三七話 上方置換、下方置換
気を確かに保たなければ、精神汚染は瞬く間に進んでいく。この異常事態に受け身でいるのはまずい。移動要塞計画を思いついた時のように自ら行動を起こさなければ、邪教徒共の狂気に塗り潰されてしまう。
痛みに耐え忍ぶのと違って、直接的な精神汚染に抗う術など存在しない。どうしようもないのだ。思考汚染の影響で現状打開の妙案は浮かんでこなかったが、完全に正気を失う前に無理矢理にでも心臓を奪い返すしかなかった。
ヨアンヌは俺のことを好いている。しかも肉体を傷つけること、傷つけられることに嫌悪感がない。彼女の好意と嗜好の隙につけ込めるかもしれない。
ヨアンヌを抱き締める縋ら、背面に隠し持っていたナイフをすらりと抜き放つ。そのまま後ろ手にナイフを振りかぶり、ヨアンヌの小さな背中に刃の部分を叩きつけた。
ぐりぐりと押し付けるようにして、俺はヨアンヌの背中に血の円を描く。
完全な狂気に呑まれた時、俺はきっとヨアンヌを傷つけられなくなる。愛することしかできなくなる。俺が俺でなくなる前に心臓を取り返してやらないと。
肉を掻き分け、油をすり抜ける感覚が手に伝わってくる。しかし、背中の肉を抉られ、背骨を切断されたはずのヨアンヌはビクともしなかった。
恋人に背筋をなぞられ、くすぐったいよ、と身を捩る程度の可愛らしい反応しか見せない。くすりと微笑んだヨアンヌは首を傾げて俺の行為の真意を質問してきた。
「何をしてるんだ? もしかしてもっと交換したくなったのか?」
その様子は、まるで袖を引っ張ってくる幼子を前にしたかのよう。
一般邪教徒と幹部の絶対的な差を覆すことは出来ないという虚しい事実が立ちはだかっていた。
彼女の言葉が終わると、噴き出した多量の血が滑稽に思えるほど傷口がぴったりと閉じていた。肉が引き締まり、ナイフを動かすことも抜くことも叶わない。ナイフの柄が彼女の背中に生えている状態だ。その柔肌を切り裂いた証拠は、切断された服と部屋の中に飛散した血だけ。
渾身の力で捻るようにしてナイフを押し込んでみても、ヨアンヌは俺の行為を興味ありげに観察するだけだった。
「はは、上手くいかないのか? アタシがしてやるよ」
ヨアンヌが俺の手を取り、突き刺さったナイフを引き抜く。打って変わって、ヨアンヌが刃物を握る番になった。俺の行為を真似するように、ヨアンヌが腰に絡み付いてきながらナイフを振りかぶる。
血塗れの鋒が背中を切り開こうとするが、俺はすんでのところでナイフを蹴り落とした。
「交換をしたいわけではありません。心臓を返してほしいのです」
地面に突き立つナイフ。その言葉を聞いて呆れ返るような反応を見せたヨアンヌは、何度も言わせるなと会話を打ち切った。
「アタシは嫌。オマエの心臓を手放す気はない」
言い方は駄々っ子のように可愛らしかったが、その瞳には強い意志が宿っている。胸倉を掴んで怒鳴りたくなる衝動を人格矯正によって鎮静されながら、俺は何とか奪還の意志を取り戻した。
「私とて元の場所に戻すのは本意ではありません。ですが、先日の大規模な置換実験に長期的視点が抜け落ちていたのは事実。交換の影響で私が死んだらどうするのですか」
「その点に関しては問題ない」
「え……」
「実験の日、アタシとオマエの内臓の欠片を採取させた。その後に二つの細胞を融合させ、肉体時間を加速させても問題なかったのは既に実証済みだ」
――投薬による肉体の急成長。それは、肉体の時間を進めることに他ならない。ものの数日で赤子を一〇歳まで育てるように、細胞同士の実験も可能だったということか。
それを見越して内臓を散らかしまくっていたのだとしたら、ヨアンヌはあの時から俺の心臓に狙いを定めていたのだろう。
この女、妙なところで合理的かつ打算的だ。
とことん厭らしい。
「あ……また動いた。結構分かりやすくて好きだぞ、オマエの身体」
トクン、トクン。うねるヨアンヌの心臓。翻って、ヨアンヌの身体の中では、持っていかれた俺の心臓が苦しんでいるらしい。
今の俺は、ヨアンヌの心臓を取り返す理由が弱い。フアンキロやポーク達は、移動要塞計画を実行する時に手を貸してくれるのであれば、色恋沙汰は当人達で話し合って解決してくれ、というスタンスを取るだろう。
肉体自体に及ぶ実害はないと証明されてしまっているし、精神面の悪影響を伝えたところで聞く耳を持たれない可能性が高い。
……精神面の悪影響と言っても、俺の場合は心の邪教徒化だ。フアンキロ辺りにほじくり返されたら厄介なことになる。結局俺とヨアンヌの間で折衷案を出さなければならないだろう。
(精神の混濁がヨアンヌにも起こっていれば、俺の良心でつけ込める隙が生まれるんだが……)
俺はヨアンヌを睥睨するが、彼女が考え直してくれそうな様子はない。浄水に一度泥を落としてしまえば二度と清らかにならないように、彼女の心は晴れないのだろうか。
ヨアンヌの変化が無いことに納得しようとしたその時、ヨアンヌの螺旋状の瞳が二重にブレた。
「う……!?」
頭を抱えたヨアンヌがその場に蹲り、小さな体躯を震わせる。明らかな拒絶反応。その反応は、ヨアンヌの混沌に魅入られた俺の反応と似ていた。
俺とヨアンヌの心根は、水と油ほどの差がある。根っこから違う思考回路が介入してきて混乱しているのだ。しかし、彼女の表情はどこか嬉しそうだった。
「また来た……! あの時は分からなかったけど、これがオマエの本当の気持ちなんだな!? あは、あはは! オマエの心、滅茶苦茶じゃないか!」
満面の笑顔の横に、滝のような汗が流れ落ちていく。ヨアンヌは髪の毛を掻き毟って苦しみ喚く。彼女の精神もまた、どちらに行くかを迷っているようだった。
大好きな男と同じモノに染まるのか。崇拝する教祖の精神を維持するか。彼女の心は大きく揺れていた。
まさか、記憶転移による変化がヨアンヌのような人間にも有効だなんて。俺もまた彼女の精神に思考を侵されながら、ふと幹部全員へ臓器を移植したらどうなるのかと考え始めた。
ヨアンヌが影響されているのを見るに、恐らくほとんどの幹部が記憶転移の影響を受けるのだろう。ただ、自分で自分をコントロールできそうなアーロスは除外だ。アイツは自分で自分を洗脳することができる。
臓器移植さえしてしまえば、俺の思考回路で邪教内を染めることができるのだろうか。
もし可能なら、アーロス寺院教団の乗っ取りという凄まじい逆転の目が見えてくる。
だが、物理的な問題があった。俺の臓器は幹部七人にばら撒けるほど多くないのだ。
五臓六腑という言葉があるように、まともに人間に存在する内臓は十数個だ。大腸や小腸は長すぎて上手くいかないだろうし、その他の臓器も体格差や性差などの影響を受けるため、実際に移植可能なのはもっと少ない。ヨアンヌはそういう部分を全て無視して独断で心臓交換を敢行したのだ。
何より交換の際は体力を凄まじく消費する。交換した後も精神的異常や身体異常を来す恐れが非常に高い。やらない方が賢い判断なのは言うまでもなかった。
しかも、記憶転移が起こるかは全て運だ。
たまたまヨアンヌと俺の相性が良かったから起こっただけの可能性もあるし、移植する臓器が心臓という超重要器官だったから起きたのかも分からない。不確かな可能性に精神を捧げられるかと問われれば、覚悟の面では問題ないが、確証が弱いためそれには至れなかった。
非戦闘員のフアンキロや、無敵に近いアーロス辺りに臓器を移すメリットは皆無だろう。保険として肉片を外部に移しておきたいのなら、指などの簡単に着脱可能な部分でないと転移を行う際に不便だからだ。内臓は特別な理由や実験などの名目がなければ不可能だろう。
(俺の一部をばら撒く作戦は非現実的か。……待てよ? 記憶転移で期待するべきなのは、記憶の共有なんかじゃなくて性格の転移だ。これはある意味洗脳と同じ――! いるじゃないか、洗脳を必要としている人物が!)
ここで気付く。
――では、セレスティアと臓器を交換したら?
彼女の精神は洗脳状態にある。しかし、臓器移植によってかつての心を取り戻せるのだとしたら。記憶転移に起因する洗脳の上書きが可能かもしれない。
気がかりな問題は、今汚染された精神状態の俺の臓器を移植しても良いのかということ。今の俺にはヨアンヌの狂気と行動原理が入り込んでいる。汚染された臓器を相手が受け入れた瞬間、更に取り返しのつかないことにならないとも限らない。
(問題は山積みだ。けれど、野望への望みが消えたわけじゃない。セレスティアに俺か正教徒の臓器を移植させるか、もしくはクレスによる洗脳の上書きで正気を取り戻させる。手段が二つもあれば充分だろう、思わぬ所から希望が湧いてきたぞ……)
俺とセレスティアが内臓を交換する理由付けは何とでもなる。正教幹部に対しても移動要塞計画は実行可能なのか、とか、知りたいことはいくらでもあるからだ。
発狂寸前に至るまで分からなかった知見。無力な俺が得るには余りにも大きな発見に、思わず拳を握り締めた。
孕み袋という悪魔の所業から産まれ落ちたモブの逆襲だ。お前らの好きにさせるものか。絶対に殺してやる。怒りに猛り狂う精神がヨアンヌの狂気を塗り潰す。深い絶望から解放され、一時的な精神の支配権が俺に移る。
「ヨアンヌ様」
「あ、あぁ……何だ?」
俺の心が注ぎ込まれていき、様子が変わっていくヨアンヌ。彼女は俺の内臓を受け入れた第一人者だ。宣告の苦しみと同じくらいの衝撃が彼女の脳内を掻き回しているはず。痛みに耐えるそれとは別の脳回路が必要になってくるため、普通の人間なら即座に参ってしまうだろう。
「提案があります」
だが、ヨアンヌは選ばれし寺院教団の幹部。精神強度の高さは常人の想像を優に超えてくる。俺と同じように精神混濁を乗り越え、すぐに元の精神を取り戻すはずだ。
それでこそヨアンヌ・サガミクス。
邪教で最もしぶといサイコ女だ。
「もっと交換してみませんか?」
――セレスティアを救う前に、この女を黙らせてやる。
我慢比べをしようじゃないか、ヨアンヌ。
俺とお前、どちらの精神が先にイカれるか。
俺の精神がヨアンヌの色に染まるか――
ヨアンヌの精神が俺に染まるか――
チキンレースだ。対決しようじゃないか。
時間を掛ける対決などつまらない。
内臓を交換する。
交換して交換して――先に染まった方が負けだ。
「――いいのか、オクリー」
「はい」
「いきなり心変わりするなんて……嬉しいよ」
俺は苦しむヨアンヌの手を取って、ナイフを手渡した。
ヨアンヌは俺の思惑を察しているだろう。邪教の心と反する正義の心を持った俺が混ざり込んできて、気付かないはずがない。ヨアンヌはナイフと俺を交互に見た後、愛の混じった微笑みではなく闘争心を剥き出しにした笑みを浮かべた。
――純粋な殺し合いなら、逆立ちしても敵わない。
だが、精神面の我慢比べなら一般人にも勝ち目がある。
「――じゃあ、始めようかオクリー。きっと、この世のどんな行為よりも倒錯的で気持ちいいぞ」
俺はヨアンヌに腹部を切り裂かれながら、未だに収まらぬ邪悪への怒りを脳髄に集約した。




