七六話 盤面は変わりゆく
オクリーの邪教徒バレが偶然にも一旦回避できたとはいえ、命の危機を脱するという根本的な危機からは脱出していない。
ポーメットがこの場にいる限りは常に正体判明のリスクを背負ってしまうし、ドルドン神父がいる限りは直接的に命を狙われる。アレックスの胃が休まる暇など無かった。
オクリーにとっての希望は、突如として都合よく現れた謎の金髪坊主。気が動転していて、オクリーは以前彼と出会っていた記憶をすっかり忘却してしまっていたが……オクリーにとっては彼が救世主のように見えていた。
(……ところで、この金髪坊主は本当に誰なんだ!? 教えてくれオクリー君、君は何をしようとしている!?)
ドルドン神父にとってもアレックスは救世主じみた存在だったが、彼らの本質は決して交わらぬ水と油。あくまで自分一人の快楽を追求しようとする神父と、混沌に堕ちていく世界を見て傍観者特有の愉悦を味わおうとする金髪坊主は、性格がどこか似通っているからこそ誰よりも相容れない。
言うなれば、ドルドン神父は純粋なサイコパスで、アレックスは混迷を追い求める道化師。行動原理は歪んだ欲求の解消という共通事項だが、彼らを『この場限りの協力関係』とするにはバックボーンがあまりにも混沌としすぎていた。
この場の舵を取れるのは、傍観者であったアレックスと、圧倒的な権力者であるポーメットだけ。円卓の空席に手をついた金髪坊主は、周囲の状況をぐるりと一望しながら腰を落とした。
この場にいる全員の立場・思考回路の行く先を利用しなければ、最大の課題『オクリーを生き延びさせる』をクリアできない。まさか監視側からプレイヤーの立場に引き摺り出されることになるとは思ってもみなかったが……今振り返れば、この場を収めるためにはオクリーの手が最善手であったように思える。
(……さて、また盤面が変わったわけっすけど……この場所で一番可哀想なのはマリエッタちゃんっすね。分かりやすいくらいオクリー先輩に好意ありまくりだったのに、当の本人が変態神父に尻尾フリフリしちゃうんすから。ははっ、あの唖然呆然とした顔! 頭ん中ぐちゃぐちゃなんだろうな〜)
目元に暗い影を落としたマリエッタに吹き出しそうになっていると、先程より剣呑な雰囲気になったポーメットが口を開いた。
「……ワタシの名前はポーメット・ヨースター。名前を教えていただいても?」
「あ〜、そうっすよね。自分の名前はレクスと言うっす」
当然の如く適当な偽名を口にするアレックス。この場で確定した真実はこうだ。オクリー、ドルドン神父、レクスが教会内で淫らな行為に及び、その果てに偶然ポーメットとマリエッタが到着した……言うなれば、三人の主張に穴はあるが、ポーメット側の審問じみた行為は行き過ぎていると言える状況である。
「自分、昔ケネス正教に迫害されていた民族の生き残りっすよ」
アレックスは己の身分を適当にでっち上げる。相手がゲルイド神聖国における最高権力者の一人であったために、「有名商会の人間だ」などという中途半端な嘘はバレてしまう。彼なりに念入りなフェイクを入れた虚実を告げたのだが、効果は覿面だった。
過去、ケネス正教が排他してきた民族――意図的にせよ、結果的にそうなってしまったものにしても――は数多存在する。正義感や公平を重んずる性格のポーメットにピンポイントで刺さる物言いだった。
幸運にも助けられていた。アレックスは邪教徒内でもある程度の実力者だったが、表に出てこなかったためにポーメットの記憶に引っ掛からなかったのだ。
金髪碧眼の騎士は申し訳なさと驚愕の入り交じった微妙な顔をすると、腕を組んで口を開かなくなってしまった。同性同士で淫らな行為を行っていたというのも、女性であるポーメットからしてみれば追い風だった。
(先輩、神父、自分の名誉を地の底に落とす代わりに、三人の命を救えたっすね。しかも左手の秘密をバラさずに済んだわけっすから、聖都サスフェクト襲撃作戦は継続確定。これはヨアンヌ様もアーロス様もお喜びになられるっすよ〜。……う〜ん、どうやったらもっと面白くなるっすかね?)
盤面の外から見守るだけだったアレックスは、自分が盤上に立ったことを何か別のことに活かしたいと考えていた。彼の視線の先には茫然自失とする茶髪の少女――マリエッタがいた。
彼女はまさに混乱の最中にある。自分一人を頼ってくれるはずだった恩人は聖職者を庇い、悪趣味を自ら打ち明けた。神父の清楚潔白とした印象も完璧に崩れ去った。彼女の頭の中は虚実と真実が入り交じってパンク状態にあった。
(マリエッタ・ヴァリエール。この女は確実に面白さのタネっす。何せ世界で一番邪教徒を憎んでいるのに、オクリー先輩に想いを寄せてるんすからね!)
マリエッタは今なお煮え滾るような怨嗟とトラウマを抱えている。その心の傷を埋めるべくオクリーに依存しているのだから、アレックスにしてみれば笑い草だった。
(この子がオクリー先輩の正体を知って絶望する瞬間……その激情の振れ幅を増大させるためには、彼女をもっとオクリー先輩に依存させる他ないっすね。ただ、今はそんな余裕ないし、どうせ勝手に依存を深めていくから放置しても良いと思うっす。隙を見てとっとと逃げるに限るっすよ)
アレックスは話し合いが完全終了した雰囲気を感じ取って、腰を浮かせながらいつでも逃げられるように機会を待った。
ポーメットは決着のついてしまった円卓から立ち上がり、マリエッタに向けて「帰るぞ」と切り出した。茶髪の少女はまだ議論すべきことがあると言いたげに首を振る。
「……まっ、待ってくださいポーメット様! まだ話し合いを続けるべきですよ! だって……有り得ないことが多すぎて……こんなの……」
「マリエッタ、行くぞ。人の趣味をとやかく言うべきではないし、そういった秘密の詮索は避けるべきだよ」
ポーメットはドルドン神父を睨みつけながら円卓の部屋を後にする。女騎士はオクリーの真に迫った証言に対して確信に似た感情を抱いていた。だが、アレックスが現れてしまったため、彼女はこの場では何もできない。
……実際にはオクリーやドルドン神父を殺すことなど容易いのだが、サテルの街で大変評判な神父を何の理由も無く殺すことは体裁上不可能に近かった。
逆に言えば、聖職者を吊るし上げられるだけの理由を説明できる客観的証拠を用意できたなら――ドルドン神父に罪を与えることも可能だと言うこと。
ドルドン神父に対する疑惑を調べ上げるため、ポーメットは早速動き出す。
(色々と混乱してしまうが、ワタシはオクリーの発言が見過ごせなかった。『二〇人近い少年を殺害した』『遺族の男性が今日殺された』などと具体性を帯びすぎていた。全てが嘘というわけではないはずだ……)
まだ冷静さを取り戻せていないマリエッタが、少し遅れて教会から出てくる。ポーメットは「すまない。風呂には一人で行ってくれないか」と言い残して中央広場の石畳を蹴りつけた。
「それじゃあ、お休みマリエッタ。また明日」
「えっ? ちょっと、待っ――!」
掻き消されるマリエッタの声。地面を蹴った反動で軽々と屋根上に飛び乗ったポーメットは、超高速で駆け抜けながら証言のあった路地裏を虱潰しに探し始めた。
置いてきぼりにされたマリエッタは、こんな気持ちで風呂場に迎えるはずもなく途方に暮れた。
(……オクリーさんがあの金髪坊主や神父と褥を共にしていた? そんなの嘘だ。絶対嘘だ。気持ち悪い。キモチワルイ、キモチワルイ、キモチワルイ……あたしのオクリーさんはそんなことしない。絶対に。だってあたしのオクリーさんは王子様だもん。……王子様? とにかく、納得いかない。神父やあの坊主が唆したに違いない。あぁ、イライラする。そうに決まってる――間違いないよ――)
重い音を立てて閉まった教会の扉へと向き直るマリエッタ。彼女は一切の音を消しながら、再び教会の内側へと侵入した。
その頃、ドルドン神父はポーメットの反応を見て彼女の考えをいち早く悟っていた。ポーメットはオクリーの発言の真偽を確かめるため、路地裏を探索し始めたのだろう。遺族の男の死体は廃棄物の山の中に押し込んできたが、この調子ではすぐにバレてしまう。
五分後にでも逃げ出そう。殺しがバレたもしもの時のために夜逃げの準備は整えている。神父は懐に隠していたナイフを取り出し、その切っ先をアレックスとオクリーに向けた。
「……レクス君。君はオクリー君とグルみたいじゃのう」
「…………」
オクリーとアレックスは顔を見合わせる。ドルドン神父にしてみれば、アレックスは突然現れた都合の良すぎる素性不明の男。アレックスはポーメット以上に底の知れない不気味な存在だった。
ドルドン神父はアレックスに「全てを知られている」と仮定した上で、様々な仮説を脳内で組み立てていた。その一つの有力説が、『アレックスはオクリーの補佐役である』という予想だ。
(ワシが目撃したオクリー君の左手は確実に邪教徒由来のモノだった。しかし彼は自分が邪教徒であることを本当に知らないのだ。であれば、突然現れたこの男こそ本来の意味での刺客……邪教教祖アーロスの意思を体現する人間なのだ!)
そして、その予想は見事に的中していた。波状の如く押し寄せるピンチに失笑しながら、アレックスは肩を竦めた。
「自分この人とは何も関係ないっすよ。金目の物ないかな〜って思い立ってドロボーしようとしただけなんで」
「そんなはずは……」
「それよりも、ただのドロボーに貴重な貴重な時間を使ってもいいんすか? 神父にとって今日の選択は今後の人生を揺るがす岐路になるっすよ。……確かお二人は聖都サスフェクトに行く口約束をしてたっすよね?」
邪教の駒アレックスと正教幹部ポーメットを天秤にかけた時、神父の背中に重くのしかかってくるのは後者だった。アレックスの示唆する通りにしておいた方が賢明だと悟ったドルドン神父は、彼を見逃すことにした。
(この数日でこんなにも美味そうな男子二人と出会ってしまうとは……つくづくワシの人生は晩成型だ)
ドルドン神父はオクリーを引き連れて裏口から脱出し、小さな厩舎で飼っていた馬に跨った。ドルドン神父は己の聖職者たる立場を捨て、今後の人生を逃亡生活の中で過ごすことに決めたのだ。
だが、今この瞬間にも、ドルドン神父は生きる意味を見出していた。追われる恐怖よりも、惚れた男子のために生きられることに歓喜したのだ。
オクリーの手には爆弾がある。故に彼を犯すことも殺すことも叶わない。彼に危害を加えた瞬間、邪教幹部という名の『死』が飛んでくるのだから。
(話していて感じたが、レクス君の正体は邪教徒だな。排他されてきた民族の出身などではない。……あの場にレクス君が都合良く現れたのは、オクリー君が常に監視されているからだ。ワシは彼を犯すことも出来なくなってしまったわけか……いや、まだ諦められない。キスくらいなら見逃してくれるのでは? チキンレースも面白そうじゃ)
ドルドン神父はオクリーに手を伸ばし、何とか馬上に引き上げる。
「――どうせ追われる身じゃ、君を聖都サスフェクトまで連れて行ってやる! 感謝するがいい、オクリー君っ!!」
「なっ――」
突然豹変して「君の頼れる味方だよ」ヅラになったドルドンの背中に捕まったオクリーは、依然として半信半疑だ。しかし、円卓の部屋でドルドンやポーメットから聞いた『幹部爆弾』の話をきっかけに、オクリーは己の正体を確信しようとしていた。
「ドルドン神父……」
「ワシはもう神父でも何でもない。元々神父をできるような性格でも無かったしな」
「ドルドン、俺は本当に邪教徒なんだな……?」
「あぁ、そうとも。君が一般人なら数時間前に犯して殺しておるわ」
「…………」
鞭を振るわれて走り出す馬。深夜の街サテルを瞬く間に駆け抜け、外門へと辿り着く。ドルドン神父の知名度があれば衛兵などフリーパスだ。彼らはあっさりとサテルの街を脱出し、聖都サスフェクトへの道を駆けていく。
己の正体を知ってショックを受けるオクリーを他所に、ドルドン神父は涎を啜る。
ドルドン神父はオクリー君を犯す寸前までアレックスに見逃されてきた。監視はアレックスを含めてそこらじゅうに居ると考えた方がいい。並行して予想するに、オクリーは聖都サスフェクトを滅ぼすために動かされている人間兵器なのではないだろうか。オクリーでなければならない理由があるに違いない。
(オクリー君を安全に聖都サスフェクトに送り届けられるなら、恐らくは邪教徒に狙われることもない。むしろ教祖アーロスから感謝されるかもしれんな)
ドルドン神父とオクリーは闇の中に消えていった。
教会に取り残されたアレックスは、薄ら笑いを浮かべながら二人を見送っていた。
(オクリー先輩、地雷ばっかり引き寄せててマジおもろいっす。嫉妬っす。何でそんな面白いことばっかりできるんすか?)
アレックスは盤上から退き、再び盤外から駒を操る駒となる。そうしてアレックスが闇に紛れようとした時、円卓の部屋に戻ってきたマリエッタと再会した。
「……どうしたっすか? オクリーせん……オクリーさんならどこかに行っちゃったっすよ」
私服姿の少女はアレックスの言葉を聞いて、輝きの失せた瞳を伏せた。オクリーのために引き返してきたのだろう。彼女はオクリーの存在に脳髄を焦がされている。彼女の変貌を観察してきたアレックスは、すっかり混沌に堕ちた彼女の双眸を見て肩を竦めた。
オクリーに脳髄を灼かれてきたのはマリエッタだけではない。アレックスもそうだった。
「あの二人の行き先は聖都サスフェクト。……追いかけた方が良いと思うっすけどね〜」
込み上げる薄笑いを押し殺して、すれ違いざまに耳元で囁く。はっとしてマリエッタが振り向いた時には、アレックスの姿はどこにもなかった。
「……聖都サスフェクト。そこにオクリーさんが……」
マリエッタは胸の前で両手を握り締めた。




