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八一話 愛のバミューダトライアングルSOS


 突如として現れた見知らぬ少女の正体を即時に見破ったのは、先んじてオクリーから話を聞いていたドルドン神父だった。アーロス寺院教団幹部の姿は目にしたこともなかったが、オクリーの左手薬指から『転送』されてきた彼女の様子を見ればすぐに分かった。

 愛しい人を見下ろす狂気的な瞳の輝き。オクリーを逃さないようにしかと後頭部を押さえつけ、息すらつかせずに舌を舐り貪るその様子。そして、ドルドン神父やマリエッタの目の前で相思相愛っぷりを見せつけるような勝ち誇った流し目。その憎たらしい態度がドルドン神父に直感させたのだ。


(あれが邪教の大幹部ヨアンヌ・サガミクスか……! ワシがあれほど手こずっていた双方合意のキスをいとも容易く……!)


 ふつふつと煮え滾る嫉妬の炎を抑えつけて、ドルドン神父は思考を高速回転させた。

 まず、ヨアンヌに絡め取られたオクリーを取り戻せる可能性を探る。恐らくゼロだ。そして、ヨアンヌから逃げられる可能性もまた限りなくゼロに近い。


 ただ、オクリーと共に街を飛び出してからのドルドン神父は死を覚悟して行動してきた。彼の目的は死ぬまでにオクリーとの恋愛を成就させること。死ぬタイミングが少し早まっただけで、やることは変わりなかった。

 オクリーのために行動し、残りの人生を彼のために使う――ピュアな乙女心に基づいた彼の行動原理は、絶望的な存在ヨアンヌ・サガミクスを前にしても決して揺るがなかった。


 翻って、ドルドン神父と一触即発の雰囲気になっていたマリエッタは、剣の柄を握り潰しかけるほど動揺していた。想い人であり命の恩人が、不意に現れた裸の美少女とキスをしているのだ――年頃の彼女にしてみれば天地がひっくり返ったかの如き絶望だった。

 オクリーを(そそのか)し連れ去ったドルドン神父に対する激情よりも遥かに粘質な激情がふつふつと沸き上がる。強烈な咬合力で奥歯を噛砕したマリエッタは、敗残兵のような覚束無い足取りで一歩前に踏み出した。


「おい……お前(・・)……あたしのオクリーさんに何をしている……?」


 マリエッタは瞳孔を極限まで引き絞り、側頭部に悍ましいばかりの青筋を立てながらオクリーの元へと歩いていく。

 そんな少女の肩を掴んでしかと引き止める手があった。ドルドン神父である。


「ドルドン神父、離してください。あの女を殺さないと気が済まないです」

「マリエッタ、一度落ち着いて話を聞きたまえ」

「……?」

「ワシとて君と同じ気持ちだよ。しかし、世の中にはどうしても逆らえぬ存在がいる。国、権力者、そしてケネス正教やアーロス寺院教団の大幹部がそれ(・・)だ。これからの立ち居振る舞いによっては、君の人生が容易く終わってしまうぞ」


 マリエッタの肩を掴むドルドン神父の手は震えていた。恐怖によるものか、想い人と泥棒猫の逢瀬を目の当たりにした怒りなのか、それは定かではないが――ドルドン神父の額に浮かんだ脂汗を見たマリエッタは、この老爺が冗談で引き止めているわけではないと察してしまう。

 今のドルドン神父は、正教幹部ポーメットを前にした教会での仕草と同じ――いや、それ以上の反応を示している。あの時のドルドン神父は過去ひた隠しにしてきた犯行の数々を暴かれまいと普段の冷静さを若干失っていたが、今の反応は円卓での態度よりも遥かに動揺が色濃く滲み出ていた。


「君がどこまで知っているかは知らないが、あの女こそアーロス寺院教団幹部序列六位……大幹部ヨアンヌ・サガミクスその人だ」

「……!!」


 マリエッタは驚愕に目を見開く。ドルドン神父が口にした名前は、自分の所属しているケネス正教軍部でも最大級の警戒対象として名前を挙げられる人物だったからだ。

 アーロス寺院教団が誇る七人の大幹部の一人、ヨアンヌ・サガミクス。魔法のような異能は持ち合わせないが、随一の怪力と射程数十キロに及ぶ精密な投擲能力、遠方に飛び散ったほんの微かな残滓からでも復活可能な治癒魔法によって、正教幹部との戦いを幾度も生き残ってきた女傑である。


 マリエッタにとって、その名は邪教幹部の中でも特に覚えのある名前だった。メタシムの街から救ってくれた恩人のセレスティアから、何度も拳を交わしてきた宿敵であると聞いていたからだ。現在行方不明となっているセレスティアを何らかの方法で敵方の陣営に繋ぎ止めているのも、ヨアンヌが一枚噛んでいると言われるほど因縁の深い相手であった。


 しかし、そのヨアンヌが何故オクリーとキスをしているのか。マリエッタにはそれがよく分からなかった。


(……ポーメット様は仰っていた。オクリーさんの証言場所から死体が見つかった時点で、ドルドン神父の黒はほぼ確定的だと思っていいって。でも、オクリーさんに対してはやはり邪教徒とは思えないとも仰っていて……)


 ――オクリーとドルドン神父がサテルの街から逃亡した後、ポーメットはオクリーの証言していた路地裏を探索して男性の変死体を発見した。

 そこでポーメットは、オクリーの「ドルドン神父は過去に少年一九人を殺害している」という延長線上の発言が信憑性を帯びたことに思い当たった。少年達の遺体や犯行の証拠については別件の調査案件として機関に依頼をしており、ドルドン神父の黒はポーメットの中で確定的なものとなった。


 正教の女騎士が思考を進めていくと、オクリーの発言と対になるドルドン神父の発言――「オクリーは邪教徒である」というはっきりとした主張が妙に引っかかり始めた。

 しかして、オクリーは邪教幹部の攻撃から救ってくれたことがある。マリエッタも、彼の黒手袋は古傷を隠すためのものだと言っていた。彼を邪教徒と疑ってしまうのは何とも可哀想な話ではないか。


 正教幹部に邪教徒と疑われていたという噂が広まれば、その者が社会的地位を失うことも有り得る。

 そう思ってオクリーのことを忘れようとしていたポーメットだったが、様々な事象が絡んで彼のことを忘れられなかった。勘が騒いでいた。


 ポーメットはマリエッタに命令を出した。逃亡したドルドン神父とオクリーに話を聞いてみたい、と。元より青年を追うつもり満々だった少女は二つ返事で任務を受け、聖都サスフェクトへ向かった二人の行方を追った。排除の対象であった盗賊団の亡骸に群がる魔獣を蹴散らし、マリエッタは彼らの痕跡を追い求めた。

 そして今日――少女は想い人を見つけ出したのだ。あまりにも最悪なタイミングで。


 ――マリエッタは混乱していた。マリエッタはオクリーの全裸姿を見たことがある。少女の網膜に焼き付けられた彼の裸には何ら異常は無かったはずだ。

 華奢だが筋肉のついた全身、むしゃぶりつきたくなるような色気の首筋、風呂場の熱気で水滴を抱えた鎖骨、男性らしく大きな肩幅、喉仏から腹筋までを一刀両断する古傷、えくぼのような凹みを持つお尻――今思い出しても異常な部分は何もなかった。この目で見たのだから。

 そう、彼の左手の黒手袋だって、古傷を隠すためのもので――


(……あれ? もしかしてあたし……左手の指までは確認してない?)


 少女は口を押さえて息を呑む。……湯気の中に揺らめく彼の裸に見蕩れて、詳細を見落とした? 全体像を捉えていただけで、左手を確認したと思い込んでいただけ?

 マリエッタは軍の出身であり、ポーメットから様々な情報を聞き出していた。当然メタシムやダスケル崩壊の過程について詳細に教えてもらっているし、『転送』による奇襲によってダスケルが滅んだことも知っている。


 見落としていた左手の指に幹部の指を仕込んでいて、まさに今、オクリーがヨアンヌ・サガミクスを『転送』させたとでも言うのか。詳しい『転送』の手段は予想もつかなかったが、指を移植して隠し持つのは非常に合理的かつ簡単な方法だ。

 自分がオクリーの指について見落としていたと考える方が、現在の状況に納得できてしまう。マリエッタの動悸は波打つように不安定さを増し、より激しくなった。


 むしろ、オクリーが邪教徒でなければ、ヨアンヌがこの場にいて、彼に唇を落としている理由に説明がつかない。次第にドルドン神父の言わんとする現実が形を帯びてきて、マリエッタは大きく震え始めた。

 想い人であり命の恩人である青年が敵だったなんて現実が信じられない。信じたくなかった。家族も親友も故郷も失ったマリエッタは、オクリーの存在だけが精神の拠り所だったのだ。


「……オクリーさんが……アーロス寺院教団の一員だった……?」


 マリエッタはドルドン神父に手で制されながら、呆然と呟いた。自分で口にしてみて、更なる絶望が胸の内に叩きつけられる。思い込みという名の土台の上に積み上げた砂の城があっという間に崩れ落ちていく。

 どれだけ強く否定しようとしても、自分の中の冷静な部分が『転送』の事実を強く肯定していた。薬指の部分から生えてきた少女を目の当たりにして、否定できる材料を完全に喪失していた。


「嘘だ」


 マリエッタは完全に混乱していた。様々な思考が一緒くたに脳内で撹拌されている上、それを何ひとつとして把握できていない状態であった。嘘だ、信じたくない、夢であってくれ、そんな否定の叫び声が更なる昏迷となり、頭の中の収集がつかなくなっている。

 オクリーに向けられていた依存に似た恋情が穿たれ、軋むような音を立てて反転していく。絶望の街で見上げた彼の姿が黒く塗り潰され、彼との再会を心から喜んでいた己の後ろ姿が酷く滑稽なものに映った。マリエッタの両肩に膨大な憎悪が覆い被さり、居座っていた愛情のほとんどが蹴散らされていく。


「…………」


 表情の抜け落ちた茶髪の少女に悪辣な嘲笑を向けるヨアンヌ。彼女は息切れして意識を飛ばしそうになっているオクリーをその柔な胸に掻き抱きながら、マリエッタに対して決定的な一言を発した。


「なぁオマエ、聞かせてくれないか? 意中の彼に素敵な彼女がいて、しかもその男の正体が敵だった時の気持ちをさぁ――」


 何も知らなかった哀れな少女に向けられた、勝ち誇ったような言葉。マリエッタはその言葉を耳にした瞬間、全身の表面が沸騰したかのような激情に襲われた。

 マリエッタはヨアンヌに何もかも負けていた。容姿、女としての魅力、オクリーの理解度、権力、生き様……。ヨアンヌの全身から発されるギラギラとした生命力に圧倒されていた。薄らと理解する。ヨアンヌはオクリーのために全てを投げ打てる少女なのだと。


 マリエッタの思考を怒涛の如く支配したのは、憤怒と表現するにはあまりにも激烈でどす黒い怒りだった。裏切られたことに対する軽蔑と憎悪、獣のような少女への圧倒的な敗北感、想い人を独り占めする彼女への羨望、嫉妬、敵愾心、懐疑、自己嫌悪……。

 ――それでも拭えない、まだ彼のことを好きでいてしまう真っ直ぐな恋心と依存の気持ち。この恋心を一切かなぐり捨ててしまうのは、心を抉られるように切なくて、考えるだけでも涙が止まらなくなりそうだった。


「オクリーさん、嘘ですよね? 本当は邪教徒に利用されているだけで、何の罪もない一般人なんですよね? だってあなたは記憶を失っていて……アーロス寺院教団のこともケネス正教のことも知らなかったじゃないですか……」


 目の前に見えているものを信じられないわけではない。しかし、今まで見てきたオクリーの行動が嘘とも思えない。愛憎と疑念が渦巻く中、マリエッタは全力の厭悪をヨアンヌに向けた。

 今はオクリーの正体を確かめたい気持ちよりも、これまでの関係全てを破壊したヨアンヌに対する殺意が上回った。こいつさえ現れなければ、ずっと夢を見られていたかもしれないのに。この女が壊したのだ。オクリーとの蜜月も、その先に夢見た景色も。


 ――巡り巡って、マリエッタとドルドン神父の行動原理が合致する。


「ドルドン神父……力を貸してください。あなたのことは大嫌いですが、この女をブチ殺すためには力を借りないわけにもいかないんですよ……」

「じゅるる、そう言ってくれると思っていたよ。ワシも君のことは大嫌いだが、ここは一時休戦としようじゃないか」


 オクリー(・・・・)マーキュリー(・・・・・・)()取り戻す(・・・・)


 ヨアンヌ・サガミクスに彼の生殺与奪を握らせてはならない。ドルドン神父は、あくまで彼自身が選んだ道に進んでもらいたかった。オクリー自身が選択した道ならば、最終的に彼が生きようと死のうと構わない。正体が何であろうと構わない。

 だが、ヨアンヌに捻じ曲げられて選択を強制されている姿は見ていられなかった。


(人生最後の伴侶となるに相応しい男が、たかが(・・・)邪教幹部の小娘(・・・・・・・)に振り回されるだと? 有り得ぬ。笑止千万。彼の人生は彼のものだ)


 ヨアンヌとオクリーの間にどれほどの関係があろうとも、人生の岐路に立ち、その選択に葛藤する彼の心に寄り添えなかった少女が今更出しゃばってくるのは許し難かった。ドルドンにしてみれば、ヨアンヌの暴力的すぎる幹部の能力は、オクリーの決意を濁らせる邪魔な要素でしかなかった。

 あくまでオクリー自身の意志で人生を決定してもらうため、ヨアンヌと戦う。それがドルドン神父なりの愛だった。


 マリエッタは、ヨアンヌ・サガミクスに彼の所有権を奪われたままでは気が済まなかった。彼は自分を助けてくれた王子様だ。その正体が何であろうと、話を聞きたい。ヨアンヌは彼との会話を妨げる邪魔者でしかなかった。


(オクリーさん、あたしとお話ししましょう。もし邪教徒じゃなかったら、あなたをあたしのモノにします。二度と邪教徒に利用されないよう、ずっと傍で見守ってあげます。……仮にオクリーさんが邪教徒だったとしても、沢山お話した後、あたしがちゃんと殺してあげますから)


 ケネス正教の兵士であるマリエッタにしてみれば、ヨアンヌはドルドン神父以上に相容れない敵である。今後の国のことを思えば、いずれにせよその首を打ち取る他ない。

 己の内側に残留する恋心と、家族や友人の仇に対するどうしようもなく晴れない怨嗟が混ざり合い、マリエッタの心に混沌とした影を落とす。恋と憎悪の行く末を知るためにヨアンヌと戦う。それが今のマリエッタなりの愛だった。


 ドルドン神父とマリエッタ。

 犯罪者と正義の執行者。

 二人の相反する存在が『愛』を自覚したその瞬間、初めて彼らの道は重なり合った。


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