五四話 愛のムチ/ポークさんの憂鬱
ヨアンヌの目的は、俺を強化しつつ心をへし折って彼女の野望に巻き込むことにある。必要以上に痛めつけてくることも考えられるため、二本目以降は警戒しなければならない。
それにしても……怪力に任せた戦い方しか知らないと思っていたのに、彼女は剣の防御に長けていた。剣を扱う幹部連中と戦う中で、その技術が身体に染み付いたのだろう。
俺は久々に剣を握ったが、戦闘力自体は衰えていないはずだ。何せ死ぬほど鍛えられてきた基礎がある。処分されるか否かの水準を超える戦闘力は確実に備わっているのだ。何度挑めば一本取れるのかは分からないが、きっと何とかなるはずだ。きっと――
「はあっ!」
一本目は額を小突かれる程度で済んだが、二本目からはそう優しくなかった。
二本目。一本目は縦に振り抜いて空を切ったため、横薙ぎに剣を切り付けた。すると、彼女は人差し指と親指で模擬刀を受け止める。しかも、左手の薬指を傷つけまいと左半身を庇うような動きすら見せた。
「そんなんじゃアタシみたいなか弱い乙女相手にも勝てないぞ」
途方もない絶望感。かつてセレスティアと相対していた時と同じ無力感が背中に広がる。一本目と違って本気で潰しにかかってくるヨアンヌは、俺の土手っ腹を袈裟蹴りにしてきた。
衝撃を食らって地面に弾き飛ばされる。薄く積もった雪の上を転がり、咳き込みながら血を吐いた。速度を失って身体の回転が止まると、僅かな気持ち悪さと同時に立ち上がらなければならないという強迫観念に囚われる。定まらない視界の中、ヨアンヌは腕を組んでいた。追撃はしてこないようだ。
「軽傷で済む程度には手加減してるから大丈夫だ」
「っ……」
即座に治癒魔法を掛けられて、俺の身体から痛みが抜けていく。俺は見た。ムチのように鋭い蹴りを食らう寸前、速度が落ちていたことを。
ヨアンヌは本当に手加減してくれているのだ。俺を殺さないための予防線ではあるのだが、その事実にどうしようもないくらい腹が立った。情けない。この世に名も無き達人は多く存在する。こんな世界だからこそ、ホイップのような実力者は隠れてしまっている。そいつらは今の手加減したヨアンヌよりも遥かに強い。彼女に負けてどうするのだ。
三本目。刺突による攻めを展開したが、突き出した手首を真下から叩かれる。激痛と共に模擬刀が弾かれ、膝から崩れ落ちてしまう。歯を食いしばりながら鈍い音のした右腕を見ると、関節が一つ増えていた。ぎょっとして痛みの感覚が飛ぶ。真上に約一〇度、見事に折られていた。
俺の様子を見に来たヨアンヌは、「休憩するか?」とあくまで優しい声色で聞いてくる。煽るようなその口調に、俺は強がって拒絶した。
(攻めの展開力があまりにも貧弱だ。狙い済ましたカウンターしかしてこない相手に、俺は何をしている? ……弱い。どうしようもなく弱すぎる……)
あまりに綺麗な骨折だったので、痣すら残さず傷は完治した。
四本目。積もった雪を蹴り上げて目潰しを敢行したが、見事に回避されて回転蹴りで迎撃される。ヨアンヌも段々と力が入ってきたのか、攻撃を受けた腹の中で爆発音が響き渡った。身体が屈曲する。全身に怖気が蠢く。だが、交換よりは遥かに弱い衝撃だ。内臓が破裂しても何とか心は折られずに済んだ。
どうやっても、敏捷性、反射神経、出力では絶対に敵わない。恐らくテクニックでも話にならない。というか、テクニックに関してはそこで争える舞台にすら立てていないのだろう――彼女にしてみればスピードとパワーだけのゴリ押しでも勝てる相手なのだから、技術を振るう必要すらないのだ。
(今のヨアンヌはごく一部のスピードとパワーを発揮しているだけ。甘い攻撃に対するカウンターしかしてこないヨアンヌに勝てないんじゃ、ホイップにすら勝てない! その程度じゃ、俺の目標が達成できるわけないだろ!?)
普通、人間が唐突に強くなるなんてことは有り得ない。都合の良い覚醒はこの世界に存在しない。強者の土壌を蓄え、条件付きで神の領域に近付くことを許されたのはたった一四人。その一人が目の前の少女、ヨアンヌ・サガミクスなのだ。
内臓を治癒してもらった後、俺は出来る限りの悪あがきをした。目に付いたものは全て使った。己の血。石。土。木の枝。風。しかし、その全てが悉く跳ね返された。
殴って、蹴られて、躱されて。
顎を揺らされ、ひっくり返され、股間を蹴り上げられて。
何回か意識を掻き消されながら、とにかく場数を踏んだ。この世に生きる数少ない修羅との戦いを何度もやり直せるとあって、とてつもない経験値が身体に刻み込まれていくのが分かった。濃密な時間による成長が止まらない。激痛による精神摩耗が止まらない。
(き、気張れよ俺……!)
九四本目。我武者羅な剣戟が、初めてヨアンヌの防御をこじ開ける。
これまで剣の平の部分を拳で捌いてきた彼女だったが、鬼気迫る俺の勢いに気圧されて、姿勢を崩しながら後方へバックステップした。ヨアンヌから一本をもぎ取るべく、疲労で棒のようになった脚に鞭を打って跳躍する。
そこで俺の攻勢は終わった。タイミングをズラして攻撃を受け流した彼女は、バランスを崩した俺を受け流して地面に投げ落としてきた。視界に飛び交う火花。俺は強打した耳をくしゃくしゃに掴んで、地面をのたうち回った。
痛いなんてもんじゃない。凍った地面に叩きつけられた耳が極限の痛覚信号を発令して、凄まじい激痛を孕んでいた。鼓膜が破れている? 分からない。耳の穴からドロドロに溶けた脳が溢れ出してきそうだ。
この痛みすらヨアンヌの狙い通りだとしたら、彼女は人の心を折る方法を心得すぎている。
それでも確かな進歩がひとつ。ヨアンヌに技を使わせた。彼女は微かに押され始めている。この調子で経験を積めば、もしかしたら――
――そして、九五本目。吹雪に紛れるような神速の蹴りを喰らい、その甘い考えは吹き飛ばされた。
組手は早朝の開始だったにも関わらず、俺達の訓練は夕刻まで続いた。周囲から人の声がしなくなり、吹雪の叩きつける音だけが響く中――
迎えた一五七本目。突然周囲が暗くなり始め、ヨアンヌが不意に空を見上げた。日没の時間になったのか。ヨアンヌの隙に反射的に行動できるようになっていた俺は、疲労困憊の脚で雪原を疾走する。
刹那の隙。しかし、集中力の切れかかった相手を畳み掛けるには充分な時間。ヨアンヌの下方に潜り込むようにして、渾身の力で剣を切り上げる。飛び散る雪と汗。防御行動が遅れてしまった少女は、この日初めて模擬刀の直撃を貰うことになった。
「おく――ッ……!」
右の上腕に通る刃。模擬刀とはいえ、装甲のない少女の柔肌を切り裂くことなど容易い。跳ねるような動作で剣を振り抜くと、彼女の右腕に一筋の血が伝った。
長い時間の中で集中を切らさなかった俺に対しての賞賛なのか、狂気的な笑みを漏らすヨアンヌ。彼女は血を舐めとると、その敵意を封じ込めて出血を止めた。
「オクリー、今何本目だ?」
「ひゃ、ひゃく……ごじゅう……なな、です……」
「どんな形であれ、一本は一本。激痛と疲労に耐え忍んでよくぞやり抜いてくれた」
ヨアンヌは軽く拍手すると、木に引っ掛けていたローブを着込んでこちらに寄ってくる。そのまま俺の身体ごとローブの内側に巻き込んできたかと思うと、ヨアンヌは耳元に優しくキスしてきた。
「明日も頑張ろうな」
……この地獄の訓練、明日もあるんですか。
☆
フアンキロの的確な指示とポークの毒の棘の能力によって、聖地メタシムの復興は完了した。しかし、かつての活気に溢れた街の姿はなく、毒の棘に囲まれたメタシムは澱んだ雰囲気に包まれている。
凶暴な魔獣の対策としてそびえ立った街の外壁は、邪教徒と外界を隔絶する壁となっていた。ポークが張り巡らせた棘は破壊された外壁を修復するように穴を埋め、誰一人として登れないよう一分の隙間もなく荊棘の茎を伸ばしている。
唯一毒の棘の侵食を受けずに無事な箇所は、外壁上の通路くらいだ。外壁上で東西南北に配置された邪教徒達は、敵襲に備えて遠方の物見を担当することになっている。
メタシムはゲルイド神聖国において辺境に存在するため、地図の上から消えた当都市周辺を通りかかる人間は滅多にいない。加えてメタシムには広範囲に渡ってアーロスの認識阻害が働いているため、メタシム地方は正教徒の気配が一切しない邪教徒の楽園になっていた。
更に、ダスケルの街がとある一般邪教徒によって壊滅したため、ダスケルがメタシム地方と正教側領域の緩衝地帯になっている事実もメタシムを隠すことに一役買っていた。ダスケルを潰せたお陰で、正教幹部がメタシム奪還に動くのは相当先延ばしになっているだろう。
実際、メタシム及びダスケルが陥落して数ヶ月――ケネス正教側に何の動きも見られないのが答えだった。彼らにしてみれば、正教が誇る精神的支柱・セレスティアを失ったのがあまりにも致命的である。
仮にメタシム地方に近付いてくる者がいたとしても、一定距離まで接近するのが限界。街には辿り着けずに素通りしていく。何故なら、認識阻害によって聖地メタシムが偶然目に入らないからだ。
とても大事なことを話そうとしていたはずなのに、いざ話しかけると雲を掴むように話の内容が消えてしまう現象のように――来訪者の視界に街の外形が映ったとしても、次の瞬間には別の何かに気を取られてしまう。
アーロスが扱う認識阻害の魔法は、人の無意識下に影響し、対象への関心の優先順位を意図的に下げるという原理によって働いている。たとえメタシムという広大な街であろうと、彼が魔法を掛けてしまえばその存在は消えていく。忘れ去られていく。認識阻害の働くモノには制限があるものの、対象物への概念を捻じ曲げられるのだから規格外の魔法である。
「おっ、珍しく人が来たね」
暇を持て余したポーク・テッドロータスは、外壁の上に腰掛けながら眼下で蠢く人影を発見して身を乗り出す。数キロメートル先、旅人らしき風貌の男が大股で歩いてくるのが見えた。
「それ以上近付くのはまずいんじゃないかな? あぁ、危ない危ない危ない……!」
暇潰しと言わんばかりに、楽しげな独り言を叫ぶ男装の麗人。彼女は弦の代わりに毒の棘を張った強化バリスタに手をかけ、アトラクションを楽しむ子供のようにその兵器を操り始めた。引き絞られた矢羽付きの槍が向かう先は、もちろん旅人の胴体。罪なき旅人に狂気の照準が纏わり付く。
毒の棘が絡み付いた槍は、金属製の矛先すら汚染してその性質を変異させている。たっぷり引き絞られた特製の弦から放たれたら最後、毒死に至る槍が音速を超えた速度で襲い掛かるだろう。
一般人なら掠っただけでも逃れられぬ毒死が待っている。直撃を避けられたとしても、槍の中に入り込んだ棘の芽が四方に解き放たれ、毒の棘が放射状に炸裂するだろう。旅人は知らぬ間に絶体絶命の危機に瀕していた。
「…………」
だが、旅人は気付かぬ間に難を逃れることになった。異様な邪教徒の街を目撃した瞬間、突然上の空になって歩行を再開したのだ。彼の足取りは、導かれるように聖地メタシムを避ける道へ逸れていく。
これが認識阻害の魔法。その時に考えた思考すら無虚に還してしまう無法の能力――
ポークはバリスタから身を引き、つまらなさそうに唇を尖らせた。
(凄いなぁアーロス様は。寺院教団がここまで巨大化できたのは認識阻害の魔法があったからと言っても過言じゃないよね……)
退屈そうに、教祖アーロスの威厳を確かめるように、ポークは旅人の背中を見送る。監視している担当に聞いたところ、メタシム地方を人が通ったのはこれで三度目らしい。道理でケネス正教が諜報員すら寄越せないわけだ。
この街に入れるとしたら、方法はおよそ二つ。一つ、聖地メタシムに入る邪教徒の後をつけて認識阻害を強引に打ち破って侵入すること。この方法に関しては、ダスケル崩壊直後のセレスティアが敢行してきた。作戦自体がお粗末なものだったため結果は返り討ちだが、今のところ追跡によるメタシム潜入が最も可能性の高いシナリオだ。
二つ目の方法に関してはアーロスを殺害して認識阻害の魔法を解消することなので、考えなくても良い。
ただし、メタシム地方を通りかかる旅人が偶然気付かないとも限らないので、アーロスはこうして監視を頼んでいるわけである。
ポークは外壁を飛び降り、聖地メタシムをあてもなく歩き始めた。
「オクリーとヨアンヌがいれば暇はしなかったけど……最近は正教の動きもなくて暇だなぁ」
そう呟きながら、ポークは部屋主の居なくなった部屋を覗きに行く。当然幹部候補の彼は帰っておらず、部屋の中には埃が舞っていた。
ポークはオクリーがいなくなってから、本当に何となく彼の部屋の掃除をしている。新築の部屋を血肉塗れにされたトラウマがあるせいだろうか。ポークは当時の衝撃を思い出しながら、毒の棘の先を扱って彼の部屋の掃除を始めた。
「今思い出してもムカつくなぁ。普通、幹部様に事後の後始末させる? あのバカップル、本っ当にサイッテーだよ……」
別に帰りを待ち侘びているわけじゃない。本当に何となく、そこに居ればいい……そう思っているだけなのだ。
ポークは部屋がピカピカになるまで掃除した。
 




