七一話 神父の正体
ドルドン神父が積み上げられたごみの処理方法を考えている間、マリエッタと雑談になる。思い上がりでなければ、マリエッタは命の恩人である俺に好意的な感情を抱いているのだろう。やけに身体の距離が近かったり、俺を持ち上げるような発言をしたりと例を挙げればキリがない。
そんな彼女の好意を嬉しく思う一方、俺が俺を信じられない理由が多すぎた。食人欲求に怪しすぎる過去と素性。俺が普通の人間であればマリエッタと普通の付き合い方をできたはずなのに……。
やんわりと彼女のボディタッチを制したり避けたりして、俺は少女から一定の距離を取った。マリエッタが唇を噛んで何かに耐えるような表情をする度に、俺の心がずきずきと傷んだ。
「オクリー君。集めてしまったものは仕方ないから、このごみの山はワシが責任を持って処分するよ。留守番ヨロシク」
「あ、はい。行ってらっしゃい」
神父はどこかから持ってきた台車に雑多なごみを積載し、街の西の方向へと歩いていった。
「……マリエッタ。ドルドン神父について聞きたいんだけど……」
ドルドン神父が遠くに行ったのを見届けて彼の評判を聞いてみたところ、予想通りと言うべきかマリエッタや正教兵からの神父の評価は上々。それどころか、俺達の会話を聞いていた教会内の信徒からの評価も高かった。
「ドルドン神父の悪い噂なんて聞かないねぇ」
「昔この街で地震が起こった時、倒れてきた家を背負って崩壊を食い止めてくれたのよ。あれが無かったら今頃死んでた……感謝してもし足りないわね」
「僕、小さい時にドルドン神父からパンを頂いていたんです。餓死しなかったのは神父のお陰ですよ」
この街に地震が起こった時、傾いて崩壊しかかった家を肉体ひとつで支えて女性の命を救った――とか、自分の食事を抜いて餓死寸前の幼子に分け与えた――とか、彼らから聞かれるエピソードはまさに聖人君子そのものである。
老婆が言うには、一〇年近く前から彼はサテルの街の神父をしていたらしい。不正を一切働かず、黒い噂のひとつも無い。ケネス正教徒のあるべき姿を体現していたのがドルドンという男だった。
「……これは大きな声で言えないんですけど、その昔ドルドン神父は兵士だったらしいです。所謂『正教幹部の七人』になるための権力争いから脱落してこの街にやってきたとか……」
マリエッタが擽るような声で耳打ちしてくる。正教幹部の『枠』はたった七人。その後釜に収まるための内輪揉めが起こるのは当然の話だろうが、一線を退いてからも功績を立て続けるドルドン神父が幹部候補になれなかったというのは、ケネス正教の層の厚さを窺わせる。
むしろ圧倒的少人数でゲルイド神聖国を荒らし回って、国敵と看做されているアーロス寺院教団の不気味さが遅れてやってきた。
(……ん? ドルドン神父とアーロス寺院教団……何か引っかかるような気がする。考え過ぎか?)
二つのワードが脳内で絡み合ったところで、マリエッタが仕事へ帰還すべく隣の席から立ち上がった。名残惜しむような困り眉の視線を投げかけてきた彼女は、小さく手を振って教会の扉から外へ出た。
近隣部の魔獣被害や救難要請が溜まっているとのことだが、また僅かな時間を縫って会いに来てくれるらしい。どうしてそんなに俺を気にかけてくれるんだと質問してみると、マリエッタはセミロングの艶やかな茶髪を人差し指でくるくると巻きながら、「あなたに助けられましたから」と上目遣いで囁いてきた。
そんなことをモジモジしながら言われてしまっては、いくら鈍感な男でもマリエッタからの好意を認知せざるを得ない。少女の深紅の双眸はあまりにも真っ直ぐに俺を捉えてくる。目の眩むような愚直すぎる好意だった。彼女の頬と耳は、その瞳よりも真っ赤に燃え上がっていた。
「……マリエッタ、時間」
「え。あ、はい! あ、あはは! あたしそろそろ行きますね! それじゃまた!」
じっと見つめてくるマリエッタを送り出すと、彼女は慌てふためきながら走り去っていった。……落ち着きのない元気な子だ。正直あれだけ容姿の整った女の子に好意ダダ漏れの甘いアピールをされてしまっては、あらゆる不安を蹴散らされて押し切られそうになってしまう。
もちろんそれは許されない。早いところ金の稼ぎ口を確保して、聖徒サスフェクトに赴かなければならないのだ。マリエッタと話す度に心の中で疼く異様な衝動から目を逸らしながら、俺は深い溜め息を吐いた。
(やっぱりダメだな。……親しくなればなるほど食欲が湧いてくる。この衝動とは別に、マリエッタと交流すると心の中から嫉妬の声が聞こえる……ような感じがするのは気のせいかな)
中央広場の掃除が終わったため教会内の掃除に取り掛かっていたところ、床や椅子を拭く俺の近くに老婆がやってきた。
「……アンタ、マリエッタちゃんと良い感じじゃないか」
彼女は地震が起こった時ドルドン神父に助けてもらったという老婆だ。ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべながら肘で突っついてくる。非常に高い確率で冷やかしだろう。情報提供してもらった手前無視するわけにもいかないので、作業中の話し相手になってもらうことにした。
「ありゃ完全にホの字だよ。罪なオトコだねぇ?」
「……俺はあんな良い子とは釣り合いません。あの子にはもっと素敵な人がいますよ」
マリエッタにはアルフィーという幼馴染がいたらしいが、一年前の惨劇で亡くしてしまっている。彼女が無意識的にアルフィーの代わりを求めているという部分もあって、俺と彼女はここ数日で一気に仲良くなれたのではないだろうか。俺が不安定なのは元より、マリエッタもまた不安定なのだ。家族親戚親友、あらゆる縁が一夜にして消え去る――そんな精神的トラウマがたった一年程度で回復するわけがないだろう。
記憶喪失になった命の恩人との劇的な再会、癒え切らない心の傷、容赦なく降り注ぐ仕事と訓練――あらゆる要素が複雑に絡み合って今の状況を形作っている。故にあの子が平常に戻った時、俺は彼女の近くにいるべきじゃない。俺は結局周りの人間に不幸を齎す不穏分子なのだ。
「それに、マリエッタにも俺にもやるべきことが山積みですしね」
「そうなのかい? まぁ年寄りがあんまりお節介するのも良くないかしらねぇ……私は応援しちゃうけど!」
軽快に笑いながら教会を後にする老婆。型破りというか、空気を読めないというか。彼女と話した後の俺は何故か晴れやかな気分になっていた。
教会の大広間の掃除を終えた俺は、汗を拭いながらドルドン神父の帰りを待っていた。彼が出かけてから三〇分は経過しているが、まだ神父は帰ってこない。何もせずに焦れているのは時間の無駄だと思い立ち、俺は自分やドルドン神父の居住エリアの掃除をすることに決めた。
バケツの中の水を入れ替えて雑巾に水を含ませ、搾った雑巾で廊下を綺麗にしていく。走るように雑巾がけで、時には跪座で隅々まで拭き取って、長い廊下をぴかぴかに磨きあげる。続いては俺が借りている部屋。どうせ綺麗にするのなら最高の状態にしておきたい。すっかり黒く濁った水を入れ替え、箪笥やベッドを動かして隠れた部分までを拭き掃除していった。
「――ん?」
部屋の隅に置かれた机を退かしている最中、壁の隙間から紙摺れの音が微かに響いてくる。足元に目を移すと、壁際からするりと滑ってきた紙切れが俺の足先を突っついていた。
何の気なしにその紙切れを拾い上げる。一度だけ折り畳まれた四角の紙だ。角を合わせず乱雑に折り畳んだようで、あちこちに綿のような埃が付着している。表面には何も書かれていない。裏面も黄色い汚れが付着しているのみ。
「……?」
落とせそうな汚れを手の甲で叩いて払った後、親指の腹で紙の隙間を探り当てる。ぱきぱきと乾いた音を立てながら、ゆっくりと紙を開く。
そこには酷く乱れた筆跡でこう書かれていた。
『死にたくない』
『何をされるか分からない』
『神父を信じるな』
ぞっとするような悪寒。目の奥が眩むような高熱。
四肢の末端から恐怖という名の違和感が駆け上がってきた。
脳裏に浮かぶのは、路地裏で出会った小鬼のような男との会話。ドルドン神父を信じるなというフレーズがそっくりそのまま重なったのだ。
部屋が広がったり縮んだりして、床が陽気に弾んでいる。バランスが取れない。肌着が汗でぐっしょりと濡れて、急激に冷えてきて締め付けられるような冷えに襲われる。
「あ、あうっ……はあっ、はあっ……!」
揺れていた身体が壁に激突する。壁に押し付けるようにして身体が床にずり落ちていき、手から零れた紙が足元に滑っていく。
「な、なん、で……! どうして……っ!? どうして俺ばっかりこんな目に……!?」
耳を塞いで目を閉じて暗い布団の中に閉じこもってしまいたいのに、目を離せない。この筆跡の主について考察してしまう。
路地裏の男は言っていた。ドルドン神父の教会に泊まったことで息子が行方不明になったと。そして、息子の他にも被害者がいるらしいことを。
ドルドン神父の教会に泊まった若い男子は、数日のうちに行方不明になる。行方不明にさせられる。
次は俺の番なんだ。
「オクリー君、掃除はどれくらい進んだかね?」
ドアノブを捻る音に反応できたのが幸運だった。俺は紙切れを胸ポケットに押し込んで、雑巾を手に取って床に這い蹲る。本当は腰が抜けて立てないだけなのだが、掃除に精を出して汗を掻いてしまったように振舞った。
「――汗で濡れているじゃないか、オクリー君」
じゅるり。汗を含んで重くなった服を肌に張り付かせた俺を見てなのか、髭の隙間から白濁とした涎を啜り上げるドルドン神父。彼は俺の肩に手を添えて立ち上がらせてきた後、舐るような視線で眺めてきた。
灰色の双眸が全身に突き刺さる。決定的なものになった恐怖と嫌悪感から抵抗しようとするが、身長一九〇センチを数えようかという巨体に加えて鍛え抜かれた胸板や腕っ節を間近で見せつけられて、抵抗の意志を失ってしまう。
蛇に睨みつけられた蛙だ。俺は今夜殺される。今の今までドルドン神父の犯行がバレていなかったのは、彼が恐ろしく慎重かつ狡猾な人間だからなのだ。
昨日の夕食直後に記憶が無くなっていたのは、食事に睡眠薬を入れて効果を確かめるため。そして敢えて俺に手を出さなかったのは、施術だ治療だと言って俺の信頼度を高めるためだったに違いない。
恐らく彼がターゲットにする若い男子は俺のような素性不明の者か、頼れる家族も親類もいない天涯孤独の者に限られるのだろう。だからマリエッタのような兵隊の関係者が近くにいようと犯行が露見していないのだ。
既に時刻は昼を過ぎている。夜になるまでに教会から抜け出さなければ最悪の展開は避けられない。泊まって数日で行方不明になるのだから、犯行が今日でも不思議じゃないんだから。
「オクリー君、息が上がっておるぞ。……ふむ、風呂にでも行って汗を流して来なさい。今日はもう休んで良いぞ」
「わっ、分かりました……」
そんな俺の内心を知らない神父は、最後の親切とばかりに笑顔で告げてきた。相も変わらずサイズぴったりの着替えとタオルを用意してくれて、それを受け取る俺の手はがたがたと震えていた。
教会を抜け出した俺の行く先は決まっている。風呂などではない。駐屯所だ。マリエッタに助けを求めるため、縋り付くために俺は全力で走った。今のところこの街で信頼できる人間はマリエッタしかいない。それか、小鬼のような薄汚い路地裏の男。彼に助けを求めつつ紙切れを手渡すことで何か進展があるかもしれないが――今はとにかく権力の後ろ盾もあるマリエッタに泣きつくしか道はないと思った。
転げそうになりながら駐屯所に辿り着くと、入口を固める衛兵に槍の先端を向けられる。
「誰だ。名を名乗れ」
「きっ、緊急の用事なんだ! 俺の名前はオクリー! マリエッタ・ヴァリエールと面会させてくれ!」
「マリエッタ? 彼女は街の外に出ている。いつ帰るかはちょっと分からないが……」
「そ、そんな――」
俺はその場から数歩後退して、彼女の不在に心の底から打ちのめされる。彼女の明るい太陽のような笑みが瞼の裏に映る。すっかり脚から力が抜けてしまって、過呼吸になっていた。
大通りで醜態を見せつけるのは気にならなかったが、背中に妙な視線を感じて俺は叫びそうになった。
「ひっ――」
見られている。確実に。何処かから、ドルドン神父に見られている――
「何なら客室で待つことも出来ると思うが――おい、何処へ行く!」
俺は無我夢中で走り出した。頭の片隅で路地裏の男を求めていた結果、よりによって人目のない路地裏に誘い込まれていく。冷静な思考はもはや不可能だった。
地理感のない入り組んだ地形を走り回りながら、あの男を求めて半狂乱のまま叫び回る。助けてくれ、証拠を見つけた、などと意味不明なことを口走りながら駆け抜けて――偶然の末に小鬼のような男を発見した。
「よっ、良かった! 聞いてくれっ、やっぱりドルドン神父は若い男を狙ってたんだ!」
さっきぶりに見る強烈な浮浪者の格好だ。見間違えるはずもない。髪型から背格好まで全て同じである。
男は壁に寄りかかっており、瞳を閉じていた。彼の肩を揺さぶりながら、胸ポケットに押し込んでくしゃくしゃに折れた紙切れを取り出そうとする。
「いっ今証拠を出すから――おいっ、起きてくれ!」
だが、紙切れは上手く取り出せないし、男はどれだけ肩を揺さぶっても起きやしない。人差し指で弾いた紙切れが地面を転がってしまい、結果的にフリーになった両手で男を叩き起こそうとその頬を叩いた。
そして、額を指で弾こうとする直前、俺はふとした違和感に気づく。
……服が逆向きだ。
「…………」
服が逆向き? つまり前後逆に服を着ている? 午前中に会った時は普通だった。……何故?
視線が落ちる。
「あ」
足の爪先が後ろを向いていた。
顎の下に背中があった。
頭部だけがこちらを向いていた
「あ、ああああぁぁぁぁああああっっ!!」
口端から垂れる血。微かに開いた白目。
常軌を逸した男の死に様に、俺は思わず彼を突き飛ばした。重々しい肉塊と化した男は抵抗することなく地面に倒れる。当然ながら男はピクリとも動かなかった。
ドルドン神父に殺されたのだ。教会内で仕事をすると言いながら、俺をずっと見張っていたのだ。ごみを捨てに行くと言いながら、男を殺しに行っていたのだ。ということはつまり、今の俺の行動だって監視されている可能性が高いわけで――
恐怖のあまり顔面蒼白になる。地面に膝を着いて、暴れ回る心臓を握り潰す。
「……すけて……助けて……誰か…………」
人は極限の恐怖に襲われた時、まともな思考も行動もできなくなってしまう。今この瞬間体験していることは悪夢の中の出来事で、目が覚めたら幸せな日常が待っているんじゃないか――と現実逃避をしてしまうのだ。
俺もその例に漏れず、████の名を呼びながら意味の無い単語を発していた。
「あ、よあ、んぬ。たすけて、よあんぬ」
夢。これは夢だ。そうだ、第一、記憶喪失なんておかしいだろう。夢の中の設定だ。夢から覚めたら、記憶喪失なんて無くなって、幸せな日常が待っているに違いないんだ。
転がっていった紙片に視線が移る。
それを指先で拾い上げる老爺の姿が見えた。
「様子がおかしいと思って来てみたら……そうか。君はそこのネズミと知り合いだったのかい」
――ドルドン神父その人であった。
「ここに来てワシに向いてきておるのかな。運、追い風……何か言葉にできない大いなる流れが。厄介者一人を始末できた上に、我が歴史上最も美味しそうな男子を確保することができるなんてのう」
もはやその本性を隠そうともせずに、ドルドン神父は満面の笑みで涎を啜り上げる。いつから俺の半狂乱の言動を見ていたのだろうか、その手首は半透明の液体でべったりと濡れていた。
ドルドン神父は過呼吸になる俺を尻目に、紙切れの内容を興味深げに朗読して見せる。
「……ワシが目を離した隙に書きおったか。生への執着、大変結構。……それにしても、この筆跡。酷く乱れておるが、恐らくは九人目のエイジス・ダンブルビー君の物じゃな。よぉく覚えておるよ……怯え切ったあの目つき、泣き叫びながら暴れ回る華奢な身体……今まで一番美味しかったのは彼だしね。覚えておるのも当然か」
痰の絡んだ笑い声を上げるドルドン神父。紙片を胸元にしまった神父は、ふと猛禽類の如き鋭い目付きになった。
「……オクリー君。もう、分かるよね?」
それは死刑宣告よりももっと恐ろしい言葉だった。
「痛い目に遭いたくなかったらついてきなさい。騒ぐのもダメじゃぞ。オクリー君は相当の実力者と見るが、君程度の人間なら首をへし折るのに三秒と要らん」
――誰か、助けて。
「よあ、んぬ……」
誰にも聞こえない声で俺は呟く。
俺が無意識中に助けを求めた『ヨアンヌ』なる人物だが、俺はその子のことを全く知らなかった。
でも、そんなことはどうでもいい。
もう俺は……。
「最期に何を食べたい? 君の好物を知りたいのう。素敵なディナーにしようじゃないか」
恋人の柔肌を優しく愛撫するように俺の背中に触れてきた神父は、「さぁ、二人の家に帰ろう」と言って黄色い歯を見せてきた。




