六〇話 始まりの鐘が鳴る
数日が経過してもオクリーは目覚めなかった。アレックスとヨアンヌが交代で見守る中、スティーラが定期的に餌をやりにくる。骨の多い部位を食べさせるのは消化的によろしくないということで、骨のない柔らかい部位なら食べさせてオーケーという折衷案が取られることになった。食べられるよりは間違いなくマシだから許したが、ヨアンヌ的にはギリギリの譲歩である。
「アレックス。最近のオクリー顔色悪くないか?」
「病人に人肉食わせたらそうなるっすよ。普通は栄養豊富な食べ物を与えるもんっす」
「他の拠点だったら良い施設があるんだけどな。移動するにも馬は引き払っちゃったし……しばらくはこの暮らしを続けてもらうしかないか」
オクリーは無理矢理流し込まれたスティーラの一部を胃の中に溜め込んでいる。純粋に疑問なのだが、人に自分の一部を食べさせるとはどういう要件か。交換した方が余程長く繋がっていられると思うのだが。人の嗜好は分からないものだ。ヨアンヌはオクリーの額を撫でてから、結果的に彼の意識を奪うこととなった自分の選択を後悔した。
「アタシ、どうすれば良かったんだろう」
「何がっすか?」
「……オクリーが目覚めなくなったのは自分のせいだ。もっと前に情勢を予見できなかったのかって思ってな」
オクリーもヨアンヌも先の見えない袋小路に迷い込んでいる。特にオクリーの先行き不安はどうやっても拭えない。彼の精神はずたずたに破壊され、アーロス寺院教団に有利に働くような暗示さえ掛けられてしまっている。セレスティアの洗脳解除、ゲルイド神聖国の乗っ取りを画策するカルト教団の撃滅、ヨアンヌによる世界の崩壊の阻止、スティーラの食欲の制御――オクリーの前には数え切れないほどの困難な任務が存在していた。このままオクリーが精神崩壊状態を引き摺るようなら、優位に立ったアーロス寺院教団がこの国の覇権を握るだろう。
ヨアンヌからしても、オクリーの存在は生きる意味の全てである。少女が世界を破壊したい理由はただ一つ、オクリーの短命を解消し穏やかに暮らすためなのだ。大好きな彼を寿命という概念からかけ離れた存在に変えるため、ケネス正教やアーロス寺院教団の教徒全員、ひいては世界中の人間全てに犠牲になってもらう。オクリーとヨアンヌ以外の人間が存在しなければ戦争は起こらない。怨みや憎しみ、あらゆるしがらみから解放され、幸せで小さな世界を構築できる。それが彼女の計画だ。
しかし、彼が目覚めないうちは計画を遂行することができないだろう。何かに追われるような、濁っていて、疲れたような瞳が二度と開かれないのなら――そこにヨアンヌの生きる意味はない。
横たわる手を優しく包み込んだ少女は、とくんとくんと疼く衝動を噛み締めた。
「……過去を悔いても仕方がない、か」
彼の精神を差し出したこの判断が間違いだったとは言わせない。正しい判断だったと回顧できるように行動するのだ。ヨアンヌは決意を胸に立ち上がり、背後に控えている金髪坊主に向き直った。
「アレックス、オマエに頼みたいことがある」
「おおっ、自分何でもやるっす! 何なりと言ってください!」
「オマエにはオクリーの護衛を頼みたい」
「護衛? 全然良いっすけど、ヨアンヌ様が直接見守ってあげた方が丸いんじゃないすか?」
「いや、そうも行かないだろう。アーロス様はオクリーが目覚めた瞬間、聖都サスフェクトへ潜入させようとするはずだ。そういう暗示を掛けているように見えた」
聖地メタシムに帰還したアーロスは着々と準備を整え、ケネス正教の中核たる聖都サスフェクトへの大規模襲撃作戦計画を進めている。フアンキロと協議されて計画はより綿密なものになっているはずだ。
オクリーに暗示が掛けられた以上、アーロスは記憶喪失した彼を聖都襲撃作戦に組み込むつもりなのだろう。アーロス的には彼の悪運と肉体に刻み込まれた経験値を頼った形になるか。教団に関する記憶の一切を忘却してしまった事実がプラスに働くかマイナスに働くかはまだ分からない。
「アレックスには実際に聖都サスフェクトへ潜入してもらいたい。影からオクリーを守ってほしいんだ」
「そういうことっすか。ヨアンヌ様は動きにくくなるっすもんね」
「頼めるか?」
「もちろんっすよ! 北東支部で鍛えられたお陰で一般兵には負ける気しないっす」
薬指を交換しているためオクリーが何処にいるかは分かる。やろうと思えばオクリーの傍に付き添うこともできる。だが、悪い意味で有名人なヨアンヌが聖都サスフェクトに単身飛び込むのはリスクが高すぎた。正教幹部に囲まれれば彼女と言えども死は免れない。
アレックスがどこまで役に立つかは分からないが、露払い程度はできるだろう。そう考えてアレックスを採用したのだった。もっとも、ヨアンヌはアレックスのことを信用し切っていない。だからこそ薬指による転送源の確保を続けているわけで……。
「期待してる」
素っ気ない言葉をかけてやると、アレックスは眼瞼に陰を落としながら笑っていた。一度そう思い込んでしまったせいか、金髪坊主の顔が裏切り者特有の人相に見えて仕方がなかった。
しばらくすると、スティーラを引き連れたホイップ=ファニータスクが部屋にやってきた。先日のベビードール姿とは打って変わって、黒髪ドリルに黒ゴシックの服のスティーラ。たとえ意中の彼が目覚めていなくとも、可憐な自分を感じてほしいという健気な思いからお洒落をしてきた。そんなゴスロリ少女に内心唾を吐き捨てたくなるような苛立ちを感じつつ、ヨアンヌはホイップとスティーラを部屋の中に迎え入れた。
その際、スティーラの左手が存在しないことに気づく。彼女の左手首から先が欠けているのは、消化が終わるまでは自分の一部を彼の胃の中に収めておきたいとの考えからであった。寒気を感じながらそれを理解してしまったヨアンヌは、常軌を逸した気持ち悪さにいよいよ収まりがつかなくなった。
「いい加減にしろよスティーラ。アタシに向けて牽制するような左手、オクリーへの粘着質な視線……気持ち悪いんだよ。コイツはアタシのもんだ。譲歩してやってんだよ。それを良いことに好き勝手しやがって……調子に乗ってると殺すぞ」
犬猿の仲のスティーラとヨアンヌ。二人の板挟みになったアレックスは、何の冗談かと眉をひそめてしまう。「いやっヨアンヌ様、先輩の薬指手放さないあなたもキモイっす!」「割とどっちも気持ち悪いっすよ……」という反射的なツッコミを抑えられたのは、彼の人生において最も賞賛されるべき行為の一つだろう。かくして命拾いしたアレックスは、ひと呼吸置いてからヨアンヌを窘め始めた。スティーラの側にはホイップがいるため、特に衝突は発生せず。ヨアンヌのズレた発言は訂正されぬまま、スティーラ達はベッドの傍らに腰掛けた。
ペットに餌やりをする如く、スティーラは謎の肉を取り出してオクリーの口に押し込んだ。
「……あ〜ん」
フォークに突き刺された謎肉が、薄く開かれた唇の間に押し込まれる。ヨアンヌの整った顔面が皺を形作りながらぐしゃぐしゃに歪む。ウッという詰まるような声を漏らしたオクリーは、謎の肉を呑み込んだ。意識を失ったままの彼は酷く苦しんでいるように見えた。
味付けもされていない人肉だ、美味いはずがない。ところでアレは何の肉だ? ヨアンヌは軽く質問する。
「……子宮の一部よ」
「やっぱりそうなるか」
アレックスは喉元から出かかった言葉をすんでのところで嚥下した。やっぱりとは? サイコパス同士通じることがあるんだな。そして子宮の一部を食わせてどうするのか……。またもや下手な発言を漏らさなかったことに自画自賛するアレックス。しばらくは傍観者を続けていようと思った。
アレックスが口を結んで黙り込む中、ホイップがオクリーの顔を覗き込む。スティーラの微笑んだような表情とは打って変わって、痩せ細っていた。
「本来なら今日からミルクちゃん第二形態による特別訓練が始まる予定だったんだけどねぇ。第二形態は五刀流だよ? どれくらい抵抗してくれるか楽しみだったのになぁ。あと近隣の村への潜入ミッション的なヤツも……ウホン」
冗談めかしたホイップの発言に凄まじく敵意の孕んだ視線を向けるヨアンヌ。その目に気づいてごにょごにょ言いながら誤魔化したホイップは、適当な世間話に話題を逸らすのだった。
翻って、聖地メタシム。アーロスがフアンキロやポークと『聖遺物』奪取作戦について話し合った結果、作戦決行日は一年に一度開催される『幻夜聖祭』の開催期間中に決定された。
幻夜聖祭とは、世界を救った七人のケネス正教徒が夢の中で神を見たと伝えられる日から開催される祭りのことである。人智を超えた『魔法』を操ることのできた七人の教徒は、未曾有の大災害と二次的な魔獣被害によって崩壊の危機に瀕した世界を救った。神の威光を受けた『黎明の七人』と、彼らの残した功績を忘れぬよう、超大規模な祭りが毎年催されることになったわけだ。
国内外に向けたイメージアップ戦略のため、開催期間中は観光・巡礼などで聖都内を自由に移動可能である。大量の観光客や巡礼者を引き入れる関係上、検問や警備はどうしても甘くせざるを得ない。その隙を突いてオクリーを聖都中心部に潜入させようと言うのだ。そして外部からの危険人物に対処しにくくなった聖都には、ホイップ=ファニータスクを含めた北東支部の手練を一定間隔で配置させる。
移動要塞の種を仕込んだ彼らを利用して、オクリーの転送と同時に各地に幹部を送り込む。不死鳥の神殿などの重要非解放施設は厳重な警備体制が敷かれているだろうが、そのためのセレスティアだ。彼女は警備に動揺を与え、結界を通過するだけの充分な切り札になり得る。
『大分煮詰まってきましたね』
「オクリーへの負担が大きくなっているような気もしますが……それ以外は良い作戦だと思います」
『……彼が余計なことをした瞬間、切り捨てれば良いだけです。彼につけた肉片を回収し、他の教徒を引き上げさせるだけで全て元通りになるのですから、一年に一度……仕掛け得の作戦ですよ』
フアンキロは白髪を掻き上げながら作戦計画書を書き上げる。ポークもひと仕事終えたような溜め息を吐いて、机の上に突っ伏した。仮面の男はそんな二人を見渡すと、作戦の説明のために幹部全員へ文書による通達を行うように言った。
『近いうち、オクリー君をメタシムに移動させなければなりませんね……』
彼への暗示に『幻夜聖祭』の条件付けをしておかなければならないだろう。大量の民衆が呼び込まれ、街の警備が薄くなる幻夜聖祭の期間を狙ってやるのが最も混乱を巻き起こせる。ケネス正教がセレスティアに関する情報を伏せているのもあって、世間の人間はアーロス寺院教団への認識が不気味なほど甘い。幻夜聖祭は例年通り大盛況を迎えるだろう。
アーロスは様々な事柄を思い浮かべてから、最後のチェックに入る。
『最後にチェックしておきたいことが』
「何でしょう?」
『マリエッタという少女は使えそうですか?』
――マリエッタ。それはメタシム襲撃から唯一生き残った少女の名前である。彼女は原作主人公たるアルフィーの代わりに生存しており、オクリーとも些細ではあるが関わりのある人間だ。セレスティアから聞いていた少女の名前を出されたフアンキロは、「使えなくはないです」と答えた。
「マリエッタは天涯孤独の身で、セレスティアとその部下が引き取る形で育てられてきました。つまりケネス正教の上層部と深い繋がりがあります」
『オクリー君が彼女と上手く接触してくれれば、聖都に違和感なく潜入するための出汁に使えるわけですね。しかも神殿に近づくための口実にもなり得る……と』
「ええ、上手く行けばですが」
アーロスは天井を見上げる。
『マリエッタ。人の縁とは不思議なものです』
心底楽しそうな声色で彼は呟いた。




