七〇話 善い人
夕食を食べた後、俺は気絶するように眠りについていた。……いや、実は料理を食べ切れたかどうかも分からない。芋のスープを飲み干した直後、がくんと意識が途切れたのだ。
余程疲れていたのか、それとも湯上り直後だったせいか。いずれにしても少し奇妙な体験だった。
「……俺、いつの間に寝てたんだ?」
昨晩の記憶が曖昧だ。何事も無かったのなら良いのだが。ドルドン神父が部屋に起こしに来たところで問うてみると、彼は生返事をしながら奥に引っ込んでいった。
「変な感じだ」
大きく伸び上がってから立ち上がる。久々にベッドで寝たお陰で身体が軽い。異様に軽い。昨日まで重石を背負って生活してたんじゃないかってくらい身体が若返っていた。
「ところでドルドン神父、さっきの質問の答えを聞いていないんですけど。昨日の記憶が無いんですけど、何があったんです?」
「うん。何も無かったよ」
「そうですか……なら良いんですけど、妙に身体が軽いんですよね」
「……あぁ、そのことか。勝手ながら君が眠りについた後、特別な施術をさせて貰ったよ」
「特別な施術って何です? マッサージ?」
「そのようなものじゃ。……そこに小瓶があるじゃろう。薬草の蒸気と神の威光を用いた特殊療法で君の身体を癒してやったのだ」
ベッドのすぐ側にアロマで使われるディフューザーのような物が沈黙している。部屋の中の甘い芳香はここから漂ってきていたのか。
「出会った当初から、君の身体が深刻なダメージを負っていることには気づいておった。施術は後日やろうと思っておったのだが、昨日丁度よく君が爆睡していたので勝手にさせてもらった」
なるほど、魔獣と戦った時の傷が完璧には癒えていなかったのか。マケナさんの軟膏薬で誤魔化しては来たが、身体の芯に蓄積された疲労と損傷が尾を引いていたのだろう。神父はそれを看過して治療行為を施してくれたわけだ。
特殊療法とやらに感心しているのも束の間、身体中に刻まれた傷痕を見られたのではないかという考えが過ぎる。襟を握った俺の様子を見てドルドン神父は髭に埋もれた口から白い歯を露出させた。
「安心せい、君の身体には一切触れておらん。……それとも、身体の傷痕は見られたくなかったかな?」
「……えぇ、まぁ……」
「なあに、身体に大なり小なり大きな傷があっても良いではないか。魔獣や邪教徒との戦いで受けた名誉の傷かもしれないじゃろ? それに、ワシは君の傷を誰かに言いふらしたりはしないさ。我らの唯一神様に誓ってね」
涎を啜るドルドン神父。彼は唇を釣り上げて微笑すると、閉ざされた教会の扉を開くために部屋を後にした。
ドルドン神父の朝は早い。教会を訪れるサテルの民の悩みを聞き、神の教えに基づいて彼らの苦しみを解決できるよう手助けする。また、冠婚葬祭を執り行ったり、ゲルイド神聖国にやってきた非ケネス教徒に教えを広めたりしているそうだ。唯一神のモニュメントを置かれた教会の掃除を怠るわけにもいかないので、割と現状維持でも手一杯である。
仕事を満遍なくこなしてもらうために俺の身体を治してくれたのだろうか。前もって言ってくれなかったのは、そういう後ろめたさがあったからなのかもしれない。
(……いや、泊めてる側が後ろめたさとか無いだろ。俺が神父の仕事を手伝うのは当然のことだ)
俺は洗顔を済ませた後、ドルドン神父に手渡された藁箒を手に中央広場に連れてこられた。
「オクリー君には落ち葉やゴミの掃除をしてもらう。外が終わったら中。最近ワシ一人ではやる暇がなくてのう、隅々まで頼む」
「了解です!」
ドルドン神父は朝の涼しい空気に両肩を震わせた後、俺に道具一式を押し付けてさっさと教会の中に入っていった。神父が教会の扉を開け放ったのを見て、熱心な教徒達はぞろぞろと彼に続いていく。朝日が薄らと差し込む街の中央広場に影をひとつだけ伸ばす俺。みんなに取り残されたのを他人事のように眺めた後、びゅうと吹いた風に首を縮こませながら藁箒を握り締めた。
「そういえば今日もマリエッタが来るって言ってたっけ。……頑張るぞ!」
中央広場に散らばる落ち葉、植物の欠片、ポイ捨てされた屑、古びた靴――通りの隅に隠されるようにして落ちていたごみを一心不乱で集めていく。神父には中央広場と教会の敷地だけで良いと言われていたが、一度やり始めると終わりが見えなくなってきて、気がついた時には隣のエリアまで出張してしまっていた。
裏路地へと人為的にポイ捨てされた物がどうしても気になってしまったからだろうか。いずれにしても、これ以上手を広げてしまっては収集がつけられない。俺は適当なエリアまでを掃き掃除して、山のように積み上げた廃棄物を横目に汗を拭った。
「これ、どうやって処理するんだ?」
想像以上にごみが集まってしまった。こうなると善行による気持ち良さよりも処理方法への不安が勝ってしまう。ごみの前であたふたしながらドルドン神父を呼びに行こうか迷っていたところ、肩をトントンと優しく叩かれた。
「おはようございます、オクリーさん。……何やってるんですか?」
振り向いた先にいたのは、俺より拳ひとつ分小さな身長の少女マリエッタ。茶髪の艶やかな髪を揺らして、少し潤んだ上目遣いでこちらを見上げてくる。先日一緒にお風呂に入っていた事実を思い出して、少女のゆったりした服の下の肢体を想像してしまう。あどけない顔つきに反して女性らしく丸みを帯びた身体。明らかに着痩せしている豊満な双丘。――その柔らかいお腹の下に詰め込まれた真っ赤な果実たち。
慌てて邪念を振り払い、俺は平静を取り繕う。
「あぁマリエッタ、おはよう。実はドルドン神父に中央広場の掃除を頼まれたんだけど、ごみを集めすぎちゃって困ってたんだ。……どこに捨てればいいか分かる?」
「あ〜……あたしもよく分からないので、ドルドン神父に頼むしかありませんね」
「俺の担当分の仕事なんだけど……まあ仕方ないか」
「丁度いいし、あたしが挨拶がてら頼んできますよ!」
「え、あぁ……」
寒さのせいか、僅かに染まった耳が教会の方へ向く。彼女が小走りで教会の中に入っていくのを見届け俺は、堆いごみの山が風で崩れないように注視していることにした。
ドルドン神父は数分待っても出てこない。来訪者の対応を優先しているのだろう、段々申し訳なさと情けなさが勝ってきた。記憶喪失なばかりにマリエッタやドルドン神父を初めとした恩人に迷惑ばかりかけている気がして――恐らく気のせいではなく実際に迷惑をかけている――息を止めながら狭く暗い場所に閉じこもってしまいたくなる。
「あっ……」
ふと考え込んで涙が滲みそうになってしまった時、風に吹かれて舞い上がった屑ごみが吸い込まれるように路地裏へと飛んでいった。そのごみが小さければ見逃すところなのだが、絶妙なサイズであった故に幾度かの逡巡の後を追った。
路地裏へ入る細い通路の前に立つ。すぐ近くにごみが留まっていれば良かったのに、光が差し込んでいる部分には見当たらない。であれば、ごみは奥に流れていったと考えるのが妥当だが――
路地裏の奥を見つめた時、その濁った空気と闇の深さに躊躇いが生まれた。このサテルの街を清潔に保つことよりも、路地裏へ進みたくはないという保身への欲望が勝ったのだ。その思考を後押しするように、俺ははっとなって気づいた。結局ごみの山を放置してこちらに来たのでは、山が崩壊するかもしれない。ごみが散らばってしまったら、手間が増えてしまうではないか、と。
闇から溶け出してきた生暖かい空気が俺の四肢に絡みついてくる。ヘドロのような不快な臭いが一瞬遅れてやってきて、喉奥からしゃくり上げるようにして吐き気がもたげる。
逃げるように踵を返し、明るい場所に戻ろうと小走りになった瞬間――俺の背中を呼び止める声がした。
「――キミ。ドルドン神父の教会に泊まり始めたっていう子だろ?」
仄暗い路地裏の奥から、それはやって来た。浅黒い肌に清潔感の欠片もない白髪を蓄え、ボロ布のような衣服を纏った人間に似た何か。歯は何本も欠けていて、頼りなく孤立した歯も黄色く細くなっている。実物を見たことはないが、小鬼のようだと思った。異質な悪臭の正体はこの男だったのだろうか。その容姿からして、何日風呂に入っていないのかも分からない。
彼は両手を広げてフレンドリーさをアピールしながら近づいてくる。その右手には俺が取りこぼした先程のごみがあって、手渡そうとしているように見える。つまり俺がごみを集めていたことを知っていたのだ。
……ずっと前から監視されていた? いつからだ? まさか掃除を始めた早朝から?
彼に監視されていたのだと気づいた瞬間、俺は恐怖で動けなくなった。どんな魔獣よりも、どんな強大な存在よりも、得体の知れない人間の方がずっと怖い。理解の及ばない精神を有した人間こそ、最も忌避すべき存在なのだ。
俺は膝を殴りつけるようにして身体に命令する。動け。逃げろ。この男は危険だ。そう思いながら歯を食いしばる。警戒を厳にした俺の様子を見て、フケを飛ばしながら頭皮を掻き毟る男。彼はごみを手放した後、残念そうに唇を尖らせた。
「味方だから警戒しないでくれって言ってもまぁ無理か。こんな格好だもんなぁ。……なら手短に話すよ。――『ドルドン神父を信じるな』。決定的な証拠は未だに掴めていないが……奴の管理する教会に泊まった若い男子は、数日のうちに必ず行方不明になっている。つまり次のターゲットはキミなんだ。信じるも信じないもキミ次第ではあるが……どうか警戒を怠らないようにしてくれ。ボクの思い過ごしなら良いんだが……」
「え……」
「早く帰りなさい。ドルドンが君の様子を見に来るぞ」
想像とは違った展開に呆気に取られる。てっきり街の闇に潜む危険人物かと思っていたのに、その実情は俺に警告を発する謎の男だったわけだ。前者にせよ後者にせよ不審者なのは変わりないが、一度話をしただけで評価が一八〇度変わってしまった。
ドルドン神父に関する後ろめたい噂を更に深堀りしたい気持ちはあったが、それ以上にこの男の正体が気になった。落ち着きを取り戻した俺は、全身をカビに覆われた男に問いかける。
「あなたは一体何者だ?」
「……ボクにはダスケルの戦いで生き別れた息子がいた。息子はダスケルから逃れてサテルに行き着き、この教会を頼ったらしい。……しかし、この教会に泊まったきり行方が分からなくなってしまった。その情報を掴んだのがつい最近。……何もかも遅すぎた。息子以外にも被害者が出ていると知って以来、ボクはドルドンに関する情報を街の裏で集めているのさ。……さしずめ、過去に囚われた哀れな亡霊と言ったところかな」
亡霊と名乗った男は、一瞬で闇に溶け込んで姿をくらました。闇の中から最後の言葉を残して。
「ケネス正教は腐っている。気をつけろよ……」
俺の足元に帰ってきた廃棄物を拾い上げ、俺は彼の言葉を反芻する。
「……『ドルドン神父を信じるな』だって……?」
確かに彼には涎を啜り上げるという生理的に嫌悪感のある癖があるものの、それ以外はこの街の歴史に名を残してもおかしくない人物だ。由緒あるケネス正教の神父を長年務め、サテルの街人からの評判も上々。今日だって、彼の助言を求めて教会にやって来た人は少なくないはずだ。
そんな人物の実績よりも、街の裏路地で出会った薄汚い不審者の言うことを信じろと? そんなバカな話があるか。ドルドン神父は俺の身体を治してくれた。あの不審者は訳の分からないことを言って俺を錯乱しようとしているに違いない。
(……どう考えても信じるべきはドルドン神父。それなのに……俺の胸に凝り固まったこの不信感は何だ……!? 何が俺をそうさせる……!?)
俺の心臓は不穏な予感を訴えて暴れ回っている。警笛を鳴らしているのは心臓だけではない。心の声達が不信感を露わにしていた。
やっぱり俺はおかしいんだ。ドルドン神父を疑うことこそ正義なんだと思い込んでいる。人を食べようとする人間がまともな思考をできるなんて思っちゃダメだ。頭が狂う前にこの街を離れないといけない。
ごみを持って路地裏から脱出しようと回れ右する。
見覚えのある老爺が目の前に立っていた。
「こんな路地裏で何をしているんだ、オクリー君」
ひゅっ、という掠れた声が喉奥から絞り出た。目前に立っていたのはドルドン神父その人だった。
「中央広場のごみはもういい。教会内部の掃除を頼んだよ」
「はっ、はい……」
ドルドン神父が中央広場に向かって歩いていく。ぶわ、と全身に脂汗が滲んだ。その理由は分からなかった。
 




