しい……」
彼は誰よりも優しかった。優しい人間ほど早死する。アルフィーも、両親も、同僚も、早々と死んでしまった。可哀想だ。自分もそっちに行きたいよ。でも、どれだけの勇気を振り絞れば……?
「――戦争なんて。人が軽々しく殺される戦いなんて。……大嫌いだ」
理由もなく溢れ出す涙。ぱたぱたと音を立てて、裸足の上に滴り落ちる。その音さえ虚しくて、圧倒的な孤独感と空虚感を連想させた。
マリエッタは毎晩のように祈り、自戒し、神に縋った。
(括り縄、痕になったらやだ。飛び降り、怖い。焼死、長いかも。服毒、これも苦しそう。兵士の剣……はそういうことに使うものじゃない。……痛みも恐怖もなく……なんて、きっと無理なんだろうな。でも、そんなことのために勇気を持っているわけじゃないのに)
布団を被って、枕を抱き締めて、暗闇に隠れ、全身を襲う不安と絶望に駆られて疲れ切って、いつの間にか眠っている。
朝になると、大抵気分は晴れやかになっていた。身支度をして自室を出ようと扉に手をかける時、重い重い何かに後ろ髪を引かれる。
“お前は次期正教幹部になる優秀な兵士、マリエッタだ”
“仮面を被れ”
――そうだ。我が名はマリエッタ・ヴァリエール。生の苦しみと死の恐怖に囚われた民を救うため、因果によって選ばれた。あの悲劇から一人生き残った。役目を全うすることは、自分を救うことと同義である。
脈打つ影の部分を己の内側に押し留めて、震える手に力を込める。勇気なんて大層なモノはない。もう頑張りたくないな、でももっと頑張らないといけないな、苦しむ人を助けたいな、美味しいものを食べたいな、ぐっすり眠れたらいいな、かわいい服を着たいな――いつだって、そんな気持ちの群勢がせめぎ合っている。
いつだったか、憎しみに駆られて邪教徒の全滅を願った。ケネス正教の兵士に志願し、ここまで腕っ節ひとつでのし上がった。あの頃の燃えるような熱はどこに行ったのだろう。
もう修羅はいない。何故だろう。自分は何も変わっていないはずなのだ。故郷でつくった人間関係を彷彿とさせる新たな人間に囲まれたせいで、もう一度喪ってしまうのではないかという恐れに囚われているのだろうか。
ドアノブを捻った彼女は、負の激情が湧いてきませんようにと祈りながら、今日も任務につく。
彼女は抑え切れぬ心の闇と戦っている。
だが、この戦いに終わりはない。明確な勝利はなく、『死』という明瞭な敗北の結末だけはよく見える。
耐え忍ぶだけの現状維持。限界を振り切って生きてきた一般人の精神はとうに焼き切れ、いつ壊れるかも分からない道を真っ直ぐに突き進んでいる。
しかし、彼女は決定的な破滅には陥らない。
根本の性質が『優しさ』に溢れているから。
己の希死念慮に絶望はしても、その闇を観察し、分析し、そっと隣に置くことで、ギリギリのところで共存を可能とした。
そして、この絶望を民に味わせてたまるものかと精神を振り絞って生きている。
マリエッタは壊れているが、まだ動けた。
しかして、心の拠り所であるオクリーの生死によっては――もう二度と動けなくなるだろう。
(我らを守護してくれる存在は天上のあなた様ですが……この等身大の苦しみを分かち合えるのは、同じ存在である隣人しかいないのですね)
子供の頃の、幸せの絶頂にいた自分が見ている。過去のメタシムで、アルフィーや家族と共に、今の自分を見ている。
今ここで命を絶てば、あの頃の輝きすら思い出せなくなってしまう。
だから生きるのだ。
「オクリーさん……」
彼のことを思い浮かべ、そっと心の中に留める。
彼の処遇はいつ決まるのだろう。今はそれが気がかりだ。
オクリーが処刑されることになったら、この手で首を刎ねてあげよう。大好きなあの人を他人に殺されるなんて耐えられない。そして、あの人を殺したら後は自分も……。
マリエッタは幻の刃を己の頸に突きつける。
(いいや、ダメだ……あたしは多少みんなに期待されている。よりにもよって自殺なんて、みんなに余計な重石を背負わせてしまう……)
その刃は括り縄に姿を変え、少女の眼前にぶらりと吊り下がった。
想い人を抱き寄せるように、括り縄を首元へ引き寄せる。
「オクリーさん……生きて……一緒にいたいよ……」
死という名の終焉も、オクリーという名の青年も、彼女にとっては等しく救いのように思えている。
でも、ここまで追い込まれて、みっともなく大声で泣き喚いて正気を失いかけても、生きていたい。そして、大切な人に死んでほしくないだけなのだ。
本当は人殺しもしたくない。色々なことを経験して、喜び悲しみを味わってきたつもりだが、それでもたった十余年の人生しか経験していないのだ。今まで死んでいった人間、殺してきた人間には、それ以上の年輪が刻まれていたはずだ。
人を殺してはならない。そんな簡単なことに気づくのに、どれだけ苦しんだのだろう。
正教徒も邪教徒も同じ人間だ。互いを苦しめるために生まれたわけじゃなくて、幸せになるために生まれてきたはずなのに――何故、同じ苦しみを分かち合う者同士で、殺し合いなんかしているのだ。
どちらか一方を絶滅させるまで、この戦いは本当に終わらないのだろうか。
「オクリーさんのことだけじゃなくて……アーロス寺院教団のことも、もっと知りたい」
その後、マリエッタの元に報せが届く。
オクリーの処刑が中止されたという一報だった。
少女は喜びのあまりぴょんぴょん飛び跳ねて、オクリーの元へと走った。
「オクリーさん――オクリーさんっ」
会える。やっと会えるのだ。
その顔に触りたい。問いかけたい。話したい。一先ずは生存の喜びを伝えるため、ぎゅっと抱き締めてあげたい。そのまま引き寄せて、お尻を触りたい。
湯気渦巻く風呂場で目撃したあの臀部。引き締まっていて、肉付きの良く、えくぼのような窪みのある尻だ。揉みしだきしたい。
久々の笑顔が宿る。マリエッタは走った。
そして、サレン・デピュティに会い、アーロス寺院教団のことを聞いてみようと思うのだった。
 




