五九話 まともな人はどこにいる?
スティーラの悪夢の中には、人体模型の如きグロテスクな人間が姿を現していた。どんな絶品料理よりも甘く香ばしい匂いを漂わせた『彼』は、匂いの帯を引いたまま遠ざかっていく。どうやっても届かない。こんなに食べたいのに。滝のような汗を滲ませながら目覚めたスティーラは、深夜ということもあって非常に空腹な状態であった。
乱れた髪。微睡む意識。自慢の黒髪ドリルが解け、セミロングの髪が口端に張り付いている。目覚めてしまったのだから仕方がないとキッチンに向かおうとしたところ、馥郁たる香りが部屋の中に充満していたためにスティーラは意識を完全に覚醒させた。
「……この匂いは?」
目の下に刻まれた隈を擦りながら、スティーラはベビードール姿のままベッドから這いずり出る。『お預け』を食らっていた少女は、細い腹から、くぅ、という可愛らしい音を漏らした。
この匂いには覚えがある。オクリーの血肉の香りだ。髪の毛を整えることもせず、スティーラは素足のままで拠点内を歩き出す。
「……?」
ランプを掲げて歩いた先に、微かな人の気配。それも複数。いち、にい、さん、よっつ――隠し切れない強大な存在感が振り撒かれている。その内の一つがオクリーのものとして、他の三人は何をしているのだろう。
まさか、このスティーラに先駆けて摘み食いを? 歯を食いしばって、指をしゃぶりながら、熟すのを待っていた自分を差し置いて? そんな不届き者は誰だ。消し炭――にするのは自重してやるが、教育してやる。少女は煮え滾る衝動を押さえつけながらキッチンへ向かう。
食堂の奥、キッチンから郁々たる空気が流れ込んできている。オクリーの身に何があったのだろう。ぺたぺたと小さな足音を鳴らしながら食堂エリアに立ち入る。すると、廊下よりも遥かに濃い匂いが充満していた。あまりにも強烈な香りを嗅がされて、立ち眩む。どんな運動でも疲弊しない身体になったはずなのに、息が上がる。岩壁に寄りかかって呼吸する度に下腹部がじゅくじゅくと鈍い痛みを訴える。
どういうことだ。この濃い香り。軽傷程度ならこんな濃い匂いは有り得ない。重傷……いや、肉体の中身を部屋中にばら撒くくらいの行為をしなければ、こんなことにはならないはずだ。確かめたい。味見したい。スティーラは軽くなった足取りで匂いの根源たるキッチンに顔を出した。
「……――っ!?」
オクリーとヨアンヌの血液がこびり付いたキッチン内を見て、スティーラは硬直する。一瞬遅れてオクリーの濃い匂いが顔面に叩きつけられ、直後、嗅覚による刺激と快楽が最高潮に達した。
スティーラは毒ガスでも嗅がされたんじゃないかという勢いで白目を剥き、小さな臀部を地面に衝突させる。少女は正気を取り戻すと、そこに横たわる絶品料理を瞬きもせず凝視し始めた。
「ちょっ……オマエ、起きてたのかよ……」
突然の来訪者に驚愕するヨアンヌ。最悪である。スティーラにしてみれば、鴨が葱を背負って来る以上の出来事――鴨が葱を背負って鍋の中に投身してくれた、と形容される夢のような瞬間に違いなかった。オクリーの身体が元々の内臓を取り戻し、熟成を再開してくれたのだ。スティーラのスカイブルーの瞳が据わっていき、尻もちをついた少女は獲物に飛びつく寸前の猫の如く身体に力を込め始めた。
対するヨアンヌは横たわるオクリーの前に立ちはだかり、一触即発の雰囲気。最強の怪力を持つ少女と、反射の盾を持つ少女の視線が火花を散らす。そんな中、教祖アーロスが靴を鳴らしながら二人の間に割って入った。
『こらこら、オクリー君は食べ物じゃありませんよ』
仮面の下から告げられる至極真っ当な言い分。あくまで諭すような優しいその一言が、スティーラの暴走を止めた。人間は食べ物ではない、オクリーも食べ物ではない。当然である。無駄な肉が排出された時の処分方法の一環として人肉を食しているだけであって、余程の無能か敵でない限りは人間を消費するべきではない。
そんな教団の指針を思い出してか、寝巻き姿の少女はバツが悪そうに俯いた。前髪で双眸を隠し、束になった黒髪を気まずそうに指先で弄るのだった。
「……ごめんなさい」
『己を律しなさいスティーラ。欲望に任せた行動は破滅を招きますよ』
素直に謝罪し、ヨアンヌやアーロス、ひいてはオクリーに頭を下げるスティーラ。裸にローブ一枚で抵抗しようとしていたヨアンヌは、改めて教祖アーロスのカリスマ性を思い知った。何故限界状態になったスティーラを一言で止められる? 確かにオクリーは食べ物ではないのだが、そんな当たり前の発言で止められるほどスティーラの飢餓状態は単純じゃない。
それよりも、アーロスへの忠誠心がオクリーへの恋心よりも強いことに驚きである。恋という激情に塗り潰されて心の底からの忠義を失ったヨアンヌとは対照的だ。ヨアンヌはスティーラを憎み切ることができずに、敵意を引っ込めた。
そんな少女二人の様子を見て、アーロスは帽子を被り直す。セレスティアは今が良い機会と言わんばかりに軽く手を上げた。
「あのう……スティーラは何故人を食べようとするのですか?」
アーロスとスティーラを交互に捉えながら放たれた発言。大抵、性癖や性格の捻れは過去の出来事に起因したものがほとんどだ。かつてのヨアンヌは両親からの虐待によって逸脱した性癖に至り、現在のヨアンヌは自称一般人の誰かさんによって性癖を破壊され肉体置換という更に飛び抜けた性癖に覚醒した。
では、スティーラが食人癖に陥らざるを得なかった理由は何だろう。悲壮な過去を持たぬセレスティアは、その理由を予想することができなかったので、以前より持ち合わせていた疑問をぶつけてみた。仮面の男が確認するようにスティーラを見下ろすと、彼女は小さく肯定して己の過去を語り始めた。
「……何年も前、スティーラは地方の権力者の家系に産まれたわ。……そのお陰で、食べる物には困らなかった……」
「昔は普通だったのですね」
セレスティアが皮肉たっぷりに横槍を入れる。彼女はスティーラの過去に興味津々だった。ヨアンヌは彼女の過去を知っている。同情を誘うためのつまらない話だと思っているのだが、事情を知らぬセレスティアの好奇心を刺激しているようだ。
スティーラは調子を崩さないで続ける。曰く、彼女の親類が支配する街は冬季の厳しさで知られていた。スティーラが一〇歳を迎えたある時、生まれ育った街が前代未聞かつ前倒しの厳冬期に襲われた。
長い長い雪と氷の季節は、街に死を運んできた。大豪雪によって外部への連絡や通行が遮断され、食糧庫に積まれていた食糧は春を待たずに底を尽きた。
先の見えない不安と現状への不満が降り積もっていく。目についた動物は全て食の対象。ネズミや虫すらありがたい食糧である。数少ない動物を食い尽くした後は、植物の実に白羽の矢が向けられた。あっという間に果実が無くなると、木の根や樹木の皮、新芽、とにかく食べられそうな物は何でも食べたと言う。
動植物を食い尽くした街の民は、権力者であるスティーラの家族にやり場のない憎悪を向けた。どうしてお前らは食糧問題を解決してくれないのだ、何故お前らは城の中でふんぞり返って暖炉を囲んでいる、俺達は満足に飯も食えないのに金持ちのお前らは肉を食いやがって、お前らは、お前らは――
こうなると民衆の暴徒化を防ぐことはできず、権力者と民衆の間に深い溝が生まれていった。やがて武器を取って立ち上がった民衆は、スティーラの親類を皆殺しにした。無論、人が死んだとしても冬が去るわけではない。殺し合いは内輪すら巻き込んで拡大していき、スティーラの故郷は白い雪に埋もれていった。
長い長い冬季が終わり、数週間をかけて雪が溶ける。
生き残ったのはスティーラただ一人だった。
「……スティーラはお姉様に言われたわ。……どんなことをしても、人を食べてでも良いから生き残りなさいって。……食糧が尽きた後の三ヶ月間、スティーラは人を食べ続けて飢えを凌いだの。……少しの肉も余さずに、全て食べ切った」
冬季で気温が低かったのは運が良かった、とスティーラは話す。肉の腐敗が遅れ、保存期間が長くなるからだ。燻製にしたり、焼いたり、生で食べたり。様々な方法で人を食べた。躊躇は無かったと言う。ただ、複雑な感情が渦巻いていた。戦いを止める術は無かったのか、どれだけ考えても答えは出なかった。
いつからか、スティーラは人の肉を美味しいと感じるようになった。そればかりか、食べることでその者の生き様や人生すら感じ取れるようになった。彼女にとって、食することはコミュニケーションの一環になった。殺してくれと頼み込んでくる瀕死の者の人となりを、食することによって理解していく。食人による人の理解が耐え難い快楽になっていた。
「……スティーラは冬が好き。……あの時を思い出せるから。……食べることも好き。……その人の本質を理解するのが好きだから」
セレスティアはその締め括りを聞いて、スティーラは狂っているんだなと思った。しかし、哀れでもある。恐らくゲルイド神聖国の外の出来事なのだろう、でなければ幹部の誰かが出向いて救出していたはずだから。
「……だから、オクリーを食べないとスティーラの気分は永遠に収まらない。……アーロス様が居ないのを見計らって摘み食いする未来が見えるもの」
「自分で言うなよ」
ヨアンヌが嫌悪感を露わに吐き捨てる。どうしようもない人格に形成されてしまったスティーラ。二度と普通の人間に戻ることはないのだろう。
『しかしスティーラ、教団的には有能な教徒を食べられると困るんですよ。どうにか抑え込んでくれませんかねぇ。このままだとあなたを再教育する他ありませんよ』
「…………」
『まぁ、分かっているとは思いますがね』
スティーラの頭をポンポンと撫でたアーロスは、そう言うと闇に溶けるようにして姿を消した。気まずい三人が取り残され、セレスティアは頬を掻く。そんな中、ヨアンヌが指を突きつけて少女の胸を押した。
「スティーラは食べられる側の気持ちを考えたことが無いんだろ」
「……食べられる側の気持ち?」
「そうだよ。オマエの過去の状況が特殊すぎただけだ。普通は人なんて食わねぇからな」
「…………」
アーロスに『再教育』を暗喩され、ヨアンヌに口調を強めて追撃され、流石に参ってしまったらしいスティーラはしょんぼりと口を結ぶ。彼女の思想が反映されて教団の食人環境の一部が形成されたとはいえ、今のスティーラは暴走しすぎである。周囲をきょろきょろと見回して、セレスティアが味方してくれそうにないことを悟ったのか、彼女は更に落ち込んでしまった。
おもむろに料理包丁に手を伸ばしたかと思うと、スティーラは左手首を切断して火を通した。
「何してる」
「……食べられる人の気持ちになってみる」
「はっ?」
言いながら、ヨアンヌの腕の中で眠るオクリーに左手の姿焼きを突きつけるスティーラ。強烈な嫌悪感が渦巻いていたが、衝撃のあまり止められなかった。セレスティアもこの奇行にはびっくり仰天。悲鳴すら上げられない。
真っ白なオクリーの唇を押し上げて、焦げ目のついた人肉が彼の口内に収まった。反射的に、スティーラはぞくぞくとした悍ましいほどの恍惚が襲ってくるのを感じてしまった。
「…………気持ちいい」
「何言ってんだオマエ」
「……食べられるの、気持ちいい。……少しだけ気分が晴れたような気がする」
「あの……正常なのはわたくしだけですか?」
「アタシも狂人判定かよ」
セレスティアが呟く。だが、発言者のセレスティアは邪教徒に洗脳されている。カニバリズム系美少女、肉体交換精神支配系美少女、被洗脳系修道女。残念ながらこの空間にまともな人間は一人も存在しなかった。
かくして、スティーラの性癖はオクリーの知らない間に悪化することになった。
オクリーに対する食欲は若干軽減されたが、その飢餓の穴を埋めるべく、彼は知らぬ間にスティーラの肉を食べさせられることになったわけである。




