八二話 甘くて退廃的な誘惑
ドルドン神父とマリエッタが何故か肩を並べ始めたのを見て、ヨアンヌは溜め息を吐きながら首を捻った。
どんな実力者が団結しようとも、一般人と選ばれし者達の間にある圧倒的な戦力差は覆すことなどできない。実力者であればあるほどその圧倒的な差が埋めがたいことを知っているはずなのに、何故二人は戦いを挑もうとしているのだろう。ヨアンヌは少しだけ不思議に思った。
ドルドン神父は訓練された一般兵一〇人を相手取っても勝てるほどの実力を誇り、マリエッタに至っては一般兵二〇人程度なら容易く跳ね返せるほどの剣の使い手だが、それは剣の技術や筋力などの基礎によって積み上げられた実力だ。
脇の下、内腿、首などの太い血管が通っている部位を切り裂き、防具の隙間を突いて内臓を傷つけるための剣技は、それらの致命傷を一瞬で治癒可能な怪物達には何の脅威にもならない技術だった。
フアンキロなどの非戦闘員ならまだ戦いになるだろうが、圧倒的な体力差があるためジリ貧だろう。
二人がフアンキロと戦っても、良くて五分。ヨアンヌのような武闘派の能力を有する者にとっては、マリエッタもドルドン神父も有象無象でしかなかった。
「アタシはオクリーを説得しに来ただけだ。戦う気はないよ」
ヨアンヌがこの地に『転送』してきた理由はひとつ。オクリー本来の記憶が戻ってきたのをいち早く察知し、セレスティアに関する情報を使ってケネス正教に身売りしようとしていた彼を引き止めるためだ。
ヨアンヌからすれば、ケネス正教もアーロス寺院教団も近い将来絶滅させる予定ではあるが、『聖遺物』を巡るこの戦いにおいてはアーロス寺院教団に勝利してもらわなければ些か都合が悪かった。
人工的な孕み袋から誕生したオクリーは、培養器に移され特殊な薬品によって急激に成長させられてきた。誕生からたった数日で肉体年齢一〇歳になるまで激変させられているため、普通の人間と比べてオクリーの身体の内側は既にボロボロだった。
更に、肉体の急成長に精神面が追いつかないので、数ヶ月をかけた大量の投薬で無理矢理に自我を形成させられている。そのため、肉体細胞はもちろん、脳などの内臓に至っても、通常では考えられないほどの細胞劣化や異常増殖が始まろうとしていた。
孕み袋から産まれ落ちた個体の平均寿命は、肉体年齢で見て三〇歳。現在のオクリーの肉体年齢は一九歳であり、平均値に基づくのなら残りの人生はそう長くない。
しかも、オクリーは数々の猟奇的行為によって肉体組織を著しく傷つけられている。彼の寿命はすぐそこまで迫っていると言ってもおかしくなかった。
オクリーの残り少ない余命を引き伸ばし、二人きりの『小さな世界』を創造するためにも『聖遺物』は必ず奪取しなければならない。身売りしようとするオクリーを脅してでも引き止め、差し迫る『幻夜聖祭』で計画を完璧に実行するのだ。
ヨアンヌにしてみれば、この場にいるマリエッタやドルドン神父は二の次の存在だった。必要なのはオクリーを聖都サスフェクトに送り届けて計画を実行させること。まあ、ドルドン神父は路銀を保証してくれるらしいが、身ぐるみを剥いでしまえば金が出てくるので殺害しても構わないだろう。
実際のところ、戦う気がないというのは真っ赤な嘘である。オクリーを誑かしたゴミ共を逃がしてやる気はさらさらなかった。
「オクリーさんを返せ、化け物め……」
「化け物? アタシは普通の女の子だが?」
あくまで煽られたからしょうがなく、という体で立ち上がるヨアンヌ。オクリーの髪をくしゃりと撫でて彼を解放しようとしたところ、ふと自分が素っ裸であることに気づく。少女は婀娜な身体を隠すため、息を切らしたオクリーの耳元で甘い声を発した。
「ね、オクリー。その服貸して?」
「…………」
注ぎ込むような口づけによる酸欠状態で満足に思考することもできないオクリーは、壊れた人形のように首を縦に振る。その反応に満足そうな表情を浮かべたヨアンヌは、ほとんど強制的にオクリーの上着を剥ぎ取った。
少女は水を弾くかの如き白い肢体をいじらしく隠す。想い人の香りに包まれて目をとろんとさせたヨアンヌは、脳を蕩けさせるような恍惚にしばらく浸った後、余っていた袖を肘の辺りまで捲って戦闘態勢に入った。
一枚だけ羽織った服は、太陽の光を通すことでヨアンヌの身体の曲線美を薄らと透かせていた。身体の前面で留められるようなボタンや引っかかりが存在しないので、豊満な双丘で形作られた谷間が遮蔽されることなく曝け出される。下着の類も『転送』の際に置いてきてしまったため、風が吹く度に服の裾が揺れて危うい部分まで見えそうになっていた。
その抜けるような白い肌と相まって、今のヨアンヌは透明感に溢れた絶世の美少女と言っても過言ではない雰囲気である。何も知らない者が見れば間違いなく見惚れてしまうであろうその姿だったが、正対している者が同性のマリエッタと特殊性癖を持つドルドン神父だったため、視覚誘導のような効果は起こらなかった。
どちらかと言えば、マリエッタもドルドン神父もオクリーの服を彼シャツ同然の状態で羽織っていることに対して怒りを感じていた。二人の双眸には凄まじい怒りの光が灯り、ヨアンヌに対する睥睨がいっそう強くなっていく。
戦いが火蓋を切ろうかというその時、正気を取り戻したオクリーが背後から抱き着くようにしてヨアンヌの動きを封じ込めた。
「……オクリー、そういうのはまた後でな」
「謀りましたねヨアンヌ様……。ドルドン神父が目の前にいる時ならまだしも、ケネス正教の兵士であるマリエッタが到着した瞬間を見計らって――私の立場が邪教徒側で決定的になる瞬間を待って、マリエッタに目撃してもらうために『転送』して来たのでしょう?」
「…………」
少女の小さな体躯を後ろから抱き込むオクリー。二人が膠着したのを見て、ドルドン神父は懐に忍ばせていた爆薬をいつでも起爆できるよう火打石と共に取り出した。
オクリーとヨアンヌが何を話しているかは聞き取れなかったが、悪魔のような少女が気を取られているうちにワンチャンスを狙いに行く。ドルドン神父はマリエッタの背中を小突くと、懐に忍ばせた爆弾を密かに見せびらかして切り札の存在を共有した。
マリエッタは「いつの間にそんな爆弾を」とぞっとしたような表情になる。
もしヨアンヌが現れず神父と直接戦闘をすることになっていたら、不意を突かれて爆殺されていたかもしれない。一瞬で真顔に戻ったマリエッタは、ヨアンヌを挟み込むように陣形を整え始めた。
オクリーに抱き締められたヨアンヌは、数ヶ月ぶりの温もりを改めて確かめるようにそっと手を繋ぐ。怪物の瞳は再会の感動で少しだけ涙を貯めており、これまで会えなかった寂しさを埋めるようにオクリーの腕の中にその身を預けた。
「そうだよオクリー。アタシはオマエの味方だけど、今のオマエの企みだけは阻止しなきゃいけなかった。……オクリーがケネス正教の人間を救いに行く気持ちは分かる。だけど、彼らを救ったところでオクリーは長生きできないよ。アーロス寺院教団に所属する人間を赦してくれるヤツなんてこの世界には存在しないんだ」
「……それでも、やらなくちゃいけないんです。分かってくださいヨアンヌ様」
「大好きな人がむざむざ死んでいくのを黙って見てろとでも言うのか? そんなの……嫌だよ。オマエが居なくなったら……アタシ……どうすればいいんだ? どうやって生きていけばいいんだ?」
記憶が戻っても、たとえ愛し合っていても、その道は決定的に交わらない。唇をぎゅっと噛み締めたヨアンヌは、己の身を包み込む彼の左手を強く強く握り締める。
オクリーは彼女の手を拒否しなかった。拒絶しようとすれば、いくらでも突き放すことができるはずなのに。オクリーの欠けた薬指を埋めるように、ヨアンヌはその手に頬擦りした。
「……こっちを向いてくれよ、オクリー。一緒に行こうよ。世界中の人間全てを殺して、二人だけの世界を作るんだ。独善的でも退廃的でも良いじゃないか。大好きな人同士で時間も忘れて愛し合って……気持ちいいことだけをして……辛いことなんてしなくていい……ぼんやりとした暖かい光の中にあるみたいな……幸せで溺れてしまうような理想郷が欲しくはないのか……? アーロス寺院教団の運命から解放されて、ケネス正教や世界中からの怨念を引き受けることもない……二人だけの『小さな世界』がさ……」
「…………」
「もしアタシに協力してくれるのなら、あの二人を殺した後一緒に拠点に帰ろう。アーロス様にお願いして、移動要塞計画を他の人間に代わってもらうんだ。なに、これまでのオマエの働きを考えれば、アーロス様は功労者としてオマエを労わってくれるはずだ。拠点に帰った後、オマエはアタシの体温に溶かされているだけでいい。辛いことから目を逸らしていい。もう二度と痛い目に遭うこともない。アタシの部屋でご飯を食べて、たまに散歩して、夜はぐっすり寝て、やりたいことだけをやって、そんな風に『小さな世界』が生まれる日を待つ生活をして良いんだ。……今の世界の苦しい部分は、アタシが全部肩代わりするから……」
細い吐息。期待のあまり上擦って、掠れてしまった声。青年の両腕に抱かれながら顔を上げると、オクリーは真っ直ぐな瞳で少女の双眸を見返してきた。
――やはり、青年の心は揺るがない。
否、彼女の言葉は彼の心に深い亀裂を走らせていた。この理不尽な世界を全て敵に回してまで己を愛してくれる少女のことを、本心から幸せにしてあげたいと思いつつも、やはり叶えられぬ望みだと苦渋の決断を下していたのだ。
ヨアンヌは、自分の言葉が相手の心に響いたことを理解した上で、説得することはできないと心で理解した。オクリーと深淵で心を通わせる少女は、その結末を知っていたかのように身体中の力を抜く。
本当は知っていた。お互いの臓器を交換し、自我による精神汚染の対話で敗北していた時から、彼の信念を曲げることは敵わないのだと。芯の強さでは、どこか一枚だけオクリーの方が上手だった。
(……言い合いになった時、負けてばっかりだなあ……アタシ……)
もしオクリーと出会わずにいたら、こんな痛みは知らないで済んだだろう。アーロスのために働ける満足感と血肉躍る戦いに揉まれ、それはそれで満たされた日々だったはずだ。
それでも、こんなに胸の中が苦しくても、彼と出会い、そして彼と分かり合えずに苦しんでいる今の方が遥かに幸せだと思ってしまうのは何故だろう。
「……分かっていたさ。オクリーがそういうヤツだって」
「私達は戦う運命なのです、ヨアンヌ様」
「そんな悲しい運命、アタシはお断りだ」
「……交渉は決裂ですね。私はケネス正教のためにこの身を売り、セレスティアの洗脳を解放するべく動きます。どうか止めないでくださいね」
「オマエの試みは失敗するよ。残念ながらな」
ヨアンヌは草を踏みつける裸足にほんの少しだけ力を入れ、小さく背伸びした後、オクリーと別れのキスをした。
その口づけを合図に、殺意を纏ったマリエッタとドルドン神父が飛びかかった。




